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 熱い。痛い。寒い。苦しい。
 頭が焼ける。全身が痛い。指先が冷える。呼吸がうまくできない。
 視界が赤い。赤。何で赤。ぬるつく。血だ。血?なぜ、血が?

 呆然と己が吐き出した鮮血を凝視していたクオンは、唐突に足から一切の力が抜けて地面に膝をついた。
 意味が分からない。なぜ私は膝をついている?なぜ立っていない?この程度で?この程度の毒で、なぜ立てなくなるのだ。

 体内を侵す毒が四肢に巡り、内側から神経も臓腑も貪っていく。
 視界が明滅して霞む。焦点が合わなくなる。血流に乗って脳へ至った毒が意識をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。深い場所を侵していく。を覗かせるほころびが毒にやかれていく。ひろがっていく。にじみ出てくる。混ざる。軋む。歪む。ねじれて、われて、とけて、おちて、ばきり、ぐるり、ぐちゃり、どろり、ずるり。

 意識が遠のく。思惟が消えていく。自我が曖昧になっていく。
 すぅと鈍色の双眸から光を失くし、虚ろに目を開いたまま白い上体が傾いだ。


クオン!?」


 力なく倒れ込んだ痩躯にかけられた声が誰のものか、機能していない耳は判ずることができなかった。






† デービーバックファイト 7 †






「は───はは、ははははは、はははははははははは!!」


 倒れ込んだままぴくりとも動かないクオンに、ポイズは狂った笑声を上げた。恐怖の余韻をにじませた頬を引き攣らせ、瞳孔が開いた目をクオンに据えてゆっくりと立ち上がる。


「効いてないわけじゃなかったんだ!クソッ、驚かせやがって!!」


 安堵をこめて吐き捨てたポイズは倒れるクオンから数歩下がって距離を取り、“余興”が始まったばかりのときに浮かべていた、にやにやと締まりのない笑みを麦わらの一味に向けた。正確には、その船長に。


「いいか麦わら。おれの毒は特製だからな、専用の解毒剤がなければ長く苦しみ抜いたあとに死ぬ。すぐには死なないさ。食事を無理やりねじ込めば1ヶ月はもつかもしれないが、毒が全身に回ると同時に意識を僅かに残しながら痛みと苦しみに悶えて、体力が尽きるまでそれが続く。……クオンはこのまま、どのくらいもつと思う?クオンを苦しみから解放してやりたいだろう?解毒剤が欲しいだろう?なぁ!」

「…………まさか」


 自身も侵されている毒と興奮に荒く息を弾ませるポイズの意図を悟ったロビンが顔色を変える。ひひっ、とポイズが引き攣った笑いをこぼした。


「交渉をしようぜ、麦わらのルフィ!おれの解毒剤はおれの仲間にしか使わない!だから助けたいならクオンをフォクシー海賊団に譲ると宣言しろ!!そうしたら、クオンの負けを承認してやる!!!」

「あんた…!最初から、そのつもりで……!!」


 顔を歪めたナミが眼光鋭く睨みつけるが、ポイズは鼻を鳴らして軽く流した。殺気も剥き出しな剣士の睥睨も勝利を確信した笑みで受けてみせた。

 “余興”は勝っても負けても仲間をとられる心配はない。ただし、降参する場合は相手に認められなければならず、そのときに条件を出すか否かは相手次第だ。もちろん、その条件を呑むかどうかも、降参を申し出た方の自由ではある。


「ルフィ…!」

「…………」


 今にも泣き出しそうな顔を向けてくるナミに一瞥も返さず、ルフィは無表情にじっと麦わら帽子の陰から倒れ伏すクオンを見ていた。
 ぴくりとも動かない肢体。ポイズの言うことが本当ならばクオンはまだ生きている。だが毒に侵された体は苦痛に苛まれ、それを治す手段はポイズにしかない。チョッパーもフォクシー海賊団にとられている今、適当な解毒剤を作れる者が麦わらの一味にはいなかった。


