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─── 何でこんなに弱いんだ、こいつ。
それが、
クオンという名を持つ雪狗と相対した青雉の正直な感想だった。
海兵だったときの鋭利さが欠けている。前はもっと、それこそ触れずとも斬れるような危うさを伴った冷酷な気配をまとっていた。
海兵だったときの“声”とあまりにも違う。しっかり意識に捉えていても“声”が聞こえないのだ。否、聞こえはするが、あまりにもか細く弱い。本当に目の前にいるのが生きた人間なのか疑いそうになるほど。
海兵だったときの戦い方が微塵もない。速度だけは大将にすら引けを取らなかったくせに、仲間を下がらせるときの動きは遅すぎた。
何より、“覇気”が感じられない。自分より強い相手を前にしているのに、時間稼ぎをするにしても素のまま立ち向かおうとしている。
(記憶を失っただけで、こうも肉体を扱うすべがおぼつかなくなるものかねえ)
白い燕尾服をまとう、上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物をした目の前の白い人間は、本当にあの雪狗なのだろうか。
言動の端々には雪狗の片鱗が見えていて、顔はまだ見れていないが、あの被り物の下にあるものは知ったものだと確信している。ああ確かに雪狗だと合点はいっていた。だがどうにも深いところが納得できないでいる。瓜二つの、性格がそれなりによく似た、まったくの別人と言われた方が頷けるほど、この白い人間はどこかが
おかしい。
ゆえに、青雉は“雪狗の
クオン”の地雷を敢えて踏み抜くことにした。思いきり足の底を叩きつけて無理やりに眠る獣を呼び起こした。これが本当に雪狗なのであれば、必ず反応すると分かっていて。
果たして、白い人間は一瞬動きを止め─── 次の瞬間、総毛立つほどの覇気が迸った。
† 青雉 6 †
視界の端を白い軌跡がよぎる。本能に従って僅かに体をひねった青雉は、正確に首があった場所を鋭利なものが薙いだ音を数瞬遅れて聞いた。次いでピッと皮が切れた感触を知覚すると同時、草原から無数の巨大なつららが伸び上がって宙を駆けていた白い生き物の被り物を弾き飛ばす。
被り物を犠牲につららから逃れ、草原に足をつけたそれの素顔を目にした青雉は瞠目ののちため息をつく。
「あららら……そう、その顔じゃあ、納得するしかないな」
絶美と評するしかない人外じみた秀麗な顔立ちは記憶のものより少しばかり大人に近づいているが、間違いなく見知ったものだ。他に二つとあるはずがない。吊り上がった柳眉は激昂を分かりやすく示し、鈍色を塗り潰すような
鋼の煌めきは憤怒に燃えている。獣が全身の毛を逆立て体を膨らませるように短い雪色の髪が僅かに浮いて広がり、陽の光に透け星のように輝いていた。長い針を短剣のように握り締めた手がぎちりと鳴る。ばちぢ、稲妻のような黒い光が白い痩躯を取り巻いて、鈍色と鋼の明滅に合わせて波打っていた。
「わたしは、
二度はないと言ったぞ」
