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「ルフィ、一旦落ち着きなさい。青雉殿は散歩の途中のようですから、穏便且つ速やかにお引き取り願いましょうね」
「なんだ散歩か!!じゃこんなとこ通るなお前!!出て行け!!」
「めちゃくちゃじゃないっすか」
理不尽といえばあまりに理不尽な怒声と勢いに青雉は思わず参ったような声をこぼし、次いで小さく肩を震わせて被り物の中に笑みをこぼす
クオンを見上げ、ふぅん、と微かに目を細めた。
笑っている。あの雪狗が。こうも簡単に、何の気兼ねも気負いもなく、とても分かりやすく、肩を震わせて。おそらくは─── 心から。
(あららら……そうか。お前、笑えるようになったのか)
目の前の白い人間がやっていた執事の真似事もスモーカーから聞いた瞳の色も実際に耳にした口調も性格すら自分が知っている“雪狗の
クオン”とは異なり、容姿が瓜二つの赤の他人だと言われた方がすんなり納得できる。
正直今の雪狗は解釈違いで気持ち悪いのが本音ではあるけれど、自分が知っている雪狗こそが繕われたもので、今の
クオンが本当の“雪狗の
クオン”なのだとしたら─── 成程、
クオンが大人しく
本人を認めて受け入れろと言うのは道理だ。
理性ではそう思いはするものの感情がどうにも追いつかないさなか、しかしただひとつだけ、そうやって笑えていることは、良い変化だと素直に受け入れられた。
† 青雉 3 †
仲間に止められたため攻撃姿勢はやめ、しかし歯を剥いて睨んでくるルフィを少しだけ困ったように見た青雉は、さすがにこの場に留まり続ける気が失せたようで分かったと言って帰ることを了承した。だがその前に、と続け、「……あんた」とおもむろにトンジットを指差す。蚊帳の外で様子を見ていたトンジットが「ん?」と突然水を向けられて軽く目を瞠った。
「─── おれは睡眠が浅くてね。…話は大方頭に入ってる。すぐに移住の準備をしなさい」
のんびりとした指示に、眉を吊り上げたルフィがトンジットと青雉の間に入って怒鳴る。
「おいおっさん!!こんな奴の言うこと聞くことねぇぞ!!こいつは海兵なんだ!!!」
よいのでは???
基本的に海兵は一般人の味方で正義の側である。思わず
クオンが小さく首を傾けると、一拍遅れてトンジットも「いーんじゃねぇのか?」と当然のことを口にして、ルフィも「いーんだ、そうだよいーんだ。普通海兵が味方で、おれ達の方が悪者だよ」と手の平を拳で軽く叩いて笑った。自覚がきちんとあるようで何よりである。
さて、移住の準備をしなさい、と青雉が言ったということは、即ち村に合流したいトンジットの力になってやれるということ。
青雉がトンジットを助けてくれると知るや、先程までの態度を一転させ笑顔を見せるルフィと無理だろそれはと言うウソップを置いて青雉は話を進める。
トンジットは村がある3つ先の島へ行くために引き潮を待って馬で移動したい。が、その馬─── シェリーは足に怪我を負っているためそれは難しい。その状況を分かっていて、それでも何とかできるらしい。
不審げなウソップに海軍大将が「大丈夫だ」と上体を起こしもしないだらけきった姿で返すさまは、どうしても説得力が欠ける。だがまぁ、この男ならできるのだろうと、
クオンは疑わなかった。傭兵団のみんなに教えてもらった情報を頭に浮かべる
クオンに同意するように、いまだ立ち上がれないまま、どこか力なくロビンがぽつりと呟いた。
「……確かに…その男なら……それができるわ」
「だらけきった正義」を掲げるやる気のない海軍本部大将の言をロビンが保証し、ならばと麦わらの一味は半信半疑ながらもトンジットを促して移住の準備を手早く始めた。
その、青雉も巻き込んでの大掛かりな準備を、
クオンは草原に腰を下ろして眺めていた。体調が万全ではないから休んでいるようにと船医に言われて誰も異論なく頷かれてしまえば仕方がない。ナミとロビンに左右をがっちり固められてしまえばそれを振り切ることもできず、大人しくするしかなかった。
青雉はそんな
クオンを見て「過保護にされてんねぇ」と呟きはしたものの特に驚いた様子はなく、先程まで立っているのも面倒になるほどだらけきっていた割にてきぱきと動いた。
移住を前提とした生活に慣れたトンジットを中心に準備は滞りなく進められ、そう時間を経てずに大きな荷台にすべての荷物が括りつけられた。怪我をして歩けない愛馬シェリーも荷台の前方に乗せられ、一同は海岸へと向かう。
先導するトンジットに続いて男達が荷台を押し、
クオンはナミとロビンと共に最後尾をゆったりと歩く。目的地へは然程歩かずに辿り着いた。
「よし、海岸に着いた。ここが年に一度、引き潮で道のできる場所だな」
ザザーン…と波の音を奏でる海を見晴るかし、青雉が呟く。
幅数十mはある石造りの道は苔むしている部分はあるものの道自体はしっかりとしたものだ。両端に佇む柱の頂点では道の在処を示すための旗が揺らめいている。
