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闇の中でしろい星が輝いている。
じっと、こちらを見ている。閉ざされた向こうから鋼がこちらを覗いている。
こちらとあちらを隔てて閉ざすそれに、最初に入ったのは鋭い切れ込みだった。次いでひびが広がり、爆ぜる雷に焼かれてほころびは大きくなっている。
鋼との同期を自ら望んだそのときに
路はでき、
鈍が危機に瀕すれば生存機能に従って穿たれた穴を埋めるようにほころびの向こうから鋼がにじみ出る。失われていく正体を繋げ、薄れていく自我を補っていく。体に宿った意識は同一であるはずなのに相反しているから軋みを上げ、いびつにねじれていく。
混ざって、軋んで、歪んで、ねじれて、われて、とけて、おちて。
毒にやかれた脳は既にまともな思考回路を形成していない。だがその胸の奥から己がなすべきことが浮かんできていた。そうして、成すべきを為すために、つぎはぎのまだらな自我は、虚ろに鈍と鋼の双眸を揺らしながらただ報いを与えるべく肉体を動かした。
† デービーバックファイト 8 †
解毒剤を奪われ、なすすべなく両手両足の動きを封じられて宙に浮かぶ男を、雪色の狗は冷酷な眼差しで見ていた。
いよいよ顔色が危うくなった男が頂点に達した恐怖のまま叫びそうになった口を
クオンが能力で閉ざす。降参を叫びたかったのかもしれないが、報いを与えると決めた
それは許容できなかった。
男を見据えたまま数歩下がり、無表情に雪色の狗が口を開く。
「さて、どうしてくれようか」
音もなく空中に無数の針が浮かぶ。針は空中に磔にされたポイズの四肢を取り巻くように輪を形成し、その先端をそれぞれの関節に向けた。手首、肘、肩、足首、膝。そして首。恐怖に満ちた血走った目でそれを凝視するポイズを気にもとめずに
クオンは声だけでわらう。愚かな男を見てわらう。浅ましい夢と欲を抱いたがゆえに破滅へ向かう男を雪色の狗が嘲笑う。
「なぁお前、生きたままマグマに焼かれたことはあるか?心臓から血管が順に凍りついていく音を聴いたことはあるか?文字通り光に体を貫かれたことはあるか?全身を毒にひたしたことは?爆弾に吹っ飛ばされたことは?四肢を端から少しずつ輪切りにされたことは?首を斬り落とされたことは?獣に己の肉を食われたことは?内臓を引きずり出されたことは?虫のように潰されたことは?海の底に沈められたことは?汚れたちり紙を捨てるように無造作に命を断たれたことは、あるか?」
ポイズは答えない。答えられない。
雪色の狗が答えた。
「
わたしは全部ある」
白い人間が放つ異様な空気に呑まれ、静寂に満ちた場に凄惨な事実が淡々とした声音で紡がれる。誰かが息を呑んだ気配がしたが、それを白い人間は感知しなかった。
誰かが硬い声音で呟く。
「…………雪狗」
虚ろに鋼を鈍色ににじませる人間の過去の一部をこの場で唯一知っている女は、冷酷な物言いと触れれば斬れる鋭い気配の持ち主に覚えがあった。
クオンが続ける。
にっこりと、無表情に。
「知っていますか?首に針を何本も打ち込んでも、すぐに死にはしないのですよ」
経験談を何てことないように語り、ポイズの首に浮かぶ針を触れさせれば、びくりと大きく体が震えて幾筋もの赤い線ができた。血の珠が線の上に浮かぶ。
雪色の狗が首を傾けた。
「気が狂うことすら許されない痛みを味わってみるか?お前は何本耐えられるかな」
けれどもし、首に打ち込まれた針すべてに耐え抜いたなら。
結果的に私の愛は損なわれなかったのですから、それで報いを終えてやろう。
優しく酷薄な声音で紡いだ
クオンの右手がポイズに向かって掲げられる。鈍色と鋼が凄惨な光を虚ろに宿す。