青雉にとってはよく知った声音で、だが麦わらの一味にとっては常とはあまりに違いすぎる低く冷酷な声音で紡ぐ雪狗に、そうだな、と青雉は淡々と返した。そうして、ちりりとした痛みを覚えて首に手を当てる。その手を目の前に広げてみせれば、うっすらと血が滲んでいた。
微かに目を細めた青雉の懐に
クオンが突っ込んでくる。確実に首を獲りにくる即決即殺のやり方は変わっていないらしい。鈍色を鋼に侵食されている
クオンの、軽いがその分
疾く油断できない攻撃をいなしながら青雉は内心で眉を寄せた。
(今ので記憶を取り戻した……わけじゃ、なさそうだな…)
言動の端々に覗く雪狗の色は濃くなっているが、それは
クオン自身無意識のようだと察していた。
2年前ならば激昂していても周囲の制止の声を聞き、それを無視した上で確実に制裁を加える理性があった。だが今の雪狗には理性らしい理性がない。怒る理由が自分でも分かっていないから、本能が「殺せ」と命じるままにしか動けていないのは明らかだ。
─── 「赤犬の仔」は、雪狗にとって最大の禁句であり地雷である。
海軍本部准将“雪狗の
クオン”の後見人は大将赤犬であり、彼のひと声であらゆる便宜がはかられ、それを妬んだ者達や敵対する海賊に“犬の仔”と蔑称されたこともあった。それを本人に聞かせた者は海賊海兵問わず全員軽くて半殺しの目に遭ったと何度も耳にしたし、何なら数度目の前で見たこともある。そして過去に一度、自分もつい口を滑らせて音にのせたこともあった。
そして雪狗だけではなく、赤犬もまたその単語を耳にしたときに見せた激昂ぶりは凄まじいものだった。誰が誰の仔じゃと、と忌々しげに凄む男から放たれる圧は覇気そのものであり、部下である海兵相手にはさすがに手は出さなかったものの抑えることなく殺気を迸らせていた。
─── 赤犬と雪狗の関係は最悪である。
それは海軍本部内では知らない者はほとんどいない周知の事実であり、ひとたび顔を突き合わせればここが戦場なのかと錯覚してしまうほど2人を取り巻く空気は殺伐としていて、たまに本部の一角が吹っ飛ぶほどの大喧嘩が始まることも珍しくはなかった。もちろん、雪狗が赤犬に勝ったことはただの一度もない。
だからこそ青雉は
クオンが火を生む針を使ったことに驚いた。赤犬を毛嫌いしている雪狗が、戦闘に火を使うはずがないと思い込んでいたのだ。
それほどまでに2人が険悪な理由を、青雉は知らない。傍から見れば憎み合っているようにしか見えないが、赤犬は雪狗が何をやらかそうと盛大な青筋を浮かべて折檻こそすれ殺そうとしたことは一度もないし、後見人の立場を放棄しようとしたこともない。2人がそれぞれ得物を持ち出しての物理的な激しい口論を交わしても、お互いに存在そのものを否定したこともなかった。
変な奴ら、というのが青雉の正直な感想だ。赤犬が雪狗を
殺せない理由を知ってはいたが、それにしても妙な関係性である。とはいえ、多少気になりはしても青雉は傍観の姿勢を貫いた。だって絶対面倒くさいだろ、こいつら。諸々の関係で関わらざるを得なかったが、できれば極力関わりたくなかったのが本音だ。
(ただでさえ面倒くせぇってのに……こいつ、
誰に記憶を奪われた?)
