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 デービーバックファイトが始まる前に、フォクシー海賊団のクルー相手に全財産を賭けた。「このゲームが終わった際に麦わらの一味は誰一人として仲間を欠かず、あなた達の海賊旗をいただきます」─── と。オッズが高い上にピタリ賞だ。向こうの様子からして、一人勝ちと見ていいだろう。

 多少は臨時収入として金庫番でもあるナミに渡してあげよう。空島にて黄金を大量に手に入れはしたが、金はいくらあっても困ることはない。特に大食らいの船長がいるこの船では。


「さぁ、出すもの出しなさい」

「ひぃ~~~!!」


 クオンはすぐさまゾロを連れてフォクシー海賊団の元締のもとへと向かい、予想通り一人勝ちの結果ににっこり笑顔で迫って海賊らしくビタ一文もまけずに賞金を掻っ攫った。






† デービーバックファイト 13 †






 デービーバックファイトに負けて賭けにも負けてと、散々な目に遭い項垂れる元締を背にクオンはあたたかくなった懐を満足げに撫でた。行きからずっと繋いでいたゾロの手を上機嫌に揺らし、被り物越しでも判るほど調子外れで音程があべこべの旋律で鼻歌をうたう。


クオン

「?」


 ふと、ウソップ達のもとへ歩を進めていたクオンは手を引かれて素直に足を止めるとゾロを見上げた。
 繋いでいた手を外され、ぬくもりがなくなったことに寂しさを覚える間もなくゾロが手慣れた様子でクオンを抱え上げる。左腕に乗せられたクオンが高くなった視界にひとつ瞬いた。
 ゾロを見れば白いスラックスに覆われた脚を見ていて、視線を上げた鋭い眼差しと目が合う。行きよりも重くなった足取りは当然のようにバレたというわけだ。
 賞金回収まではと譲歩してくれていたのだろうとも表情から読み取り、クオンは素直に甘えることにした。細く息をつき、肩に被り物の頭を預けて揺れに合わせて微かな音を立てる三連ピアスを何となしに眺める。


「過保護……」

「嫌だったら過保護にされないように無茶を減らせ」

「嫌なわけがないでしょうに」


 弱く見られているのだとクオンは誤解しない。過保護にされるほど大切にされている、大事に愛されているだけなのだと。だからクオンは仲間に口うるさく言われても物理的に行動を制限されても、そこに真心と心配がこめられていることを見逃さず基本的に従うし、不満に思ったりもしなかった。多少の自業自得も自覚はしている。


「私は、あなたになら何をされてもいいと思っているんですよ」


 あ、“達”を付け加え忘れた。そう内心で思うと同時、ぴくりと男の肩が跳ねる。横顔を見上げれば眉間のしわが深くなっていた。据わった目に一瞥されるが、すぐに視線は外れた。クオンが何の意図もなしに紡いだものだと分かったのだろう、ゾロは何も言わない。クオンも無言でゾロの顔を見続け、ふと被り物の下でやわらかく目を細めた。


(いいえ、合っている。“達”はいらない。本当に何をされても許せるのは、ゾロだけ)


 仲間が望むのなら出来得る限り応える気概はある。けれどゾロにしか許せないことが、ゾロだけに許そうと決めたことがあった。それは万に一つも億に一つもないだろうけれど、たとえ冗談ついでの戯れに乞われたのだとしてもゾロ以外には許せない。だからクオンの紡いだ言葉は正しかった。

 ゾロにだけは何をされても構わない。己の唇と胎も好きにしてもらっても構わない。食らいたい、と飢えた目で見据えてくる男に、どうぞと両腕を広げてやりたいと思っている。
 そこまで無防備になれるのは、ゾロは決してクオンが心から嫌がることはしないし、きちんと恋心を返せるまでは手を出されることはないという盲目的な絶対の信頼があるからだ。たとえそれがクオンを手に入れるために気取られないようコツコツ仕掛けてきた“囲い込み”の結実なのだと分かっても、今更警戒心など抱けるはずもない。


「そう思えるほど私をここまで甘やかして許し続けてきたのはゾロなのだから、責任を取っていただかなくては。まぁあなた以外に責任を取られたくはありませんが」

「………………」


 真顔で追い打ちをかけるクオンは胸を張ってまな板の上で元気よくびちびち跳ねるタイプの鯉であり、またはネギを背負ってきた上で自分が入る鍋の用意をするタイプの鴨である。それを眼前にして手をつけることを自身に許さないゾロはいっそ憐れだった。

 足を止め、際限なく湧き上がる獣欲を煮詰めてあふれ出ないよう耐えるゾロの頭の上で、空気に徹していたハリーは何度目になるか分からない同情の眼差しを憐れな男に生ぬるく向ける。器用にもクオンの視界に入らない右のこめかみにびしりと大きく浮いた血管が、腕の中におさまる女への劣情を如実に表して震えていた。


「きゅぅぁ……」


 可哀想に。ハリーが小さく鳴いて首を振る。だが、これはゾロがクオンに「やりたいようにやれ」と言ったせいでもある。その結果を未来の自分へ無責任に押しつけることを選んだ今のクオンには怖いものなど何もなく、後先考えず思うがままを紡ぐ口は大変に軽かった。それがどれだけ男を煽り散らかしているかなどほとんど気にしておらず、傍から見ればクオンはひととして最低だとしか言いようがない。体と心の未来を男に明け渡すと約束しているからハリーも相棒を見捨てるだけでおさめているし、必要なら痺れ針を打ってベッドに放り投げるまでのことはしてやってもいいと考えている。


(でも、こいつはそれを望まないんだろうなァ)


