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 浮上した意識に沿って瞼を押し上げれば、そこは無音の闇だった。






† 停泊 2 †






 真っ暗で何も見えない。静かで何も聞こえない。けれど左手にひどくあたたかいものが包み込むように重なっていて、その熱を確かめるように左手の指に力をこめた。途端、ぴくりと左手を包む男の手が震える。


「………、……」


 まだ夜明けも遠い空気が微かに震える。長く細い安堵の息をゆっくりと吐き出した男の顔の輪郭が、少しずつ闇に慣れていく鈍色の瞳におぼろげに浮かび上がる。求める男の顔をようやく認めたクオンは、がんぜない幼子のような顔をして微笑み、細めた瞳に甘い蜜をにじませた。


「ゾロ」


 吐息のような掠れた声で名を呼ぶクオンに、ゾロは言葉を返さなかった。薄い唇が僅かに開き、しかしすぐに固く引き結ばれる。代わりに左手を掴む男の手に痛いほどの力が入って、どうやら余程の心配をかけさせてしまったようだ。
 倒れてからどれだけの時間が経ってしまったのか。明らかに男部屋ではないここはどこか。ゾロ以外のひとの気配がしないのは、どうしてなのか。高熱に侵された頭でぼんやりと考え、けれどすぐに流す。答えの出ない疑問よりも目の前の男に集中したかった。
 ゾロ、ともう一度名を呼んで重い右腕を何とか持ち上げる。ゆっくりと右手を伸ばせば、意図を察したゾロが横たわるクオンに覆いかぶさるようにして上体を寄せてきた。顔の横についた男の手からかかる体重で僅かに頭部が沈み、そこでようやく自分がマットの上にいることを知った。
 握られたまま離れない左手はそのままに、感覚の鈍い右手でゾロの頬に触れる。左耳で揺れる三連ピアスがどこからか射した光を反射して瞬いた。

 男の頬の感触は硬く少しかさついている。前に触れたときよりも荒れていて、さらに冷えているようにも感じるのは、自分の体温が高いせいか、夜気に長く触れたせいか、それとも。
 暗闇に慣れた目で見知った顔は見えても顔色までは分からない。まるでそこに隈があるかどうかを確かめるような動きで指をゾロの目の際に滑らせる。好きにさせるゾロの右手の指がクオンの左手の指の間に差し込まれ、太い男のそれが薄い手の甲を引っ掻くようにして撫でてクオンはほのかな笑みを深めた。


「ちゃんと、寝れていましたか、ゾロ」


 ゾロは答えない。だが眉間のしわが深くなったのがかろうじて分かった。


「……それなら、一緒にねましょう…?」


 触れた箇所から伝わる心地好い熱にぼんやりとした頭をさらにふわふわとさせて、クオンは茫と言葉を紡ぎ僅かに背中を浮かせるとゾロの頬からうなじに滑らせた指に軽く力をこめて誘う。
 断られるとは微塵も思っていない、いつもの、どこかいとけない笑みを浮かべるクオンをじっと見下ろしたゾロは、おもむろにふ──…、とはっきり長く息を吐いた。そうして指を絡めた手をマットに軽く押しつける。
 顔の横にあった手が腰に回り、脱力したように肩に顔をうずめるゾロの三連ピアスが小さく硬質な音を奏でた。男の胸板と自分の胸元が重なる。異なる体の内側から響く心臓の鼓動も重なったような錯覚がして、クオンは甘えるようにゾロの肩に頬をすりつけた。首に腕を回してさらに密着すれば慣れ知った汗と鉄の匂いが鼻孔をくすぐり、安心できるそれにゆったりと深く息を吐く。ああ、これ、好きですねぇと甘く眦が下がった。


「…………お前が……」


 惚れた女が生きて腕の中にいることを噛み締めていたゾロは、再びクオンがうとうととまどろみ男の首に回した腕から力が抜けた頃になってようやく口を開いた。ほとんど意識を眠りの淵に落としていたクオンが耳朶を叩く低い声にうっすらと瞼を押し上げる。


