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 白い海兵は、たまたま視界に入った古びた手配書を目にして僅かに眉を跳ね上げた。


「ニコ・ロビン?」


 手配書に映るのは幼い子供。8歳で賞金首となった少女。たったひとりで複数の軍艦を沈めたという理由から、この歳で高額の懸賞金がついた─── と詳細を聞いて、海兵はその一切を信じなかった。
 くだらない。そんな事実があったとして、政府がバカ正直に海軍の脆弱さを表に出すわけがないだろう。印象操作、事実の改変や捏造は政府の得意とするところだ。海軍の中ですらそういう経緯で懸賞金がつけられたということになっているのなら、それはあくまで表向きの理由にすぎない。それ以上の、政府にとって自由に生きていては困る理由を、この少女は抱えている。

 この子供はいまだ捕まっていないと聞く。ならば自分よりも年上の、大人の女性と呼べるほどには成長しているだろう。
 ニコ・ロビン。政府から死を望まれた子供。自由に生きる権利を剥奪され、真っ当な生活を送ることも許されず、政府の都合によって闇に葬られることを強いられている。少女が大人になる過程は決して安穏としたものではありえない。たとえ少女に罪があったとして、それは少女が健やかに生きる権利を奪われなければならないほどのものなのか。
 このままではいずれ出荷・・され、人権と尊厳を失い飼い殺される未来があると知っている白い海兵は、瞬きもせず手配書の少女を見つめ、内心で呟いた。


(……わたし達は、似ている、のかも、しれないな)


 そうか、ならば、これからも意地汚く生きてみせろ。
 たとえ汚泥をすすり、汚濁に身をつからせて、絶望の淵で落ちきることもできずに砕け散ろうとしている心を凍らせて、すべての悪逆をなし、あらゆる悪辣な手段を用い、まさしく「悪魔の子」に相応しい生き方をしていれば─── いずれ出会うことも、あるのかもしれない。






† 青雉 5 †






 責めるような青雉の言葉は続く。なぜかねぇニコ・ロビン、と詰められたロビンはやはり何も言い返せず、ルフィが「やめろお前!!昔は関係ねぇ!!!」と怒号して、それを見た青雉は成程うまく一味に馴染んでるなといっそ感嘆したようだった。


「何が言いたいの!?私を捕まえたいのならそうすればいい!!」


 緊張が振り切れたロビンが顔色悪く叫ぶ。常の冷静さはどこにもなく焦燥に満ちて、両腕を胸の前で交差させ「三十輪トレインタ咲きフルール!!」と青雉の全身に手を咲かせて技をかけようとするさまは、これ以上己の過去を麦わらの一味に聞かせたくないようにも見えた。
 全身の関節を捉えられた青雉はしかし少しばかり意外そうにしただけで、特に焦った様子もなくロビンを見やった。


「あららら……少し喋りすぎたかな。残念。もう少し利口な女だと買いかぶってた…」

「─── クラッチ!!!」


 ボキッ!!と氷の巨塊が折れる音が重く響き、腰部分を中心に青雉の体が粉々に砕け散る。ガラガラと草原に散らばる体の破片達に、チョッパーが「うわ───!死んだ───!!」と目を剥くが、ウソップが「いや……無理だ…!」と即座に返した通り、死んではいない。青雉は自然ロギア系悪魔の実の能力者。これで死ぬわけがないのだ。みんな逃げよう、とウソップが叫ぶが、そう簡単に逃がしてはくれないだろう。

 パキパキと硬質な音を立てて砕け散っていた青雉の体が修復されていく。「んあァ~…ひどいことするじゃないの……」と体を復元した青雉にウソップが悲鳴を上げた。常人なら立てなくなるほどの攻撃も明らかにノーダメージな様子の青雉に、ロビンの顔色がますます悪くなっていく。分かっていたことではあるが、チッと鋭い舌打ちをこぼしたクオンは瞬く間もなくロビンと青雉との間に滑り込んだ。


「下がってください、ロビン。今のあなたでは無理です」


 ロビンを背に庇い、硬直したままの彼女を背中で押しのけて無理やり下がらせる。青雉は眼前に現れたクオンに驚きもせず、草を抜いて空中に放ると氷の息を吐いて草を軸に長い氷の剣を作り出した。アイスサーベルを両手で握り、クオンごとロビンを斬ろうと大きく振りかぶった青雉が「命取る気はなかったが……」と感情の読めない声音で呟く。クオンは目の前に迫る氷刃を、ロビンを庇ったまま睨んでいた。

 左手を掲げるよりも早く、間合いに緑の剣士が割って入った。アイスサーベルの刃をゾロの刀が受け止め、ギィィ…ン!!!と高い音が響く。青雉がゾロを一瞥し、ゾロがそれを真っ向から睨み返す。言葉を伴わない視線の交差はさらに飛びかかってきた男によって途切れた。


切肉スライスシュート!!」


 ギィン!!!


