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 デービーバックファイト第3回戦「コンバット」の準備が整い、わっと賑わいを増した観客は次々に完成した客席へとのぼって腰を下ろした。
 麦わらの一味も同様に客席へとのぼり、あいてる場所を探そうとして、「ナミさんロビンちゃんクオン!!席取ったよ」と席を確保してくれていたサンジに促されてスムーズに最前列へと進む。と、ゾロの片腕に抱かれて微動だにしない白い塊を見たサンジがぐる眉を寄せた。


クオン…は、寝てんのか?」


 白いマントのフードを深く被っているため、素顔を隠されたクオンの表情は見えない。脱力しきってゾロに凭れ運ばれるがままの様子は、眠っていると言われれば納得できるほど静かだった。
 戦闘は恐ろしいが顔が美しすぎるクオンをひと目見れないかと四方八方から視線を向けてくるフォクシー海賊団のクルーから隠すように抱えていたゾロは、サンジを一瞥して「一応、起きてはいる」と答えた。それを聞いてサンジが事前に買っていたコーラの入ったカップを差し出す。


「コーラ飲めるか?」

「いらねぇ」

「てめぇに訊いてねぇよ」

「あんたら今クオン挟んで喧嘩したらシバくわよ」


 ばちりと火花を一瞬散らした2人をすかさずナミが半眼で睨みつけ、航海士の牽制に睨み合いながらも口を閉じた2人は、「……ふふ」と空気を震わせる小さな笑声がフードの陰からこぼれたのを聞きとめると同時に矛先をおさめた。






† デービーバックファイト 10 †






 結局、コーラはいらないとゾロの頭に乗っていたハリーに手を振られたサンジはナミとロビンに配り、クオンを膝に乗せたゾロとの間にチョッパーを座らせて腰を下ろした。サンジの逆隣にはナミ、ロビンの席順である。

 イトミミズの司会と共に黒い煙が広がる空と大きく掲げられた手配書に見向きもせず、クオンはゾロの胸に耳を当てて心音を聴きながらマントの陰から覗く鈍色の瞳でぼんやりとフォクシー海賊団の船首を眺めていた。
 これから始まるのは最終戦。これに負ければとられた仲間を取り返すすべはなくなる。再度デービーバックファイトを行おうにも、それには船長同士の同意が不可欠。フォクシーが首を縦に振らなければ成立しない。


(……でも、まあ、大丈夫でしょう)


 BGMと共に船首であるキツネの左耳の辺りからフォクシーが登場するのを一瞥し、内心で呟く。
 たとえどんな相手でも、この勝負、ルフィが敗けることはない。諦めない。だから勝つ。そう信じて疑わなかった。
 一番安心できる男の体温を感じながらクオンは淡く微笑み、イトミミズの進行に従って右耳の辺りから現れたルフィに目をやって、


「おや?」


 首を傾げた。
 グローブをはめた両手を掲げ、うが───っ!と気合い十分な雄叫びを上げたルフィの頭が─── なぜかアフロになっている。
 誰だよ、と呆れたゾロの声が落ちてくる。隣でチョッパーが目を輝かせて「おおー!ルフィカッコイイ~~!!」と興奮しているのが分かって、さらにその隣でサンジも同様に身を乗り出して盛り上がっているのも分かった。


「…………」

「おれは、絶対に、あれはしねぇぞ」


 重々しく頑なな意思をこめて言われ、「いくらお前の願いでもだ」と低く声音で付け加えるゾロを見上げていたクオンは、まだ何も言っていませんが、と言おうとしてやめた。言葉よりも真っ直ぐに向けた期待の眼差しの方が余程雄弁だったのだろう。代わりにちぇと唇をとがらせる。ちょっと見てみたかったのに、残念。

 アフロなルフィは普段と違って大変にワイルドみが増している。良い。さらした上半身にあるドクロのペイントはセコンドについたウソップが描いたものだろう。良い。
 体調さえ悪くなければ両手を叩いて「おやおやまあまあ、普段と違ってあれもまた素敵ですねぇ」とにこにこ笑っただろうが、ルフィを上から下まで眺めてこっくりと一度深く頷くことしかできなかった。
 上機嫌なクオンを一瞥し、眉間にしわを寄せて「……ウソップがセコンドについたのが間違いだろ」とゾロがぼやくが、それに同意したのは「真面目にやってほしいわ」とコーラをすするナミだけで。ルフィとウソップは大変に真面目だと思いますよ、と声には出せなかったクオンは微かに肩を揺らして笑みをこぼした。





†   †   †






 こどもが泣いている。しろいこどもがひどく泣きじゃくっている。
 ■■■、■■■、と涙を流して呼んでいる。ふわりふわりと浮かんで昇るシャボン玉が、幼い泣き声に揺れている。

