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 ルフィの解凍を済ませれば、あとは医者の領分。心臓の鼓動が戻らないルフィとロビンをチョッパーに任せ、邪魔にならないよう他の者達は甲板で待ち続けていた。

 煙草をくゆらせ甲板に腰を据えたサンジ。敵の襲来があっても即座に動けるよう佇立して腰の刀から手を離さないゾロ。天候を逐一見ながらもうろうろと落ち着かないナミ。手持ち無沙汰で大人しくしていられず使ったタオルを時間をかけて丁寧に干したウソップ。そして、メインマストに背を預けて目を伏せ、ひたすらに“声”に集中しているクオン


「…………」


 その白い肩に、見慣れたハリネズミの姿はない。ハリーは最近チョッパーの助手まがいなことをしていたこともあり中に呼ばれている。ちょこまかと動き回る様子が、クオンの暗く閉ざされた瞼の裏に視えていた。






† 停泊 1 †






 どれだけの時間が経っただろう。干されていたタオルが乾き、やはり不安と焦燥で落ち着かないウソップが取り込みに行った頃。

 ふと、クオンは“声”を捉えた。あまりにも小さく、けれど確かな鼓動が“声”となってクオンの頭に響く。はっとして瞼を開いた。瞼の下で揺らめいていた鋼は鈍色の底に沈み、血の気をなくして青褪めていた顔が僅かに跳ね上がった。その動きに気づいたゾロが反射的に視線をよこすとほぼ同時、扉の向こうからバタバタと近づいてくる荒い足音が全員の耳朶を打ってそちらに意識が向いた。
 バンッ!と勢いよく開かれた扉から、両目から涙を流したチョッパーが姿を現す。帽子にやや疲れた様子でハリーが寝そべっていた。


「ウウッ…ウッ…!」


 言葉にできない呻きをこぼすチョッパーに、クオン以外のクルーの表情がまさかという思いに染まる。しかしチョッパーはハリーにぺしんと軽く帽子を叩かれると鼻水をすすって仲間を見た。


「2人共…心臓が……動いた!!」


 瞬間、甲板がどっと歓喜に沸いた。


「やったー!!うおおお~~~い!!!」

「ルフィ~~~!!ロ~~~ビンちゃ~~~ん!!!」

「ダメだ!まだダメ!!入ったら騒ぐだろ!!」


 手に持っていたタオルをたらいごと放り出し諸手を上げたウソップが歓声を上げ、サンジが安堵に満ち満ちた大声で名を叫ぶ。今にも飛び込んでいきそうな2人をすかさずチョッパーが止めた。
 ゾロとナミもようやく肩に入っていた力を抜いた。ゾロは刀から離した手をポケットに入れ、ナミも頬をほころばせてウソップが放り投げたタオルを集める。
 居ても立っても居られない様子のサンジがコックとして何か作るぜと“Dr.チョッパー”と称賛をこめて呼び、それに照れて相変わらず妙な踊りを披露しながらチョッパーが目を覚ましたら体があったまる飲み物がいいよと返す。あとで2人をラウンジに運ぶから、とも付け加えて。

 分かってはいたが、医者に確かな言葉をもらったクオンも深く安堵の息を吐いた。マストに凭れ、形の良い唇を笑みにゆるめる。俯けば流れた雪色の髪が周囲を縁取った。甲板を映す視界がぼんやりと霞んでいるような気が、して。

 船を出すのかと航海士に問うゾロの声が鈍く耳朶を撫でる。出さないわよと即座に返したナミは、“記録ログ”はもう取れてるけど今日はここで泊めましょと続けた。
 輪郭をおぼろにしていく視界の端に、気の抜けた声を上げたウソップが入る。どっと疲れたようにマストに凭れて座り込んだ彼は、そのまま傍らにあるクオンの白い足に頭を寄せて全身から力を抜いた。


「……あんな強ぇのがこの先…おれ達を追ってくるのかな」


 青雉は海軍大将に相応しい実力を持っていた。否、垣間見たあの力すら、彼の全力の1割にも満たないだろう。そんなものが、海賊を─── 自分達を、追ってくる。捕まえにやってくる。今回は何とか助かったが、二度はないかもしれない。もし二度があったら。あるいは、青雉とは別の海軍大将に出遭ってしまったら。そんな不安がウソップの心を苛んでいた。


「……おれはただ…バタバタ騒いで終わったよ……」

「…寝ろバカ。疲れてんだよ、お前」


 ウソップの弱音にゾロがため息まじりに返す。クオンは小さく笑って同意しようとした。した、つもりだった。
 いいえ、いいえ。あなたはとてもよく頑張りました。ロビンを抱えて逃げ、解凍にも尽力し、細かな手伝いをいくつもこなして。各個人がそれぞれできることをしたのだ。それを比較する必要はない。謙遜も卑下もいらない。あなたも含めた全員が頑張ってくれました。そう言おうとして、けれど喉の奥からはか細い息がもれただけで。


(お、かし、い……ですね)


 秀麗な顔に笑みを貼りつけたまま、クオンはどこか遠い意識で呟く。頭が熱くてふわふわとする。感覚がほとんどない。視界が不明瞭で、己の心臓が弱々しく鼓動を刻んでいる。
 チョッパーのもとからクオンの肩へと移動したハリーは、いつもならすぐによく頑張りましたと褒めて撫でてくれる指が来ないことを訝ってクオンの顔を見上げた。そこには血の気が引いて青褪めた面差し。けれど、とても赤い─── 赤い?


