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『殺せ』


 ─── 声がする。ずっと遠く、頭の中で、心の果て、魂の最奥、閉ざされた向こう側から鋼の声がする。


『何を倒れている。殺せ。お前はわたしだろう。たとえ肉体が壊れようとも動け。わたしの“愛”を踏みつけるものはすべて滅ぼせ。そういうものだ、お前わたしは。それが■■■■■というものだ』


 ほころびのみちを通じて声がする。壊れかけた欠陥品の兵器に向けた、苛立たしげな冷たい声音が耳の奥で反響している。殺せ、殺せ、絶対に許すなと何度も吠えて繰り返すさまはまるで、言うことを聞かない相手に地団駄を踏むようで。

 子供の癇癪みたいですねと、そう思って、クオンはふいに意識を取り戻した。今にも途切れそうな微かな鈍色の光が鋼の色を押し返し、クオンという理性が戻ると同時に理由の分からない凄まじい怒りが薄れていく。それでもなおほころびの向こうから叫ぶこどもに眉をひそめて胸中で吐き捨てた。


(黙りなさい。今の私は麦わらの一味。そうありたいと願い、そうあることを許された。一味が危機に瀕している今、仲間のために動かなければ)


 こどものわがままに付き合っている暇はない。私の“愛”を踏みつけるものは、たとえお前わたしであろうとも、決して許しはしない───。






† 青雉 7 †






 仲間の悲鳴のような声が耳朶を叩きつけて、クオンははっと目を覚ました。考える間もなく横たえていた体を跳ね上げる。文字通り跳び上がって草原に膝をつけば、女の氷像を脇に抱えて猛ダッシュしてくるウソップの姿が視界に移った。傍らにいるナミとチョッパーが「やったウソップ~!」と声を揃え、一拍遅れて氷像が誰なのか気づいたクオンが顔色を変えた。


「ロビン!」

「よかったクオン起きてくれたか!」


 凍らされたロビンを抱えたままウソップが安堵の声を上げ、しかしそれには言葉を返せないままクオンは少し離れたところに立ってこちらを睨む青雉を剣呑な眼差しで睨み返した。
 青雉に何かを言われて理性ごと正体が吹っ飛んだところで記憶は途絶えているが、何となく状況は理解できた。ロビンが青雉に凍らされたときに何もできず気を失っていたなどと、無様な自分に腹が立つ。だが今は自身の無力さに苛立っている場合ではないとすぐに思考を切り替えた。まずは完全に凍ってしまっているロビンをどうにかしなければ。そう思うと同時、青雉の足の下から逃れた船長の指示が飛んだ。


「ウソップ!!チョッパー!!!クオン!!!そのまま船に走れ!!手当てしてロビンを助けろ!!」

「「わ!分かった!!」」

「……っ、…了解、船長キャプテン


 船長命令にすぐさまウソップとチョッパーが頷き、この場に残ることを許されなかったクオンは眉を寄せ唇の端を歪めて不服を示したもののそれだけで呑み込み、ロビンを運ぶウソップと人型になったチョッパーに続いて身を翻した。
 背後から青雉の「やめとけ、その女は助けねぇ方が世のためだ」と冷ややかな声が飛ぶ。クオンは前を向いたまま鈍色の瞳を細めた。
 そうだろうとも。少なくとも海兵である青雉にとってはそうでなくてはならない。それに異論を唱えるつもりはなかった。まったくもって、世界を乱す存在である海賊相手に向ける忠告には相応しくないですねとは思いながら。

 クオン達を逃がさないよう攻撃を繰り出しかけた青雉の足止めをするためにナミが天候棒クリマ・タクトを振りかぶり、しかし呆気なく手の平で止められる。冷や汗をにじませながらも笑みを浮かべてみせた彼女は「お言葉ですけど、そういうのの集まりよ。海賊なんて」と言い返した。


