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凍った海を渡るために厚着のコートをまとい、シェリーと荷物が乗った荷台を氷の上に置いたトンジットは改めて麦わらの一味を振り返った。
「……じゃあよ、おれ達ァ行くから」
「ああ、よかったな!おっさん!馬!!」
トンジットと向き合ったルフィが満面の笑みで言い、チョッパーが「シェリー、包帯替えてもらうんだぞ」と最後まで医者として語りかける。それに、シェリーは軽やかな嘶きで応えた。
海を凍らせてくれたのは青雉だが、そもそも降りられなくなった竹馬から助けて主を待ち続けたシェリーと再会させてくれたのはルフィであり、「おめぇらが来なきゃ、おれはいまだに竹馬の上だった」とトンジットが感慨深く呟く。
「ありがとうな───!!この恩はずっと忘れねぇよー!!」
「ヒヒー…ン!!!」
大きな声で礼を告げるトンジットに重ねてシェリーも礼を含んだ嘶きを上げる。荷台を引き、凍った海の向こうへ真っ直ぐ進んでいくトンジットにルフィ達が各々声をかけ、そのひとつひとつにトンジットも手を上げて応えた。
クオンは被り物の下で穏やかな笑みを浮かべてふたりを見送り、麦わらの一味もまた、やがてその姿が遠くに見えなくなるまで、その姿を嬉しそうに見つめていた。
† 青雉 4 †
「は───っ…よかったよかった」
ルフィがこぼれたルフィの安堵の声を合図に、麦わらの一味も草原へと足を戻した。ウソップとルフィが「うほ!寒ぃ寒ぃ!!」「すっかり冬だこりゃ」と自身を抱きしめるように腕を回してばたばたと騒がしく道を駆け上がり、
クオンは被り物の下で静かに笑みをこぼす。
それじゃあメリー号まで戻って出航するかという賑やかな空気が、草原に腰を下ろしてあぐらをかいていた男によって怪訝に揺れる。先程トンジットに背を向けて去り、すっかり帰ったとばかり思っていた青雉はあぐらに片肘をついて傾けた頭を支え、じっとルフィを見据えていた。
青雉が感情の窺えない顔とやわらかくはない視線をふいに逸らし、無言で頭を掻く。ルフィが「…何だ」と訝しげに呟くと、小さなため息に似たものを吐いた青雉は真っ直ぐにルフィを見つめて口を開いた。
「何と言うか……じいさんそっくりだな…モンキー・D・ルフィ…」
「!?」
「奔放というか……掴みどころがねぇというか……!」
「……!!……じ……じいちゃん…!!?」
どこかしみじみと、感慨深さをにじませた声音で紡がれた青雉の言葉に、びくっと身を竦ませたルフィが引き攣った声を上げて顔を強張らせた。
おや、と
クオンが目を瞠る。ルフィが何かに怯えるような表情を見せるなど、初めて見た。自分が死ぬだろうと覚悟したときですら笑っていられた男なのに、ルフィの祖父とやらは相当な人物のようだ。
そう思った瞬間、
クオンは自分の全身にゾゾゾゾ、と悪寒が走ったことに驚いた。全身が強張り背筋が不自然に伸びる。腹にきゅっと力が入って、知らず鈍色の視線が鋭さを増した。秀麗な顔には緊張がにじみ、無意識に半歩足を引いてそっとゾロの陰に隠れるように重心を移動させる。珍しい
クオンの様子にゾロが片眉を跳ねさせるが、今の
クオンはそれに気づく余裕がなかった。
(成程、これは……私もルフィの祖父を知っているのですね)
元海兵准将である雪狗が青雉と同じ大将赤犬の後見を得ていたという話だからそれも当然か。青雉の言う“じいさん”が海兵且つ青雉に近い地位にあることを一切疑わず、
クオンは形の良い唇を苦く歪めた。
様子のおかしい
クオンに気づいたのは隣にいるゾロと肩に乗ったハリーだけで、他の仲間は突然挙動不審になったルフィの方に注目して不思議そうにしている。ウソップが汗だくだぞとルフィに声をかけ、それに「べ…べ…別に、いや……そ…その」と、緊張に声を上擦らせて何とか言葉を返そうとするルフィを無視して青雉が続ける。
「お前のじいさんにゃあ…おれも昔…
世話になってね。おれがここへ来たのは…ニコ・ロビンと雪狗…そしてお前をひと目見るためだ」
あぐらに両肘を置いて手を組み、滔々と青雉が目的を語る。すぅ、とその瞳から温度が消え、冷ややかな眼差しが麦わらの一味を射抜いた。
「─── やっぱりお前ら…今死んどくか」
瞬間、空気が冷気を伴って張り詰めた。
「政府はまだまだお前達を軽視しているが…細かく素性を辿れば骨のある一味だ」
麦わらの一味の顔を順に一瞥し、青雉は海軍大将としてさらに言う。
少数とはいえ、これだけの曲者が顔を揃えてくると、あとあと面倒なことになるだろう、と。初頭の手配に至る経緯、これまでに麦わらの一味がやってきた所業の数々、そしてその成長の速度───。青雉の瞳に鋭さがいや増した。
「長く無法者どもを相手にしてきたが、末恐ろしく思う……!!」
それは海賊としては称賛に等しい言葉だ。しかし素直に喜べないのは、青雉のまとう空気が先程までのだらけきったものとは真逆の不穏なものであり、海軍大将を相手に喜べるほどの余裕が今の麦わらの一味にないからだ。