 ウソップ達のもとへ歩みを再開させたゾロの頭の上に寝そべりながらハリーは内心呟く。
 ゾロはクオンの許しを待っている。「待て」を獣に強いた女が「よし」と言うのを根気強く待ち続け、けれどその間ただ大人しくしているわけではない。
 クオンが自分に甘えることをよしとして、何なら自分だけに甘えるのが当然になるようさらに囲い込もうと、今もなお空島で宣言した通り時間をかけずハイスピードで行われている。クオンの恋心が育ちきる前にクオンのゾロに対する距離感という名の常識が塗り替えられる方が早いのは間違いなかった。

 その末恐ろしい執着心に、おそらくクオンは気づいていない。鈍感なのではない。既にビビが愛するひととの正しい距離感を洗脳、もといバグらせてきた土台があるがゆえだ。クオンは保持している記憶が少ない分、そのあたりを一度固められてしまえば覆すことは難しい。記憶が戻ってもそれが引き継がれるかどうかは、ゾロの仕込み次第といったところだろうか。

 そんなふうにハリーがしみじみと思考をめぐらせているとは露知らず、クオンはのんびりとゾロに抱えられて仲間のもとに戻った。


「お、クオン。ちょうどいい、ちょっとこれ見てくれ。化粧水の容器のデザイン案なんだけどよ」


 草の上に座り込んで鉛筆片手に何やら細かい絵が描かれた紙を掲げるウソップに声をかけられ、クオンが僅かに身を乗り出すと、ゾロは何も言わずにウソップの傍に腰を下ろしてあぐらの上に白い痩躯をのせた。
 おさまりのいい位置に落ち着いたクオンが改めて紙を覗き込む。紙には3つのボトルが細かい意匠を施されて丁寧に描かれていた。


「こっちがナミで、こっちがロビン。これはクオンな」

「本当に絵がお上手ですね、ウソップ。ああ、それぞれみかんと花をモチーフにしてあるのですね。私のは……空?」

「そうだ!配色は夜明けをイメージしてる。あとは星をどこに置くかだけだな。お前の髪、光に当たると星みたいにキラキラしてすげぇ綺麗だからよ、絶対に外せないだろ」


 にっと笑うウソップは既にナミとロビンそれぞれに嗜好に合うか確認を取ったようで、ボトルの周りには細かく文字が書き足されていた。


「星を浮かべるかそれとも流れ星にするか、クオンの意見を聞きたくてさ」


 どっちがいい、ああこれが気に入らなけりゃまったく違うデザインでも構わないぜ、とウソップは笑顔で言う。勝手なおれのイメージだからなと続ける彼に、クオンは沈黙を返してデザイン画をじっと見つめた。
 ボトルに描かれる夜明け。底の海から覗く白い太陽、周囲を彩る朱金、ひと筋の白、海の碧と空の蒼。そして上部の夜の名残を残した紺青に、まだ描かれていない星が瞬くのだろう。

 浮かぶ星、流れる星。
 空の下を生きる者のしるべとなって瞬くもの、空の下を生きる者の願いをのせて翔けるもの。


『─── あるいは、そのどちらでもない』


 何の前触れもなく、クオンの脳裏によぎる“声”があった。今も頭に叩き込まれている“声”ではない。脳の隅、魂の奥底、閉ざされた向こう側からこぼれ落ちたもの。性別も年齢も判然としないその“声”を、しかしクオンは驚くことなく受け入れる。何となく、自分よりずっと年嵩の男のものだと思いながら。


『空に生きる星に、ひとはこうも願うものだ』


 頭の中に響く“声”に耳を傾け、記憶の欠片をさまよう意識が形の良い唇を動かす。


「─── ここに」


 静かな声音が落ちた。クオンの白く細い指がそっとボトルに描かれた太陽の近くに触れる。


「星を、ひとつ」


 被り物越しに伝わる声音は低くくぐもり抑揚を欠いてにじむ感情を削ぎ落とす。だからその声を聞くゾロとウソップは、クオンの素の声がひどくぼんやりとした幼いものだとは気づかなかった。
 ウソップがクオンの指先を見て首を傾げる。


「ひとつだけでいいのか?」

「うん。白い星がいい。小さくていい。昇る太陽の傍らに、在るだけで」

「成程、でもそれだとだいぶシンプルになるな……裏側を対比で夕暮れにするか…?」


 クオンの要望を書き込み、デザイン画を見下ろして真剣な顔でひとりごちるウソップだが、ちらりとゾロに背中を凭れさせるクオンを見やるとふた呼吸ほど間をあけて眉を寄せた。勢いよく首を横に振る。


「いや、それはナシだな。クオンには夜明けが一番似合う」


 にっと歯を見せて笑うウソップに、クオンは被り物の下できょとんと目を瞬かせた。一拍置いて、ふ、とやわらかな笑みをこぼす。
 口説かれているみたいですねぇ、と思いはしたが口にはしない。ウソップは綺麗なものを見て綺麗だと言うように自分の感想と所見を述べただけで、何の他意もないのは明らかだ。
 デザインがシンプルならボトルの素材や造りに細かく調整を入れればいいか、と瞳を輝かせて芸術魂を燃やすウソップをやわらかな微笑みを浮かべて眺めるクオンの頭の中に、もう“声”は響かない。けれど、かつての幼い自分が聞いた言葉は一言一句違わず思い出せた。


『空に生きる星に、ひとはこうも願うものだ─── 昏い夜を越えた先、海の彼方で、太陽が昇るさまを見届ける美しき星よ』


 どうか、いずれきたる夜明けを報せてくれ、と───。

 そう言って、陽の光を浴びて一本一本が煌めき、まるで地上で輝く星のように見る者を思わせる雪色の髪を、記憶の中の誰かは愛おしげに撫でていた。







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