「よく分かってんじゃねえの……!どいてくれるか、おねーちゃん」

「あっ!!」


 青雉に軽く振り払われ、短く上がったナミの悲鳴にクオンは思わず足を止めて振り返った。遠目に見える草原に転がったナミは怪我らしい怪我はしておらず、サンジがナミと青雉との間に滑り込む。ゾロも落としていた刀を拾い上げていつでも飛びかかれるよう構えていた。
 クオンの脚が逡巡で止まる。船長命令を続行するか否か。せめて戦闘の邪魔にならないようナミだけでも回収するか否か。優先するべきは何なのか。損傷し摩耗したこの肉体で何ができるのか。
 思考は一瞬。瞬きひとつも間をあけずに答えを叩き出す。


「……信じて、いますよ…!」


 私では青雉に敵わない。私では彼らを助けられない。私では彼らの足手まといにしかならない。だからクオンは、ロビンを助ける方へと全力を尽くすことに決めた。
 白いツバメの尾をたなびかせる背中にルフィの声がぶつかっても、クオンは決して足を止めることはせずに真っ直ぐメリー号へと走った。











 頭痛がひどい。吐き気も止まらない。熱が上がっている。まるで脳が焼かれているようで意識に霞がかかる。手当てされていた脚もさらにひどくなっていて、駆けるたびに激痛が脳天を貫いていた。
 一番ひどいのは左の側頭部だ。まるで鉄球でぶん殴られたように脳の奥まで重く痛む。しかし皮肉なことに、その痛みが今のクオンの意識を繋ぎとめていた。

 メリー号に戻ったクオン達は、医者であるチョッパーの指示のもと、凍ったロビンを浴室に運び入れた。
 今のロビンは自力で呼吸ができる状態ではない。心臓も止まっているだろう。仮死状態にあると思う、とチョッパーは言い、急がねぇと死ぬんじゃねぇのか!?と叫んでお湯を出そうと焦るウソップを、医者は急にあたためたら割れてしまうと慌てて止めた。熱は体内から取り戻さなきゃ、と。
 対処法として、ロビンを浴槽に置いて頭からシャワーの水をかける。同時に浴槽にも水をため、その水をかけながら外側から少しずつ氷を溶かしていくしかない。
 クオンも協力して水をかけながら、氷が溶けて冷たくなっていく浴槽の水に眉をひそめる。


「いいのか!?これで本当に…」

「分からねぇ、でも…!こうするしか…!」

「分からねぇで済むか!ロビンの命がかかってんだぞ!!」

「だけどおれ!!こんなに!!全身凍っちゃった人間見たことねぇもん!!!」


 指示に従いながらも疑念が残って焦るウソップが声を荒げ、それにつられてチョッパーもまた荒く声を張り上げた。経験がないゆえに正解が分からず、これで本当にロビンを助けられるのかチョッパーも自信はないのだ。しかし他に良い方法が思い浮かばず、考えている暇もないからとにかく手を動かすしかない。
 青雉はまだ生きてるとは言ったが、医者としてはそっちの方が不思議なくらいだろう。泣き言を言うチョッパーに、眦をきつく吊り上げたウソップが苛立ちと焦燥のまま口を開こうとして、瞬間割って入った声があった。


「ウソップ、チョッパー」


 静かな声だった。冷たくはなく、この非常時でも常のぬくもりとやわらかさを残した、男にしては少し高い涼やかな声音が2人の耳朶を撫でる。決して大きくはないはずなのに、無視できない響きがそこにあった。
 はっとして見れば、秀麗な面差しをやわらかくゆるめたクオンが2人を真っ直ぐに見ていた。鈍色の瞳は波一つなく、けれど確かなあたたかさが、そこにある。