もはや麦わらの一味としての自意識が存在しない白い人間に、デービーバックファイトの“余興”中であるという認識はない。
為すべきはこの男に報いを。■■■■■の愛を損なおうとしたこれに報復を、破滅を、滅びを。愛なくして
■■リ■■を不相応にも望むものすべてに呪いを。それが■ブ■ー■という生き物だ。
男が能力によって閉ざされた口の端から泡をこぼす。声なき絶叫が轟く。両目から滝のような涙を流し、全身をがたがたと震わせて、何とか逃れようとするも身じろぎひとつ許されない。白い人間が開いた右手を閉じれば、男の首を囲む針は一斉に針先をやわい肉に突き立て貫き、その四肢と首をもぎ落とすことは間違いなかった。
クオンならばこんなことは絶対にしない。雪狗ですらそこまでは望まない。しかし崩壊しつつある自我は実行に何の躊躇いもなかった。己の経験を元に機械的にイ■■■スとして報復を遂げようとする。そこには誰としての意思もない。
「………」
だが、仲間や船長に声なき助けを求めるポイズを見て
それは動きを止めていた。広げた右手を閉ざそうとするのを、何かが押し留めている。
鈍色がひとつ瞬いた。温度のない鋼が揺らぐ。
─── そのとき。
ひとの声を認識しない耳を、獣の咆哮が貫いた。
「──────!!!!」
人間の可聴領域を外れた音階が鼓膜を通って脳に刺さる。混沌として渦巻いたつぎはぎのまだらな自我が、不可視の鋭い針に縫いとめられた。
背中の針を限界まで逆立て、全身に力をこめ、ゾロの頭の上で牙を剥いて咆哮したハリネズミがかつてその身にハリーと名を与えてくれた相棒を射殺さんばかりに睨む。白い人間が
クオンという自我に沿わぬ行動を取れば、その瞬間人間の決め事など無視して今度は物理的な針を飛ばすつもりだった。
自我ごと己が大切にしていた愛をなくし、死ぬまで相棒として傍にいるとかつてハリネズミと交わした約束をも反故にするのならば、ここで死んだ方がいいとハリーは心から思う。この声すらも届かないのなら、緑髪の剣士よりも先におれが殺してやる。それが、誰に明かしたこともない、明かすつもりもなかった、ハリーが小さな胸にひっそりと抱えていた覚悟であり、相棒としての務めだった。
「…………、…………」
ハリネズミに自我を縫いとめられ、瞬きも忘れた白い人間の頭に、誰かの声が響く。
─── 捨てるな
男の声だ。はっきりとした強い声。胸を衝く重みを伴ってこの身に届いた。
─── お前はそれを失くしたくねぇんだろ。だったら後生大事に持ってろ
これは、誰の声だっただろうか。ぽつり、そんなことを思った。思えた。
最初からこの肉体に宿っていた自我は完全に変質する前に小さなハリネズミによって縫いとめられ、元に戻ろうとしていく。戻るためのしるべとなる声が気泡のように頭の奥で弾けた。
─── お前がいろんな奴にもらったその“愛”ってのだけは、ひとつ残らず抱えて生きろ
─── お前が自分にそれを許さねぇってんなら、……おれが許す
許された。そうだ、許されたのだ。
私は確かに、あの男に、許された。
記憶ごとすべてを失くして、たくさんのひとに愛をもらって生きてきた。カオナシの一族。砂の国の王女。賞金稼ぎの島の住民。クジラに寄り添う灯台守の医者。古代の島で戦う戦士。極寒の冬島を護る次代の王。ロマンを追う者達。空で生きる人々。そして、─── 麦わらの一味。
─── 捨てるな。お前がいろんな奴にもらったその“愛”ってのだけは、ひとつ残らず抱えて生きろ
ひとつたりとも取りこぼすなと男は言った。捨てずに抱えていれば動けなくなってしまう己を、それでも歩けと叱咤した。抱えて歩くことを、許してくれた。