「はー…はぁ、は……くそ、さすがに、きつい……」


 青を通り過ぎて紙のように顔色を白くしたポイズが頬を流れる冷や汗を拭う。ちらりともう一度クオンを見た。動かない。呼吸をしているのか怪しいほど、伏した背中が上下するさまは認められない。
 さすがにもう立ち上がれないだろう。飴玉に仕込んだ毒と毒矢をも受けているのだ。これで立ち上がれたら本当に化け物だ。一瞬よぎった嫌な予感をかぶりを振って振り払う。
 自分は解毒剤を飲んで毒を無効化させ、あとはゆっくり、麦わらの一味の前でクオンを嬲って宣言を促せばいい。大層仲間を大事にしているようだから、苦しむ顔は見たくないはずだ。

 クオンを手に入れたらどうしようか。多少の耐性はあれど効かないわけではないから、毒を使って反抗心を削ぎ、時間をかけて心を調整しようか。従順になったクオンがどんな顔をするのか、今から愉しみで仕方がない。
 狂った欲を再び湧き上がらせて妄想に耽りながら、ポイズは懐を探った。目的のものはすぐに見つかり、割れていなかったことに安堵してひとつの小瓶を取り出す。麦わらの一味が目に見えてはっとした様子で小瓶を凝視するのが分かって笑みが止まらなかった。


「今ある解毒剤はこれだけだ。あとはおれ達の船にある。分かるな?麦わらのルフィ」


 手の平におさまるほどの小瓶を揺らし、中を満たす液体が揺らめくさまを見せつける。無色の液体がとぷとぷと小瓶の中で波を立てた。
 小瓶のコルク栓に指をかける。何かするつもりか、背の高い黒髪の女が胸の前で手を交差させ、それを麦わら帽子の船長が制した。ポイズは麦わらの一味がペナルティを覚悟でこれを奪いに来ると思っていただけに、その行動に少しだけ驚く。動きを止めたポイズをルフィの静かな黒曜が見据えた。


「お前、あんまりクオンをなめない方がいいぞ」

「は…?」

クオンが負けるわけねぇだろ」


 ルフィの言葉が終わるよりも早く、一陣の風が駆け抜けた。
 ほんのり甘い、そして微かに鉄の臭気を帯びた、冷たい風。
 身を斬るような鋭さをはらんだそれに、ひと呼吸遅れてぞっと背筋に氷塊が滑り落ちる。


『え 何で あれ?どうして、何で?立って……クオンが』


 呆然としたイトミミズの声が耳朶を打つと同時、ポイズは己の手に視線を落とした。
 ない。さっきまで─── ほんの数秒前まで確かにあった、解毒剤が入った小瓶が。
 背後にひとの気配。目の前には広がる草原。何もない。そこに倒れていたはずの、白も。


 キュポン


 コルクを抜く微かな音が鼓膜を叩く。体感温度が急激に下がった。興奮で頭にのぼっていた血が音を立てて急転直下し、心臓が凍ったように冷たくなっていく。痛いほどに跳ねる鼓動に押し出された血液に乗って全身に冷気がめぐる。悪寒と恐怖が、足元からじわじわと這い上がって両脚を搦め取った。
 見たくない。振り向きたくない。そこにあるものを認めたくない。そう思うのに、首はぎぎ、と軋みながら動いて後ろへ向いていく。瞬くこともできずに見開かれた両の目が、一気に小瓶の中身を呷る白を映した。


「……不味い」


 何の抑揚もない声音が心臓を貫く。毒のせいではなく鼓動が大きく跳ねた。
 毒が特製ならば解毒剤も特製だ。副作用はあるが即効性の解毒剤は即座に全身の苦痛と熱を取り除く。中身を干した小瓶を放り捨て、左腕に刺さった毒矢も無造作に引き抜いて捨てたクオンの顔が、こちらを向いて。

 前髪の下から覗く鋼の瞳・・・に射抜かれたポイズは、全身を恐怖に粟立たせた。


「ひ───ぉぐ!」


 喉から迸りそうになった悲鳴は、赤く濡れた白手袋に覆われた右手に口を鷲掴まれたことで短く濁った。
 クオンよりも背の低い男の体は頬骨が砕けると思うほど強く口元を掴まれながら宙吊りにされ、ばたばたと抵抗して暴れる両脚が白い肢体の横腹を叩く。毒に侵された体から繰り出される蹴りは然程痛みも感じないものだったが、クオンが無表情のまま鋼を細めると同時、ぴんと男の両脚の爪先が地面を向いて動きを止めた。目を見開いた男の目に紛れもない恐怖が浮かぶ。
 ならばと今度は両手を振り回そうとすれば、何のモーションもなく男の意に反して両腕が横に広げられて固まる。まるで十字架にはりつけられたかのように、ポイズは空中で身じろぎひとつできなくなった。


