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 毒矢の残りは多くはない。このままいなし続ければクオンの勝ちが見えてくる。
 だが、呑み込んだ毒の効果は如実に現れていた。心臓の鼓動は速く、巡る血液は燃えるように熱いのに指先が体温をなくしていく。肺が痛み、上がった息は時折詰まる。無視できない倦怠感が全身に絡みついて地面へ縫いとめようとして、視界がちかちかと明滅して僅かにぶれる。気を抜けば霞みそうになる意識を痛みに集中することで保っていた。

 クオンがどちらの飴玉を選ぶか判らない以上、ポイズも同じものを摂取しているはずだ。ならば症状は同じで、いくら毒耐性があろうとも解毒剤を必ず持っている。それを取り出した瞬間に奪い取らなければ。チョッパーが敵の手の内にいる今、医者でもないクオンには解毒剤を精製できない。

 毒矢が尽きるのが先か、毒を我慢できずに解毒剤を取り出すのが先か。
 どちらでもいい。過程は少々異なるだろうが、するべきことは変わらない。結果も変わらない。


「さぁ、そろそろ終わらせましょう」


 “余興”はもう十分だろう。
 白いツバメの尾を払い、一瞬意識を揺らしたクオンは長い針を一本片手にひらめかせて携え、短刀のように振るって飛来した毒矢を叩き落とした。






† デービーバックファイト 6 †






 毒矢が飛び出るスイッチは地面のあちこちに敷かれているが、誤って自分の方へは飛んでこないようにか、スイッチはフォクシー海賊団側の半円にしかないようだった。クオンは毒矢を避けている間、一度もそれらしきものは踏んでいない。

 スイッチのある範囲は然程広くないとはいえ、動き回れば当然毒の回りが早くなる。クオン同様、毒に侵されたポイズも随分と体調が悪く見えた。薄ら笑いを浮かべた顔からは血の気が引き、脂汗が頬を伝う。男の手は小刻みに震えていて、息も荒く、ひゅうひゅうと細く喉を鳴らしていた。

 それでも解毒剤は取り出さない。根競べでもするつもりか。ならば受けて立ってやろう。
 やり口はどうあれ、意外と根性があるらしいポイズを見直しかけたクオンがほんの僅かに口端を吊り上げかけた、そのとき。


「ははっ!これを避けれるか!?」


 ポイズが笑声を上げ、だっと駆け出す。不規則な動きは地面にあるスイッチを次々と押しているゆえのものだろう。カチカチカチカチカチ、小さな機械音が連なって耳朶を叩く。同時、四方八方から風を切る音が襲いかかってきた。

 息を短く吸い、クオンは目を閉じた。開かれた・・・・感覚で瞼の裏に毒矢を視る・・
 どのタイミングでどこに飛んでくるのか、そのことごとくを悟るクオンは最低限の動きだけで毒矢を躱した。


『これはどういうことだ~~~!?目を閉じているのに迫る毒矢をすべて躱しているよー!』

(うるさい、なァ)


 イトミミズの驚愕に内心で吐き捨てる。フォクシー海賊団のどよめきも煩わしかった。
 それだけではない。強制的に頭の中に詰め込まれる“声”は、もうずっとうるさくてしょうがない。素顔を晒してから向けられる無数の欲と不穏な熱がうねりを伴って絶えずぶつけられ、時間が経つごとに感情がささくれ立っていく。

 ああ嫌だ。こんな“余興”、早く終わらせたい。仲間のもとに戻りたい。なぜ戦わなくてはならないのだろう。面倒くさい。いちいちルールなんぞに従って。そんなもの無視して倒してしまいたい。全部倒せばそれで済むのに。船も沈めてしまえば二度とあうこともないのに。全部、ぜんぶ、ぜんいん─── ころして、しまえば。


(うるさい!)


 耳の奥で囁くもの・・に、クオンは叫んだ。叫んだつもりだった。しかし掠れた呼吸を吐き出す唇は固く閉ざされ、苛立ちに任せて飛来した毒矢を叩き落とした。
 全身を巡る毒に脚から力が抜ける。白い肢体がふらつき、それでも膝は折らないクオンは冷や汗をにじませる額を白手袋に覆われた手の甲で乱雑に拭って雪色の髪を掻き上げた。
 浮いた前髪の下でゆらゆらとが揺れる。波紋を広げる鈍色に、鋼がとけていく。全身を巡る毒が体内に熱を生み、痛みを伴う熱のおぞましい手が脳へと至り意識をぐちゃりと掻き混ぜ───

 その一瞬が、隙になった。

 自身に対するものではない。流れ弾となって仲間に届かないよう、その可能性が限りなく小さいと判じても決して油断はせず、空中を駆ける毒矢すべてに意識を割いていたクオンはそのとき、敵の目標物であるはずの自分から大きく外れた数本の毒矢を見逃した。
 視界の端を通り過ぎていくもの。毒矢。背後へ駆け抜けていく。─── 仲間のもとへ、一直線に。


