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 少しずつ、確かに、完全に凍りついて全身を白く染め上げられていたロビンが元の色をにじませていく。黒い髪、ジャケット、シャツ、ズボン、そしてクオンと触れ合う箇所から覗く肌。開かれたままの口の中にも、クオンは躊躇うことなく己の手を突っ込んで熱を与え続けた。

 チョッパーもウソップも決して手を止めずに水をかけ続け、一旦火針の石を使うのをやめたハリーもまた、後ろ足で思い切り水を飛ばして勢いよく水をロビンに浴びせている。
 全員が一丸となってロビンを救うべく動いているさなか、ふいに船の外から「チョッパー!!」と船医を呼ぶ鋭い声が飛んできた。





† 青雉 8 †






 ゾロに呼ばれてチョッパーが飛び出していっても、2人と1匹は手を止めなかった。
 開かれたままの浴室と船室の扉の向こうから仲間の声が聞こえてくる。どうやら戻ってきたのはルフィ以外の3人だけのようで、ウソップが顔を強張らせた。

 ゾロとサンジは凍った手足を何とかしたあと再びルフィと青雉のもとに戻るつもりのようだ。それが正しい、とクオンは内心で頷いた。ゾロとサンジがルフィを残してきたということは、それを他でもないルフィが望んだということ。しかしルフィの帰りを待つこともできない以上自由を取り戻すのは必須条件。ハンデを背負ったままルフィのもとへは戻れない。

 凍ったところを水で溶かさなければならないが、浴室はロビンの手当てに使われている。白いマントの下でやわらかな双丘にうめた女の顔にはりつく薄い氷を払いのけたクオンは、能力者ではない2人が上げた重い水の音を聞くとほんの微かに唇の端をゆるめた。

 低温で溶かしたら患部を摩擦しながら船に上がってきて、ナミはロビンの方を手伝ってくれよと声を張り上げたチョッパーが浴室に戻ってくる。少し遅れてナミが顔を出した。彼女はロビンを包み込み抱きしめているクオンに一瞬驚き、だがすぐに強い光を眼差しにこめて浴室へと足を踏み入れた。


「ハリー、2人にタオルを渡してください」


 ほとんど氷は溶けたが血の気が失せたロビンの顔から首へ手を滑らせて熱を与えながらクオンが言い、ハリーはひとつ頷くと即座に浴槽から飛び出していく。それを見送ったクオンはチョッパーがナミに指示を出すのをぼんやりと聞いていた。ふいにくらりと脳が揺れて意識が砕けそうになり、一瞬落ちた瞼を懸命に押し上げる。吐いた息は熱を帯びて、この熱を僅かでも移せればいいのにと詮無いことを考えた。
 ロビンの氷が溶けた首に手を這わせる。冷たい。鼓動が感じられない。心臓が止まっている。これでは体温を上げるための火針を打っても意味をなさない。クオンは手を伸ばしてシャワーヘッドを掴むとまだ凍っている箇所に直接水をかけた。


「生きてください、ロビン」


 静かな、心からの呟きがシャワーと跳ねる水の音にまぎれて消える。
 クオンはロビンが凍る瞬間を見ていない。しかし文字通り凍りついていた彼女の顔を見れば、どれほどの恐怖がその胸を満たしたかは想像に難くなかった。
 ただでさえ青雉に怯えを見せていたロビン。彼女の危険性を青雉が麦わらの一味に語るほどに顔色は悪くなっていた。動揺は隠せず、常の余裕も穏やかさもかなぐり捨てて震える足で立っていた。
 それほどに恐ろしかったのだろうか、己の過去を知られるのが。それほどに恐ろしかったのだろう、麦わらの一味から向けられる瞳から熱が失せていくのが。青雉の言う「利口な女」などどこにもいなかった。ただ黙って聞き流すこともできなかった彼女の心の底を、クオンははっきりと目にしたのだ。


「あなたは生きるべきです」


 だからクオンはそう言葉を紡ぐ。今の彼女の耳に届かないと分かっていて、どうか魂に響けと願いながら。


「たとえ世界があなたを許さなくても─── 私が許しましょう」


 ここにいることを。ここに在ることを。震える足が動かないのなら手を引こう。暗澹とした闇の底で蹲って動けないのなら抱えていこう。光が見えないのなら教えよう。私がそうされたようにしよう。俯かせていた顔を上げて、共に夜明けを見よう。朝焼けを広げて昇る陽の光を見よう。明けない夜はないのだと、何よりも自分自身が一番よく知っていた。

 ほとんど溶けてきたロビンを抱きしめる手に力をこめる。ふとウソップの怒声にも似た叫びが耳朶を打って、いつの間にかウソップが浴室を出て行っていたことに今更気がついた。一騎討ち、と聞こえて、成程と霞む意識の端で納得する。そうか、だから彼らはルフィを置いてきたのか。だから彼らは青雉に見逃されたのか。

 クオンは鈍色を滑らせた。甲板で男達が言い争う声を聞いたナミの顔色は悪い。一心不乱に手を動かしロビンを救おうとすることで、胸に渦巻く不安を誤魔化そうとしている。
 クオンは目を閉じた。刹那、瞼の裏に駆け抜ける光景。

 ─── よく見知った少年の氷像が、一体。

 けれど壊れてはいない。どこも欠けずに草原の上に佇んでいる。
 それをなした海軍大将はロビンを含めた麦わらの一味を追ってくるか。否、とすぐに答えは出た。ほころびの向こうで鋼が根拠のない確信を投げてよこしている。だからルフィは生きていると疑わなかった。だから、あとはゾロとサンジに任せよう。