だから、本当は捨てなければならないものを捨てたくないと思って、この“愛”を抱えて生きていくと決めたのだ。
(愛、そうだ、そうです、わたしの、愛、私の……愛する、ひとたち)
決してなくしてはならないもの。何があっても手放さないと決めた。もしどうしようもなくなったそのときは、この首を斬ってくれと頼んだではないか。
それは誰にだ。知っているはずだ。覚えているはずだ。
愛しか知らなかった人間に、恋を知りたいと願った私に、恋を思い知らせている男の、名は。
「
クオン」
自我と共に戻ってきた聴覚が男の声を拾う。ゆるりと顔だけを振り向かせれば、どこか怖い顔をした緑髪の剣士が視界に入った。
鋼が揺らぎ、ゆっくりとその色を沈めていく。にじみ出たものが押し返される。己が吐き出した血に濡れた唇が、音もなく男の名を紡いだ。
「
クオン、戻ってこい。もういいだろ」
剣士の隣で麦わら帽子の男が言う。さざ波ひとつない湖面のような黒曜が、雪色を真っ直ぐに見つめていた。
そこに、嫌悪はない。恐怖もない。同情も、気遣いも。ただただあるがままを受け入れようとする意思に満ちて、けれど
クオンの望まないことはさせないという強い意志に煌めいている。
いつだったかに灼かれた胸が、焦げつくような熱を覚えた。
「……わ、たし、は…?」
いったい何をしていたのだろうか。私は今、
何だったのだろうか。
僅かに正体を取り戻せば疑問が噴き出す。何で、みんな、そんなに怖い顔をしているのだろう。どうしてナミは今にも泣き出しそうな顔をしているのだろう。
「
私は、
何だ?」
ぐらり、縫いとめられていた自我が揺らぐ。戻ってきたはずの意識が霞んでいく。
敵に向けて掲げていた右手で己の顔を掴んだ。見開かれた鈍色に、ちかりちかりと星が瞬くように鋼が息づく。
─── わたしは何をした?私が何をした?わたしは何をしようとした?私は何になろうとした?わたしは、私は、私は、私はわたしは私はわたしは私は私はわたしはわたしはわたしは私は私は私はわたしは私はわたしはわたしは私は────
「
クオンは
クオンだろ。お前はおれの仲間だ」
太陽が、笑う。
「…………な、か…ま……」
「そうだ。当たり前だろ。他に何かあるのか?」
心底不思議そうに首を傾げるルフィを呆然と見つめ、
クオンは無意識に「ない」と短く返した。
顔から手を離し、力なくぶらりと体の横で揺らす。後ろで軽いものが草の上に落ちる音がいくつもして、一拍遅れて何かがどしゃりと地面に倒れる音がしたが、意識の片隅にも掠らなかった。
「……………私は…、私は…………麦わらの、一味、です」
それでいい。それがいい。それだけは、たとえ世界が相手でも譲れない。
麦わら帽子の男を船長に戴き、海を仲間と共に往く。自分が抱いた“愛”を捨てないために、ひとつ残らずずっと抱えていくために、からっぽだった自分が紛れもなく己だけの意志で選んだ。
たとえ記憶のすべてを取り戻したときに今の自分が記憶を失くす前の自分に潰されたとしても、それを否定することは、自分自身にすら許せなかった。
「……ッ」
クオンは顔を歪めた。フォクシー海賊団に背を向け、麦わらの一味だけに秀麗な面差しを見せる。
帰り道を失くした迷子の子供が、さまよい歩いた末にようやく家族と再会できたときのような、今にもこぼれ落ちそうな涙をこらえて泣くのを必死に耐える幼い顔。水分を含んだ鈍色が、帰るべき場所を見つめていた。
「この勝負、
クオンの勝ちだ。それでいいだろ」
「フェッフェッフェ……ああ、ポイズの負けだ」
『ピ~~~~!!!船長同士で合意したため、“余興”の時間はおしまいだよ~~~!!途中からちょっとかなりものすごく怖かったけど、見事相手を下したのは─── 麦わらの一味、
クオン!!!』