上着を肩にかけ左手をポケットに突っ込んだ青雉が「たまには労働もいいもんだ」と呟き、荷台に積んだ荷物の上でルフィが「ほんとだ良い気持ちだ!お前なかなか話せるなー!」と笑顔で同意した。トンジットのために協力して準備をしたこともあり、わいわいと和やかに話す2人はすっかり打ち解けた様子で、
クオンの隣を歩いていたナミが「結局打ち解けちゃった…」と呆れたように呟く。
確かに、常識なら海賊と海軍本部大将が和気藹々としていいものではないが、この2人に常識を求める方が間違っている気がする
クオンは被り物の下で苦笑するだけに留めた。
さて、海岸へはやってきたが、当然道は海に沈んでいて到底渡ることはできない。海の下にあるだろう道と繋がる次の島はここからでは見えず、水平線があるばかりだ。
「─── で?どうすんだ?このままおめぇが馬も家も引っ張って泳ぐのか?」
「んなわけあるか……」
ルフィの当然の疑問に青雉が淡々と返し、道と海の境に歩いていく。少し離れてろ、と言う彼に従って一同は道から下がった。
道の上から海に手を伸ばして青雉が手を差し入れる─── その瞬間。
何の前触れもなく、ざばっと波を立てて巨大な海王類が海面から巨大な頭部を飛び出してきた。
誰もが息を呑む。トンジットが驚愕のまま「いかん!この辺りの海の
主だ!!」と叫び、それを掻き消すように、青雉を捕食対象と見た海王類がギュアアァア!!!と濁った声を上げた。鋭い牙がずらりと並ぶ口を大きく開けて獲物へと肉迫する。
「何だおい!!お前逃げろぉ!!」
「危ねぇぞ!!!」
海に手を差し入れたまま微動だにしない青雉に、ウソップとルフィが血相を変えて焦燥もあらわに叫んだ。が、今から飛び出していくよりも先に海王類が青雉に食らいつく方が早い。
クオンの能力ならば間に合うだろうが、
クオンは海王類の登場にぴくりと眉を跳ね上げただけで傍観の姿勢を崩さなかった。あの程度、あの男がどうにかできないはずもない。冷めた眼差しには何の感情も浮かんでいなかった。
「───
氷河時代」
刹那─── 視界一面が、白く染まった。
青雉の感情の窺えない平坦な声音と共に、瞬きの間もなく海王類ごと海が凍りつく。
ただの人間が生身でできることではない。ほとんど全員が絶句する中、悪魔の実、と誰かが上げた驚愕の声が
クオンの耳朶を打った。
ふん、と小さく鼻を鳴らした音が被り物の中にとけて消える。僅かににじむ雪狗の気配を敏く察したハリーが肩の上からちらと被り物を見上げた。
自身の体が氷そのものであると示すかのように凍らせた青雉から血の気が引き強張らせた顔を逸らすこともできず、ロビンは
クオンの後ろで引き攣った声を震わせた。
「
自然系…“ヒエヒエの実”の氷結人間…! ─── これが“海軍大将”、『大将』の
能力よ…!!」
青雉の実力がこれでほんの一端であることを、
クオンは知っていた。疑いようがなく確信している。何も疑問もなく、そう思うことに疑念を抱くこともなく、無意識下で静かに心の針を研ぎ澄ましていく。ロビンを庇うように半歩前に出た。
吹く風が凍った海を滑り、冷やされて届く。おもむろに立ち上がった青雉は踵を返して道をのぼりながら「1週間はもつだろ……」と足を止めずにトンジットへ言葉を落とす。
「のんびり歩いて…村に合流するといい……。少々冷えるんで……あたたかくして行きなさいや……」
常人から見れば奇跡じみたことを当然のように軽くやってのけ、これから渡るだろう老人への気遣いの言葉も忘れない男の姿は、成程確かに「大将」であり、そして一般人の味方である“海軍”のものだった。願わくば、海賊を取り締まる側面にまでやる気を出さないでもらいたいものだ。
クオンは心からそう思った。
トンジットは身じろぐことも忘れ、見開いた目で凍った海を呆然と見つめて「……夢か、これは…」と声を掠れさせた。
「海が……氷の大地になった…!なぁシェリー…海を渡れる、村のみんなに会えるぞ!!10年ぶりだ……!!」
感情を声と共に大きく震わせ、感極まった様子で話すトンジットに、シェリーも嘶きで応える。
トンジットの事情を知ったナミに村のいる島へ連れていってあげられればと言われて「おれ達は気が長ぇから」と返したトンジットだったが、心の底ではずっと村のみんなに会いたかったのだろう。
当然だ。その気持ちを、
クオンは僅かにでも理解ができた。だから手を貸してやろうと考えたのだ。止められてしまったが。
夢のような現実を前に、目を潤ませたトンジットはこちらに背を向けて歩いていく青雉へと大きく手を振って声を張り上げる。
「あんた!!ありがとうなぁ!!ありがとう!ありがとう!!何ちゅう奇跡だ!!ありがとうなぁ───!!!」
「ヒヒ──…ン!!」
トンジットとシェリーの感謝に、青雉は頭を掻くと言葉なく背を向けたまま軽く右手を上げて応えた。
ふたりが心から嬉しそうで、ルフィ達も自然笑みを浮かべる。こんなにもトンジットを喜ばせたのが天敵であるはずの海軍だと分かっていて心から笑える仲間を見て、
クオンもまた、青雉に感謝するのは何だか無性に癪な気がするものの、トンジットがああも喜んでいるようだからいいかと、小さな笑みをこぼすと遠ざかる男の背を一瞥した。
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