「大丈夫ですよ。ロビンは助かります。助けようと全力を尽くす者がいる限り、命の灯は消えません」


 落ち着いて、冷静に。焦っても何も良いことはないのだ。仲間を助けようとして仲違いなどもっての他。
 クオンは喧嘩両成敗とでも言うように2人の頭を交互に手刀で軽く叩いた。大丈夫、必ず助かる。必ず助ける。そうでしょう?と微笑みさえ浮かべてみせれば、場違いなほどの静けさに呆気に取られた2人はちらりと目だけで互いを見やり、無言のまま再び手を動かしてロビンに水をかけた。ごめん、と落ちた小さな謝罪が水が跳ねる音にまぎれ、クオンはそれに笑みを深めることで応える。


「ハリー」

「きゅっ」


 懐から拳大の石を取り出したクオンが名を呼び、意図を察したハリーが短く鳴く。
 縦に長い八角形のそれは短辺の真ん中に直径1cmほどの穴があいており、上下の穴を繋ぐように側面に細い筋が入っている。あ、と石を見たことがあるウソップが思わず声を上げた。
 クオンは安心させるような笑みを浮かべ、火針を1本石の穴に差し込むと軽く手をひねった。筋に沿って半分に割れた石がひねられた方へ傾き、パキンと硬いものが割れる音が浴室に響く。傾きを元に戻したクオンの手の中で石がほのかに赤く光り、じわじわとその色が石全体に広がっていくさまは、まるで熱した石のようだと初めて見たチョッパーはぼんやりと思った。

 以前チョッパーの故郷で凍えていたゾロに貸して暖を取らせた石をハリーが受け取って浴槽へと飛び込む。ぱしゃんと水しぶきを上げ、水面に浮かんだハリーは穴に小さな口を寄せてゆっくりと吐いた。
 ゾロに使わせたときには吸うのだと教えたその石の底の穴から、呼気に合わせて暖かな空気が出てくる。僅かに浴室の温度が上がり、次いでハリーは石の底を水につけた。ぷくぷくと細かな泡が無数に立ち、冷たかった水の温度が上がって常温より少し低い程度になる。はっとウソップとチョッパーが目を瞠った。


「はーりきゅ!」

「『手は止めるな』、だって。うん、ありがとう、ハリー、クオン!」

「これならもっと早く溶ける!」


 ハリーが急激にあたためないよう空気と水の温度を上げ、にわかに喜色を浮かべたウソップが水をかける手を早めた。ハリーはそれを見て水に潜り、今度は浴槽の底の水の温度を上げ、水面から顔を出して下がった浴室の温度を上げ、水の表面の温度を上げ、ついでに潜水と浮上を繰り返すことで水の温度が偏らないよう混ぜていく。
 クオンは自分の手を額に当てた。ぬるい。ということは、全身が熱を持っている。ならば都合が良い。クオンは躊躇うことなくジャケットのボタンを外した。さらにウエストコート、その下のシャツのボタンにも手をかけて外していけば、突然服を脱ぎはじめたクオンに2人がぎょっと目を剥く。ウソップが器用にも手は止めないまま叫んだ。


「な、な、な、何してんだクオン!?」

「ちょうどいい熱源がここにありますから、利用しようと思いまして」


 は!?と意味が分からず叫ぶウソップを視界の端に置いて、クオンは羽織っていたマントを広げると凍ったロビンを優しく抱き寄せて内側に抱き入れた。自身の胸元にロビンの頭を置き、凍った頬に手の平を這わせる。溶けはじめている額に己の頬を寄せて体温を分け与えれば、頭上から降り注ぐシャワーの水がクオンを濡らして僅かに体温であたためられた水がとめどなくロビンへと伝った。自分の熱が高いせいだろうか、水と氷の冷たさが心地好い。

 雪色の髪が額と頬にはりつき、流れる水が熱でほのかに赤く染められた面差しを滑っていく。自身がずぶ濡れになるのも厭わず人肌でロビンをあたためるクオンがいやに煽情的に見えて、思わず目を逸らしたウソップは一心不乱に水をかける手を速めた。







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