「きゅっ……!」


 クオンの異変に気づいたハリーが仲間に知らせようと鋭く声を上げるより早く、白い痩躯の膝が砕けた。背がずるりとマストを滑って甲板に座り込む。そのまま姿勢を崩したクオンを横にいたウソップが慌てて支えた。


クオンどうし─── ぅあっちぃ!!?


 思わず触れた肉体の燃えるような熱さにウソップがぎょっと目を剥く。ハリーが何やら鳴きながら小さな手でぺちぺちと頬を叩いてくる感覚も鈍く、慌ててチョッパーを呼ぶ声も認識できないほど遠い。
 あれ、あれ、とクオンは内心で首を傾げた。どうして音が遠いのだろう。どうして“声”も聞こえないのだろう。どうして体が動かないのだろう。どうしてこんなにも熱いのだろう。どうして視界が暗いのだろう。何も見えない。何も聞こえない。どうして、何も、何も。


 ──── 無音の闇、が。


 心臓が一瞬鋭く跳ねる。背中に氷塊が滑り落ちた。何も映さない鈍色の瞳が凍ってひび割れ、怯えをにじませる。


「ぞ、………」


 無意識に名を紡いだ唇から熱くぬめったものがあふれた。急速に意識が遠のいていく。摩耗した肉体とかろうじて残っていた意識の乖離が遅れて重なったようだった。
 いたい、がもう分からない。こわい、ももう分からない。
 この肉体は元々毒と解毒剤の副作用と悪魔の実の能力の反動に苛まれていた。その上で冷水を浴び氷に触れ続けたことで悪化し、加えて悪魔の実の能力の反動がさらに損傷を深くした。摩耗し破損した肉体が限界を迎えて稼働停止に陥ろうとしていると、霧散しかけた意識で悟る。


(…………ま、だ)


 こわれたくない、と胸の内で叫ぶ未練が縋るように手を伸ばし─── それを誰かが掴んでくれたと同時、クオンの意識は深く昏い闇の底へと落ちていった。





†   †   †






ほころびの向こうに、“欠片”が落ちる。まるで流星のように。






†   †   †






 深い深い、闇の底。
 昏い昏い、闇の底。

 水が流れる音がする。
 風がめぐる音がする。
 木々が囁く音がする。

 誰かの嘆く声がする。
 誰かの願う声がする。
 誰かの祈る声がする。

 鷹に斬られて入った切れ込みの向こう。
 白い男が入れたひびの向こう。
 雷に焼かれたほころびの向こうから、たくさんのものが聴こえてくる。



「………………」



 深く、昏い、果ての底。ここはどこだろうと考えることもなく、なぜこんなところにいるのだろうと考えることもなく、夢を見ているような虚ろな表情でクオンはふらりと足を進めた。音の奔流が細かい記憶の欠片となって渦を巻き、それに身を任せれば見えてくるものがある気がした。
 固く閉ざされているこの向こうに鋼がある。かつての自分がその中に在る。誰かの手によって閉じ込められた自分記憶が、ゆぅらりとたゆたって眠り、時折目を覚まして瞬いている。

 クオンはそれが欲しかった。失くした記憶が欲しかった。過去の自分が知りたかった。自分という存在が何者であるのかが知りたかった。支えを失くして揺らぐ土台を固めたかった。

 ほころびに手を伸ばす。この向こうから記憶の欠片がこぼれ落ちているのなら、閉ざされた向こう側にいけば記憶は戻ると確信していた。
 けれどこのままでは通れない。ほころびの向こう側にいきたいのに、今のままではいくことができない。
 だから─── そう、だから。この肉体を砕いて、自分を魂の欠片にしてしまってほころびを通るしかない。だって私はなまくらと鋼を隔てるものを破るすべを知らない。だからそうするしかない。


「わたしは、だぁれ?」


 こぼれ落ちたのは幼いこどもの問いだった。年端のいかない少女にはその答えが分からなかった。何もかもを失くした女は問いの答えを欲しがった。
 欲しいものが得られる。この向こうにいけば。ほころびを通っていけば。この肉体を、砕いてしまえば。だから何も迷うことはなかった。欲しいものがそこにあり、得られる手段が分かっているのなら、そうしてしまえばいいだけのこと。何の躊躇いがあるだろうか。