「このまま、消えるんじゃねぇかと………」


 そこから先をゾロは紡がなかった。けれどクオンには分かった。
 ほんの一瞬目を離せばその瞬間跡形もなくクオンが消え失せてしまうような不安と焦燥はひどく男の胸の内を荒らし苛んだのだろう。ほころびの向こうにいこうとするクオンを無理やり引き戻そうとするほど強く願ったに違いない。声なき男の懇願にも似た叫びが聞こえた気がした。
 肩にうずまるゾロの側頭部に己のそれを寄せる。暗闇の中、黒く塗り潰された白と緑が静かに混ざり合った。


「私は、ここにいますよ、ゾロ」


 重い唇を動かし、力をこめて震える喉から掠れた声を絞り出す。僅かな言葉を紡ぐだけでもひどく気力を要したが、伝えるべきことを伝えるためにクオンは懸命に口を開いた。空島に至る前、青海のジャヤの片割れで。朝焼けを共に迎えた男が自分と交わした約束の通りに隠さなかった痛みを受けとめて応えるために。


「ここにいろと、他でもないあなたが言ったから」


 そしてそれに、私は確かに頷いた。私はここにいたいと、心から。
 ……ああ、そうだ。そういえば、朝焼けを─── 夜明けを、この男と見たいとそのとき思ったのだった。

 重く疲労のにじむ吐息をこぼしたクオンは静かに瞼を落とす。すると固く指を絡めていた手が解放され、密着していた体も離れたことで間に滑り込んできた夜気の冷たさに眉を寄せた。ぬくもりを求めて無意識に伸ばした手を、すぐ隣に寝転んだゾロが掴んだ。
 マットが男の重さで沈み、女の痩躯が男の方へと傾く。ゾロは詰めろとも狭いとも言わずにクオンの体を僅かに持ち上げると丁寧な手つきで端に寄せて自分のスペースを確保した。端から落ちないようにか、腰に回った腕に引き寄せられて密着する。粗忽なように見えて気が利く男ではあるが、惚れた女相手となればよりそうなるのかもしれないと、今更のように気づいたクオンは素直にゾロの胸元に頭を預け、少し速い、けれど力強い鼓動を聞いた。

 マットの上に力なく落ちていた頭がやわく持ち上げられて下に男の腕が差し込まれる。大事な剣士の腕を枕にしてもいいものかと思ったのは一瞬で、以前同じことをしたし、何よりゾロが自らしているのだから気にしなくていいかと思い直した。
 心地好い囲いの中、クオンは無防備に全身の力を抜いた。雪色の髪に顔を寄せたゾロの吐息が少しだけくすぐったい。


「……寝る」

「夜明けのころに、おこしてください……」

「熱が下がるまで我慢しろ。ナミに泣かれてぇか」


 それは、いやですね。まどろみの中でそう思い、次いで早くも眠気を帯びたゾロの声がクオンの耳朶を撫でた。


「ちゃんと治ったら、いくらでもわがままを言え」


 全部を全部叶えてやる、とはゾロは言わないし、クオンもすべてを叶えてもらえるとは思っていない。けれどゾロはクオンがわがままを言うことを許し、極力叶えようとしていることは知っていた。今までのように、これからもずっと、そうするつもりであることも。


(ほんとうに、私にあまい、ひと)


 クオンは吐息で笑った。きゅうと心臓が甘く締めつけられてそわりと落ち着きが失せ、意味もなく目の前の男に抱きつきたいような気分になった。けれどもう指一本動かすのも難しくて、代わりに言葉を返そうとしたが、やはりそれも難しかった。
 呼吸が深くなる。すぅと意識が遠のいて、眠りのふちから転がり落ちるその刹那、さらに言葉を重ねた男の声がやわらかく鼓膜を撫でていった。


「おれは、お前のわがままに振り回されるのは嫌いじゃねぇんだ」







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