青雉は目を眇めた。
揺らめく鋼と何かに抵抗するかのように不規則に弾ける黒い雷。体の使い方すらままならなくなる記憶喪失が事故によるものではないのは読み取れる。何者かの意図によって雪狗の記憶は閉ざされていると見て間違いない。
おそらく麦わらの一味は気づいていない。雪狗は、─── どうだろう。あれは賢い。直感で確信に至っている気はする。あれは根拠や証拠を揃えるより早く結論に至れるものだと知っていた。自身が鈍色と鋼に揺らいでいるのは自覚しているはずだ。
ここまで来ると、今の状態である方がまずいのかもしれない。土台が揺らげば総崩れになる。何事も中途半端はよくねぇよな、と自分を棚に上げて青雉は内心で頷いた。
死角から心臓を正確に狙ってきた
クオンの針を左手で掴んで止める。一瞬能力で抵抗されたが、破るのはあまりに容易い。
パキキ、針を通じて
クオンの右手が凍りついていく。氷の拘束から逃れるために白手袋から素手を引き抜こうとして、しかしそれよりも青雉の右拳が大きく振り上げられた方が早かった。躱そうとした
クオンの脚を氷で封じ、見開かれた鋼が揺らぐ鈍色の瞳と目を合わせる。
「─── まぁ…ぶっ叩けば、多少は直るか?」
本気で適当なことをのたまい、青雉は体勢を崩した
クオンの側頭部を容赦なくぶん殴った。
ドカァン!!!と重い音が響く。同時に拘束していた氷を解けば、勢いを殺せないまま白い痩躯が吹っ飛んでいった。
「
クオン!!!」
血相を変えた麦わらの一味が声を揃えて名を呼ぶ。草を吹き飛ばして草原を滑った
クオンはしかし、途中で跳び上がると体勢を低くして立ち上がった。その拍子に脳が揺れたか、くらりと頭を傾がせ、地面に手をつくことで何とか倒れ込むのを防ぐ。雪色の前髪から覗く、苛烈に燃える硬質な鋼の瞳が青雉を睨んでいた。
クオンのまとう気配がますます凄絶なものになっていく。白い体を取り巻く黒い雷が激しさを増し、まき散らされる威圧感が縦横無尽に迸った。それを見て、青雉は己の知る雪狗に近くなっていく
クオンから立ち尽くす麦わらの一味へと視線を滑らせた。
殿を務めるから逃げるように言った
クオンの気配にあてられて麦わらの一味は立ち竦んでしまっている。今の
クオンならば時間稼ぎは可能だが、代わりに仲間が逃げるすべを自分が封じているのは何という皮肉だろう。それでもまだ全員立っていられているのだから器用なことだ。それほどまでに麦わらの一味が大切なのか。
悟りはしたが、だからといって青雉は己のやろうとすることを曲げる気はなかった。できれば殺したくはないな、と思いながら
クオンの動きを待つ。獣が獲物に狙いを定め、体勢を低くし、全身のばねを使って飛びかかろうとして─── そのまま、どさりと倒れ込んで目を見開く。
「……あ?」
思わず訝しげな声がこぼれた。
クオンは起きない。糸が切れたように力なく倒れ、物騒な気配を霧散させた白い背中は激しく上下し、呼吸は掠れて速く荒い。ごぼ、と鈍い音を立てて血を吐いた。元々白い顔から血の気が引いて青白くなっていく。手足に残った氷が溶けていくのを見て、高熱に侵されていることに気がついた。
「あららら……こりゃあ、こいつ…瀕死じゃないの」
「まずい!反動が…!」
顔色を変えたトナカイが叫び、躊躇うことなく駆け出した緑髪の剣士が身じろぎひとつできない
クオンを片腕に抱えて仲間のもとに戻る。存外優しく降ろされた
クオンを見下ろしたトナカイが「熱が上がってる!」と悲鳴のような声を上げた。
仲間思いの奴らだな、と青雉は偽りなく感心する。仲間の危険には目に見えて顔色を変え、力の差を目の当たりにしても敵いっこないと誰一人我先に逃げようとはせず、それどころか海軍本部大将を相手にしても立ち向かおうとする海賊は珍しい。だからこそ─── と、青雉はうっすらと口角を上げて立ち竦むロビンを横目に見た。
「……良い仲間に出会ったな……─── しかし
お前は…
お前だ、ニコ・ロビン」
はっとしたロビンが震える唇を開く。違う、私はもう……!と紡がれた言葉を聞き入れるつもりは、青雉にはなかった。
己の体を氷に転じさせながら抱きつくようにロビンへと覆い被さる。触れた箇所から急速にその身を氷が覆い尽くしていくさまを見てルフィが叫んだ。
「ロビン!!危ねぇぞ逃げろぉ!!!」
しかし、もう指一本動かすこともできないほどロビンの全身が凍っていく。それでも、私は、と言葉を続けようとしたロビンだったが─── 次の瞬間には、女の氷像が一体、草原の上に出来上がっていた。
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