ウソップが血相を変えて「そ…そんなこと急に……!見物しに来ただけだっておめぇ、さっき…」と慌てて言うが、それにそれもそうだと海賊相手に納得するようなら海軍大将まで昇り詰めていない。
青雉がやる気がない、すぐに帰ると言ったのは、政府同様、自身もまた麦わらの一味を軽視していたからだ。
見逃されていたと、
クオンはとっくに理解していた。それに思うことはないわけではなかったが、今はそれに甘んじるしかないとも。
無言で音もなく針を指の間に挟む
クオンの視線の先で、青雉はルフィからロビンの方へと視線を滑らせた。
「特に危険視される原因は…お前だよ、ニコ・ロビン」
まるで糾弾するように、どこか非難じみた、反論を許さない声音で青雉が断言する。ロビンは表情を強張らせて冷や汗をにじませ、無言を返す。代わりとばかりにルフィが「お前やっぱりロビンを狙ってんじゃねぇか!ぶっ飛ばすぞ!!」と吼えるが、やはり青雉は無視して氷の刃を突きつけるようにロビンを見据えたまま言葉を継ぐのを、
クオンは黙って聞いていた。
懸賞金の額は何も賞金首の強さだけを表すものではない。政府に及ぼす“危険度”を示す数値でもある。─── 知っている。
だからこそロビンは8歳という幼さで賞金首となった。─── 知っている。
そんなこと、麦わらの一味である自分が一番よく知っている。分かっている。
子供ながらにうまく生きてきたものだ、と青雉は他人事のような感心を見せた。裏切っては生き延びて、取り入っては利用して。そうして、生きてきた。そうしなければ生きられなかった。でなければ、どうやって賞金首となってしまった8歳の少女が生きていけるだろうか。
「その尻の軽さで裏社会を生き延びてきたお前が、次に選んだ
隠れ家がこの一味というわけか」
「言葉が過ぎますよ、
青雉」
あからさまに責め立てるような物言いに、さすがに看過できなくなった
クオンが口を挟む。じわり、白い痩躯から立ち昇る鋼の気配に青雉が目を眇めた。
「そんなことは分かりきっている。その上でロビンが麦わらの一味に身を寄せていることを私は承知しています。たとえお前の言う通りだったとしても、他の誰が何と言おうとも、私だけは、ニコ・ロビンを否定しない。ルフィが認めている間は─── いいえ、たとえルフィが意を崩したとしても、私はロビンが麦わらの一味であることを疑わない」
被り物の下、鈍色と鋼が交互に煌めく。腹の奥底で煮えるものが、ふつふつとあぶくを発して
クオンの口から放たれていた。
強く握り締められた手に携えられた針がこすれて微かな硬質の音を立てる。それがさらに空気を張り詰めさせた。
「お前の
個人的な意見などどうでもいい。無駄にロビンを揺らがせるような真似をしないでいただきたい」
被り物越しの声は低くくぐもり抑揚を欠いて相手の耳朶を打つ。だが素の声が冷たい激情をはらんでいることを、この場にいる全員が知っていた。呆然と
クオンを見つめるロビンの口元が僅かに動き、音なく雪色の獣の名を紡ぐ。一方で、青雉は静かに
クオンを見て、合点がいったように目を細めて小さく頷いた。
「ああ、お前ならそう言うだろうな…お前達はよく似ている。それに……
雪狗がニコ・
ロビンを気にかけすぎていたことはおれ達も分かっていたが、懸念通りだったか……」
こうなるだろうと思っていたから、雪狗とニコ・ロビンを接触させたくなかったと青雉が眉を寄せてぼやく。記憶を失っているならば想定とは違う結果となるかもしれないと思っていたが、それは一縷の望みでもあることを青雉は分かっていた。記憶を失った白い元執事が本当に雪狗であるのなら、今こうして青雉と相対しようとしている
クオンは、たとえ持った色の一部が違えど、やはり“雪狗の
クオン”で間違いないのだ。
僅かに苦く口の端を歪める青雉に構わず、
クオンは何の感慨も見せずに吐き捨てた。
「これまでのロビンの生き方を、幼い子供の首に賞金を懸けた
政府がとやかく言う筋合いなどどこにもない」
だが、と
クオンは鼻を鳴らす。鋼に揺らぐ瞳が剣呑さを増した。
「お前の言葉はどうにも違和感があります。言葉があまりに感情的すぎる。青雉、お前、ニコ・ロビンに個人的な恨みでも?」
「別に恨みはねぇよ…因縁があるとすりゃあ…一度取り逃がしちまったことくらいか…」
クオンのまとう雰囲気が変質しつつあるのを見ても、青雉は表情を変えずに答え、昔の話だ、と言ってそれ以上深くは話さなかった。そうして、
クオンだけでなく麦わらの一味全体を再びひたりと見据えた。
「お前達にもそのうち分かる。厄介な女を抱え込んだと後悔する日もそう遠くはねぇさ。それが証拠に…こんにちまでニコ・ロビンの関わった組織は、すべて壊滅している」
その女ひとりを除いて、だ─── そう確固たる事実を口にされて尚、
クオンの表情は微動だにしなかった。
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