 こどもの声は聞こえない。座り込んで泣き喚くこどもの声はシャボン玉を揺らすばかりで、誰の耳にも届かない。

 蹲るしろいこどもの前に、こどもに背を向けたしろい海兵が立っている。いったいどこを見ているのか、あまりにも静かな鋼の双眸を遠くにやり、本来ころころと変わるはずの表情を心と共に凍らせて、けれど、その形の良い唇は時折音なき声で■■■と紡いでいた。

 ─── あれらは、私だ。

 そう認識し、薄ぼんやりとした意識で2人の自分が紡ぐ単語を唇にのせてみる。


「■■■」


 そうして、合点がいったようにため息をつくと鈍色の瞳を軽く伏せた。
 ─── 仲間にも、砂の王女にさえ垣間見せなかったこと。記憶を失くして目覚めてから、何もないはずの自分が何かを求め続けている気がしてならなかったものがそれなのだと唐突に理解した。

 足りなかった。満たされなかった。あらゆる知識と経験を得て、相棒を得て、光を得て、唯一を得て、太陽を得て、愛も育むべき恋心すらをも得たというのに、胸の奥深くの一点がどうしようもなく渇いていた。

 会いたかったのだ。こどもと海兵と海賊の自分の唇が紡いだ者に、ずっとずっと会いたくてしょうがなかった。手を伸ばせばすぐに抱き上げてくれたそのひとの腕が、もう一度欲しくてしょうがなかった。
 なのにどうしてもらえないのかとこどもは泣いて、もらえるはずがないだろうと自答しても諦めきれない海兵が縋るように呟いて、胸の渇きの原因を理解した、記憶のない海賊が眉を下げて情けなく微笑んだ。


「私は、愛を捨てたのですね」


 望むものを得られなかったから、子供らしく癇癪を起こして愛を捨てたのがこどもの私。
 自分から捨てたくせに、未練がましく忘れられなかったのが海兵の私。
 何もかもを失くしたくせに、無意識に探し続けていたのが傭兵で執事だった海賊の私。

 ふわり、シャボン玉が視界の端を昇っていく。自分達は、迎えにきてくれる■■■に甘えて抱っこをねだるために、ずっとここから動けないでいる。こうして記憶の欠片としてこぼれ落ちるほどに、強く、強く、もう一度会いたいと願っている。あるいは、ここに帰りたいと思っているのかもしれない。


あなた達は、■■■に愛されたい。もう一度、今度こそ。……■として」


 たとえ血の繋がりがなかろうと、それが何だというのか。
 互いの同意と認識があればそれでいい。■■■と私がそう認め合えればそれでいい。他の誰の同意も認識も必要ない。交わす盃なんてものもいらない。私が■■■と呼んで、それに応えてくれるだけでいい。いいや、違う。絶対に応えてもらうのだ。どんな手段を使ってでも。


「私は確かに愛されていたのです。今も私を愛しているはずです。だから、脅してでも騙してでも泣き落としてでも応えてもらいますとも」


 海賊らしく、傲慢に、尊大に、一切の疑いもなく、クオンは不敵に笑ってそう宣言した。
 私が望んだから、私が望んだように、私を愛してもらう。まったくもってわがまま極まる台詞を当然のようにのたまい、だって、と子供のようにがんぜない笑みを浮かべて続ける。


「最初に私をそうしたのは、■■■なのだから」


 ぜひとも責任を取っていただきたい、と白いマントに身を包んだクオンは胸元にそっと手を当てた。指先に触れるのは、裏地がカーキ色の、シンプルなそれ。アラバスタで気に入って買ったもの。これが欲しい、と子供のように思ったのだ。懐かしむように目を細めてマントを見下ろし、小さく笑う。痛切な色をにじませて、心から。


「─── 会いたい、■■■」


 ぱちん。


 シャボン玉が、割れた。





†   †   †






「あれ、クオン寝たのか?」


 ルフィとフォクシーが船内へと戦いの場を移していったのを見送り、ふと隣を見たチョッパーは目をしばたたかせて首を力なくゾロの胸元に落としているクオンを下から覗き込んだ。
 マントのフードに隠されたクオンの目は閉ざされ、微かな寝息は会場に響くオヤビンコールに掻き消されている。


「ルフィとあいつが戦いはじめたときに寝た」

「そっか。……クオンはゾロと一緒ならよく眠るよな」


 何の気なしに、チョッパーは事実を当然のように告げる。思えば故郷の冬島から、眠るクオンの傍には常にゾロがいた。クオンがゾロの近くにいるときにすこんと眠りに落ちることもあれば、ゾロが眠るクオンを抱えて戻ってくることもよくあった。


「ゾロが近くにいると安心できるんだろうな」


 チョッパーとしても、強くて頼れる仲間の傍はすごく気楽でいられるからその気持ちはよく分かる。
 しみじみとひとり頷くチョッパーを見て微妙に複雑な面持ちするゾロには気づかず、悪魔の実の反動で傷つきやすいからこれからもゾロの傍で大人しくいてほしい、とチョッパーは仲間であり医者としての本音を内心で呟いた。







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