 真上に振り上げられたサンジの左脚がアイスサーベルを弾き飛ばす。得物を失った青雉の懐に、息をつく暇もなくルフィが肉薄した。
 しかし、青雉はやはり表情を変えず、向かってくるルフィを迎え撃とうと構えもせずにサンジの左脚とゾロの右の二の腕を掴んだ。いったい何を─── 怪訝に目を眇め、半瞬ののちクオンがはっと目を瞠る。


「ゾロ、サンジ、ルフィ!! ─── ダメです、離れて!!」


 クオンの脳裏によぎったのは、氷漬けになった海。後ろを振り向けば視界に入るそれ。広大な海に比べたら、人の身を凍らせることなどあまりに容易い。
 警告を発するよりも先にクオンは能力を発動し─── 反動によって胃腸が強制的に捻転する痛みに襲われ、思わず腹を押さえて蹲った。それでも解かなかった能力は僅かに青雉の手をゾロとサンジから離し、だが青雉は軽く眉を跳ねさせただけでクオンの能力を振り払うと2人を掴み直した。そこに、クオンの能力を振り切ったルフィの鋭い拳が青雉の腹へと叩き込まれる。ドゴォン!!と凄まじい音が空気を重く震わせるが、青雉の腹を砕くことすらなく。

 青雉との接触箇所から3人の体が凍りついていく。ルフィは右拳を、サンジは左脚を、ゾロは右の二の腕を。各部位を凍らされた3人が低い呻きをこぼして草原に転がり、船長をはじめとした戦闘員がまとめて倒された光景に、ウソップとチョッパーが悲鳴をを上げ、ナミが「あの3人がいっぺんに…!」と絶望を浮かべた。


「ハリー!」

「はりっ」


 クオンの鋭い呼号に応え、ハリーが青雉に向かって背中から1本の針を飛ばす。同時、クオンは低い姿勢で駆け出した。
 赤い針は青雉ではなくその足元に刺さる。瞬間大きな火柱が上がり、全員の視界を赤く染め上げた。周囲に漂っていた冷気を瞬く間に熱気へと変えて熱波を生み出す。炎に気を取られているウソップとチョッパーの足元にルフィ達が転がってきたことに、数秒遅れてナミが気づいた。青雉が炎に包まれる寸前3人を仲間のもとに投げ飛ばしたクオンがロビンの前に戻ってくる。


「チョッパー、ハリーを連れて船に戻り3人の手当てを!ロビンも連れて逃げなさい!!急いで船を出して!あなた達が敵う相手ではありません!」

「あ、あ、うん!でも、クオン!!」

「殿は私が務めます。……時間稼ぎくらいは、できるでしょう」


 指の間に針を挟んで構え、意識して口角を上げてそう返したクオンの名を悲鳴のような声が呼ぶ。しかしクオンは既に意識を晴れていく火柱に向けており、立ち竦むロビンを仲間の方へと押しやった。
 散っていく炎の隙間から、青みがかった白い壁が覗く。火に溶かされた氷が水となって氷面を流れているが、その奥にいる人間には火傷ひとつ負わせていないのは明らかだ。


「あ~~~…まさかお前が火を使うとは予想外だった…それは絶対にねぇと思っちまってたからな…それにそうか、お前、戦い方まで変わったのか……」


 少し油断した、と呟き、氷の盾を砕いて姿を現した青雉は面倒そうにうなじを掻くと首を傾けた。


「ああ、でも弱ぇな…雪狗なら炎の中突っ込んできて氷ごとおれの首を掻っ斬ってる。できなくてもそうしようとするし、実際あんたそうしてきたでしょうが。ちんたら様子見なんかするわけがねぇ……。なんだお前、狗のくせに記憶と一緒に歯向かう牙もなくしたのか?」


 嘲笑うでも見下したふうでもなく、純粋な疑問と呆れを見せる青雉にクオンは奥歯をきつく噛み締めた。
 弱いつもりはない。手を抜いてもいない。けれど届かない。喉を食い破ろうとしているのに、牙を剥くこの肉体はあまりにお粗末だ。青雉の言うようにできると疑わないのに、それは不可能だと理性が歯止めをかけている。呆気なく凍らされる自分の未来しか見えていなかった。相反する認識が不協和音を奏でてやまないのは、記憶が欠落しているせいなのだろうか。
 分からない。けれど今それを考えている暇はない。そこに疑問を生む余裕がない。今自分がなすべきは、仲間達をメリー号へ戻すことだ。もちろん、殿を務める自分とて死ぬつもりはなかった。……できるだけ、と胸の内で小さく呟いたのは無意識だ。

 青雉と対峙するクオンを置いては行けないと躊躇う仲間を一喝して船へと逃がそうと大きく息を吸い、しかしクオンは、次に青雉が紡いだ言葉にすべての動きを止めた。


「“赤犬の仔”が、随分とまあ、腑抜けたものだな」

「──────」


 刹那、音が消えた。
 鈍色の瞳が見開かれる。ひび割れた瞳が、硬質な鋼の色が、凄惨な輝きと共に弾け散った。







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