 左の白い指先が、ほころびに触れる─── その刹那。

 くん、と右手が引かれた。


「…………?」


 右手を見下ろす。体のやや後ろに振られて止まった手は、まるで誰かに掴まれているように空中で制止していた。じんわりと手首から生じた熱がじわじわと腕を通って肩を過ぎ、心臓へと至ろうとする。浸食していくような、けれど不愉快ではない、心地好さすら感じるその熱に小さく首を傾げた。
 はなして、と唇が動く。だが音にはならない。しかしそれを聞きとめたように、手首にかかる圧が増した気がした。右手を軽く振ろうとして、けれどできなかった。ぴくりとも動かない手は強い力で掴まれている。

 白いこどもが苛立ったように顔を歪めた。何で邪魔をするのと幼い秀麗な顔がなじっている。
 白い少女は剣呑に目を眇めてほころびに伸ばしていた左手を右手首に伸ばした。見えない何かに触れて引き剥がそうとするが、がっちりと掴んでくるそれは外れない。
 白い女は困ったように眉を下げてどうしてと呻いた。どうして、ほころびの向こうにいかせてくれないのですか。

 あっちにいけば記憶が戻る。そうだ、はじめから私の記憶はあそこにあった。
 ほころびの向こうからこぼれ出るものだけでは足りない。時系列があやふやで、途切れ途切れで、現れる顔も判然としないものばかりではクオンという人間は分からない。けれど、ほころびの向こうにいけばすべて明らかになるのだ。

 ─── 記憶を取り戻したかった。失くしたものを取り戻すと決めた。そのためなら何だってしようと覚悟していた。

 左手が強い力に掴まれる。ぐいと両手を引かれて体が反転し、引きずられるようにしてほころびから遠ざけられた。たたらを踏んだ足は何の意味もなく。
 やだ、と叫んだ。やだ、いやだ。そこにあるのに。私の失くしたもの。私が欲しかったもの。私の記憶。私の過去。取り戻さなければならないもの。あっちにいけば。肉体を砕いて、魂の欠片になってほころびを通っていけば、求めたものが得られるのに。なのにそれを、どうして許してくれないのか。


「記憶を戻さなくちゃ。あっちにいかないと。だって、そうしなければ───」


 言いさして、クオンは瞬いた。唐突に理知を宿した鈍色が星くずのように煌めく。呆然としてずるずると引きずられるまま抵抗も忘れてほころびを凝視した。
 クオンは記憶が欲しかった。失くした記憶が欲しかった。過去の自分が知りたかった。自分という存在が何者であるのかが知りたかった。支えを失くして揺らぐ土台を固めたかった。


 ─── それは、なぜ?

 だって、私は。


「…………ともだち、に」


 あの子と、友になりたいと思ったから。
 それが最初。

 それから。


「こいが、したくて」


 2年前からの記憶しかない私では恋が分からないから、教えてもらった恋をちゃんと返せるように、あのひとにちゃんと「よし」が言えるように、そのすべを知っているかもしれない過去の自分が欲しかった。今の私だけではなく過去の私も含めて恋をしてほしいだなんて、そんな強欲なことを無意識に願っていたことにたった今気がついた。

 右手が解放される。次いで腰が強く引かれて背が反り顔が上を向く。ほころびを背にしたクオンの視界には何も映らない。真っ白で、真っ暗な空間がそこにあった。深く昏い魂の底、心の果て。もう遠いほころびから聴こえてくる音は何もなく、恐ろしい無音の闇がそこにあった。
 けれど。


「……ねぇ、あなたが見えないのです、ゾロ」


 おれをよく見とけと、そう言われて、見たいと思った男が鈍色の瞳に映らない。
 あの巨人の小さな庭で蝋の箱を斬り捨ててくれたときから彼の鮮やかな緑を目で追っていた。いいや違う、その前から。あの月夜の晩に、賞金稼ぎの島で相対したときからずっと、お互いにそうしていた。

 左手も解放され、腰に回った腕に力がこもって白い痩躯が宙に浮く。慣れた手つきで抱き上げる男の体温が心地好い。甘く目を細めて自由になった両手をゆるく伸ばせば、真っ直ぐにクオンを見つめる男の顔が見えた気がした。


「ここにいますよ、ゾロ。私が望む場所にいるあなた。私が戻るためのしるべ。私の、……未練」


 気を失う直前に縋ったこの手を掴んでくれたのはゾロだ。それからずっとこの手を掴んでくれていた。どこにもいかないように。戻ってこられるように。こわれないように。


「あなたがいるところにいきたい」


 そこは太陽が輝く場所。私の愛に満ちた場所。私の恋が生きる場所。
 どれだけ時間がかかってもいい。どれだけ遠回りしてもいい。どれだけ迷ったっていい。たとえその道のりが、どれだけ暗く深く静かなものだったとしても。
 ─── あなたの腕の中ならばもう、無音の闇も怖くない。







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