船長同士が言葉を交わし、すかさず放たれたイトミミズの宣言に、わっとフォクシー海賊団が沸く。一部のクルーが意識のないポイズへ駆け寄って素早く回収していった。
兄ちゃん強ぇな、怖かったけど!兄ちゃんやべぇな、めっちゃ怖かったけど!あのポイズ相手にナイスファイト、暫く夢に出そうなくらい怖かったけど!オヤビン、あいつらに勝っても
クオンはやめようぜ、さすがに怖い。針怖い針怖い針怖い針怖い。
などなどざわざわわいわい好き勝手に言い合うフォクシー海賊団の声を鼓膜をすり抜けさせて頭に残さず、
クオンは一歩一歩、ゆっくりと仲間のもとへ向かっていた。
能力の反動で痛む全身を押し進める
クオンを迎え入れるためにルフィが「ん」と両腕を広げ、
クオンは躊躇うことなくその腕の中に僅かな勢いをつけて飛び込んだ。
ぎゅうと白い背中に腕を回すルフィと、ルフィの服を掴んで肩口に額を押しつける
クオンの2人を抱え込むようにナミとウソップが抱きついて、ハリーが
クオンの首元に縋る。ゾロとサンジとロビンの3人はそんな彼らを見守るように半歩後ろで見守っていた。
それをフォクシー海賊団のステージの上で眺めることしかできず、あの輪に加わりたいのに飛び出していけないチョッパーが涙まじりに叫ぶ。
「おれもすぐそっちに戻るから!!待っててくれよ、
クオン!!」
チョッパーの声に応えて雪色の頭が持ち上がる。振り返って向けられた鈍色が、この上なく幸せそうにゆるんだのを、チョッパーは確かに見た。
「……ゾロ、サンジ」
ルフィの肩に再び顔をうめた
クオンがルフィとナミとウソップにぎゅうぎゅうに抱きしめられながら言葉を落とす。
掠れて力のない声音は、それでもゾロとサンジの意識を
クオンに据えさせた。無言で促してくる二対の視線に言葉を紡ぐ。
「次、絶対に、勝ってくださいね」
もう間もなく第2回戦が始まる。出場者である2人に、チョッパーを必ず取り戻してくれと言外に頼むと、「「当たり前だ」」と揃った声が返ってきて少し笑った。ああ、やっぱり彼らは本当に、仲が良い。
「すこし、ねむります」
毒に体力を削がれ、能力の反動で肉体を損傷した
クオンの意識に暗い紗がかかる。休息を欲する体は瞼を重くし、もう指の一本を動かすのも億劫だった。
ルフィの服を掴んでいた指から力が抜ける。完全に脱力してルフィに凭れるが、いくら
クオンが痩身とはいえ、ほぼ意識のない体を支える船長の体幹はまったくぶれなかった。
触れ合った箇所からルフィの体温が伝ってくる。自分よりも少しだけ高く、けれど慣れたあの男のものよりは僅かに低い。背中に回る腕も彼と比べたら細く、鍛え上げられた肉体特有の厚みがなかった。肉ばかり好んで食べるルフィは肉の匂いがして、無意識に鉄と汗の匂いを探した。
体は眠ろうとしているのに、よく眠れるものが近くにないからか意識がなかなか沈まない。ぐずるように身をよじれば、ふと頭に誰かの指が触れた。
男の指だ。まめができては潰れて固くなった剣士のそれ。触れた箇所からじんわりとしみ入る熱もよく知ったもの。太い指がさらさらの雪色の髪を梳き、うなじを掠めて離れていく。明らかなあやす動きは
クオンを眠りへといざなっていた。
すぅ、と浮いていた意識が沈んでいく。
こてんと首を倒して静かな寝息を立てはじめた
クオンに、麦わらの一味は詰めていた息を安堵で吐き出した。
───
鋼は、ほころびの向こうに。
けれど
路は既にできている。
一度があったならば、二度もあり。
二度があったならば、三度もあるだろう。
三度があるのならば、四度は果たして、あるのだろうか。
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