「無駄に長引かせるようなら優しくはできない、と私は言っただろう」


 あまりに冷淡な声音が抑揚なく言葉を紡ぐ。鈍色を拭う鋼を皓々と冷酷に光らせながら、それ・・はポイズの懐に白い腕を突っ込み、探り、中から液体に満ちた小瓶を取り出した。


「ああ、やはり持っていましたね。そうだろうとも。ペナルティを覚悟して麦わらの一味が解毒剤を奪い取ったときのために、予備は必要でしょうから」


 口調はほとんど常のクオンだが、その秀麗な顔に表情はなく、感情に満ちているはずの声音には何も宿っていない。
 クオンはポイズの口から手を離した。途端、身じろぎひとつ許されない男がクオンに劣らず真っ白な顔で叫ぶ。


「げ、げ、解毒剤!くれ!それをくれ!!もうきついんだ、苦しいんだ、なァ!頼む、他にもう持ってないのは分かってるだろ!?全身が痛くて熱くて仕方がないんだ!!なァ!!!」

「黙れよ」


 一刀両断。男の懇願をまさしく斬って捨て、上下の唇を互いに引き寄せて閉ざさせたクオンは冷ややかに続けた。


「誰がお前に口を開くことを許しました?」

「……!…………!!!」


 一切の温情なく、たとえポイズが滂沱の涙を流そうが鼻水を垂らそうが絶望に顔を歪めていようが、雪色の表情は動かない。小瓶のコルク栓に指をかけて抜き、小瓶を見下ろした獣はそのとき初めてほんの僅かに口元を歪めた。


「…用量を守らなかったら怒られるか…?」


 それはいやだな、と雪色の獣は呟いて、しかしひとつ瞬きをすると小さく首を振る。


「この体には少し過剰なくらいがいいでしょう」


 ひとりごちて一気に小瓶の中身を呷る。ポイズが声なき悲鳴を上げたが、やはりそれは無視された。
 濡れた唇を赤い舌で舐め取り、小瓶を投げ捨てる。未練がましく中身をなくした小瓶を目で追うポイズを気にした様子もなく雪色の狗は冷めた目で見やった。


「報いを」


 紡がれた言葉が、奇妙な熱を帯びる。


「お前は私の体を損なおうとした。報いを」

「お前は傲慢にもわたしを望んだ。報いを」

「お前は私の優しさを無下にした。報いを」

「お前はわたしの手を煩わさせた。報いを」

「お前は私の愛を損なおうとした。報いを」


 報いを受けよ。その身でもって贖え。
 破滅をもたらす呪いが、厳かに撒き散らされていく。

 ポイズは鈍色と鋼が交互に揺らめく双眸を凝視した。
 かちかちと歯が震えて音を立てる。冷や汗が止まらない。涙が流れ続けている。意識が飛ばせたら楽になるのに、中途半端に解毒された毒と目の前の鋼の気配がそれを許さなかった。
 ふと眉をひそめたクオンが痛みを散らすように右手を払い、口にかけられていた能力が外れる。発言を許されたわけではないことは本能で理解しながらも、ポイズは短く荒い息を継ぎながらからからに渇いた喉から言葉を絞り出した。


「お…おま、え…………だれだ……?」


 もしかしたら自分は、何か、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。
 得体の知れない白い生き物を前に怯える男を見据えて、クオンそれはわらった。

 こてり、首を傾ける。それはクオンの仕草だった。
 つい、鋼の瞳が鋭く細まる。それは雪色の狗の仕草だった。
 はは、とクオンは笑った。けれど雪色の狗の唇は薄く開いただけ。


わたしは、わたしに決まっているでしょうだろう


 にじみ出たものと混ざって軋んで歪んでねじれてわれてとけておちたものは、果たして。







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