「大丈夫。……大丈夫ですよ、ロビン」


 意識も呼吸も心臓の鼓動もない、ようやく氷がとけて、しかしそれでもなお氷のように冷えた彼女を胸に抱えたままクオンは血の気が失せた形の良い唇を動かした。
 シャワーの水を止め、急いで体を拭くよう指示を出すチョッパーに従ってロビンを抱き上げて浴槽から出したクオンが何の動作もなく自分とロビンにまとわりつく水分を引き離す。反動で開いた左腕の傷からあふれた血がシャツににじみ、だがそれは白いマントに覆われて隠され誰の目にも映らない。脳を刺す痛みを知覚していながら表情を変えずにクオンはロビンをチョッパーに預けた。
 はっと我に返ったチョッパーが急いで人型を取りナミと共に浴室を出ていく。ロビンにばかり注目していたナミは、傍らにある白いマントの合わせ目から覗く女のふくらみには気づかなかった。


「────」


 ふ、と一瞬意識が飛ぶ。反射的に壁に左手をついて傾ぐ体を支え、左腕から走った痛みに意識が戻った。足元でハリネズミの鳴く声が耳朶を打って薄い笑みを浮かべる。
 浴室の扉の向こうでばたばたとウソップがやってくる音が聞こえてきた。おそらく船の中にあるすべてのタオルを搔き集めて持ってきてくれたのだろう。


「……まだ、休むわけには、いきませんね」


 とりあえずロビンの解凍は済ませたが、まだ心臓は動いていない。このあと氷漬けにされたルフィも運ばれてくるはずだからこちらも急いで且つ慎重に解凍せねば。
 ひとりごちることで意識を繋ぐクオンはジャケットから腕を引き抜き、懐から取り出したハンカチを包帯状に引き裂いて手早く血に染まる部分をきつく締めた。着替えをする余裕がなかったから燕尾服は怪我をした箇所を中心に赤く汚れたままで、止血さえすれば新しく流れ出た血には気づかれないはずだ。次いで服のボタンをきっちりととめる。最後に全体を軽く整えれば、いつもの自分が鏡の中にいた。

 目を閉じてゆっくりと深呼吸を繰り返す。痛みはある。熱もある。脳が揺れて平衡感覚もあまりない。鉄の味が喉の奥でこごっている。一度喉を開けば鮮血があふれるのは分かっていた。
 このまま気絶できれば楽になる。そう分かっていて、けれどもそれは自身に決して許さない。取り繕え。覆い隠せ。気を失ってでも肉体を動かせ。己の愛が損なわれそうになっているというのに、倒れている余裕などあるものか。
 最後に大きく息を吸って、吐いて。瞼を押し上げたクオンは、鈍色の瞳を煌めかせて浴室の扉を押し開けた。





†   †   †






 ルフィとの一騎討ちを終え、海岸にて脱いでいたコートを着込み自転車にまたがろうとした青雉は、ふと脳裏に全身真っ白な人間をよぎらせた。確かに海軍本部准将であることは間違いない、けれどまったくもって違うようにも思えてならない彼女・・─── 名を、クオン
 考えるのが面倒くさくなったから途中から思考をやめていたが、それがたった今戻ってきた。戻ってきてしまった。


「あ?……まさかあいつ」


 青雉は唐突に答えを得た。雪狗との記憶が思い返され、何でああも弱いのか、という疑問が晴れたのだ。
 誰かに記憶を奪われたせいもあるだろう。本来の得物を携えていないのも理由だ。だがそれはほんの一端にすぎない。それだけでは雪狗はああも弱くはならない。今のクオンがかつての雪狗より遥かに劣っているのは─── そうだ、違う・・。あれは違うものだ。
 あれは─── イブリースの“端末”。


「…………はぁ?」


 気づいてからの第一声はひどく間抜けたものだった。無意識に吐き出したそれが穏やかな風に吹かれて消える。
 自分が出した答えに呆然として水平線を見つめていた青雉は、ふいに目を眇めると苦々しく口元を歪めた。


「うっっっっわ……めんどくさ……」


 やっぱりあいつ面倒くさい、あいつ自身もあいつの周りもあいつの背景も何もかも。
 大人しく隠されておけばよかったのだ。海賊になんてならないで、世界の表舞台に出てこず、ひっそりと何も知らないまま身を潜めて生きていればよかった。誰かの後ろで影のように控えていればよかった。けれど現実はそうはならず、麦わらの一味であるあれと青雉は対峙してしまった。

 面倒くさい気配しかない。考えるのをやめよう。決断した青雉は表情を消し、あれを意識の外に弾き飛ばして周辺海域の海図を広げた。
 ニコ・ロビンとモンキー・D・ルフィは一命を取りとめるだろう。2人……いや3人か、と重傷だろうに仲間のために駆け出していったクオンを思い出し、すぐに意識の外に投げ飛ばした。奴のことは考えるな。
 彼らが回復したのち出航してここの“記録ログ”を辿った場合の次の行き先を確認した青雉は、軽く目を瞠る。


「『ウォーターセブン』…“水の都”か。あららら……こりゃ何とも……」


 小さくひとりごち、海図をしまった青雉は自転車を漕いで目の前の海へと車輪を滑らせた。己の能力で進行方向だけを凍らせて作り出した細い道を走りながらひとり言を続ける。


「だいぶ本部に近づいてるじゃない。それに『ウォーターセブン』といえば……」


 言いさして、青雉は固く唇を引き結ぶと吐き出しそうになった言葉を寸前でこらえた。脳裏に浮かんだ白い海兵をゆるくかぶりを振って追い出す。
 何かを考えると芋づる式に何度も白いものが出てきそうだ。青雉はひとつため息をつくと無心でペダルを漕ぐことに集中した。







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