「……ッ!!」


 気づいた瞬間、鈍色を凍らせたクオンは本能が命じるまま駆け出した。僅かに残像を残して白が奔る。
 毒矢と麦わらの一味の間、敷かれた円の際に白が滑り込んだ。しかし熱に侵された体は僅かに毒矢の軌道とずれ、それを埋めるために左手を伸ばす。
 刹那─── 手の平と腕を、毒矢が貫いた。


クオン……!?」

「バカお前、何してんだ!!」


 驚愕と焦燥の声が耳朶を打つ。ナミとサンジだ、とかろうじて判じた。
 毒矢に貫かれた箇所が熱い。神経が鋭い痛みを知覚した。毒に侵された血が傷口から広がり、白い袖を赤黒く濡らしていく。
 ああ、しまった。能力を使えばよかった。この“余興”では能力を使わないと決めていたばかりに、余計な傷と毒を負ってしまった。


『さらに毒を食らってしまったクオン!!でものんびりとはしていられないよ~~!ポイズの猛追だ───!!』


 クオンが仲間に声をかけるよりも早く。イトミミズの実況が落ちてきたときには、無数の毒矢が迫っていた。毒矢の群れは横に広く、逃げ場がない。
 避ければ確実に仲間を襲うそれに、「クオンの“絶対ルール”を破る気!?」とナミが叫ぶ。だがポイズは意に介さずせせら笑った。


クオンを狙っているだけだ!まぁ、少し軌道がずれているようだが、毒でこっちも朦朧としているんでな。しょうがない」

「……っ、クオン!あれはルフィとゾロとサンジ君が何とかするから、あんたは避けて!」


 ナミが怒鳴るように叫んで固く拳を握り締める。本当は手を伸ばしてふらつく肢体を押してやりたいが、そうすればクオンが定めた“絶対ルール”に抵触して反則負けとなる。さらにはペナルティまで負ってしまうことになり、それはここまで毒に侵されながらも戦ってくれたクオンの努力を無下にすることと同義だ。

 歯を食いしばってポイズを睨むナミを背に、クオンは小さく喘鳴を落とした。
 毒矢が迫る。ナミが何か言っている。だがその声は耳を素通りしてクオンの中に意味を残さない。
 護らなければ。仲間に毒矢を届かせてはならない。愛するひとの息絶えた姿は、もう見たくない。今のクオンの中にあるのはそれだけだった。
 左手を掲げる。毒矢が刺さった左手を、躊躇いなく。鈍色に鋼が差した。


「─── 斥力アンチ


 オン、と結んだ瞬間、眼前に迫ったすべての毒矢が動きを止めた。


『ああ───!?これはまさかまさか、第1回戦で我らフォクシー海賊団のお邪魔攻撃のことごとくを防いだ能力ちからなのか!?悪魔の実の能力者だとしたら、果たしていったいどんな能力なのか気になるよ~~~!』


 横に広がった毒矢が、薙がれたクオンの左腕に従って矢尻の向きを変えた。一糸乱れぬ動きで真反対を向き、指を鳴らすと同時に毒矢の絨毯が音もなく収束していく。瞬く間に巨大な矢の形をなしたそれが、ぎらりと陽の光を鋭利に反射した。


「ひっ……!」


 巨大な毒矢に見据えられ、武器を奪われたポイズは顔色を変えた。ただでさえ毒のせいで悪かった顔がみるみる色を失っていく。
 それはポイズだけではなかった。その後ろに並ぶフォクシー海賊団のクルーもまた揃って青褪め、わっと悲鳴を上げて左右に分かれていく。その波が完全に分かれてしまう前に、クオンは掲げた左腕を振り下ろした。

 風を切り、弾丸のように巨大な毒矢が奔る。
 瞬きひとつで視界が無数の矢尻で埋め尽くされ─── ポイズは、情けない悲鳴を上げて横に跳ねると地面に転がった。


「ひぁあああわああぁあああ!!!」


 自分が作った毒だからこそその効果を一番よく知っているのだろう。過剰なほど大きく距離を取って無様に倒れ、そのままさらに這って逃げようとする。まさか追撃があるのかと思い至って弾かれたように顔を上げたポイズが毒矢が通り過ぎた場所を振り返り、無数のそれが地面に突き刺さっているのを目にした。
 尻もちをつき立ち上がれずにいるポイズが茫然とそれを見ていれば、ふいに陰が差して反射で顔を上げる。視界が、ブーツの底で埋まった。


 ドゴォ!!!


「ひげぶっ!!!」

『決まった~~~!クオンの飛び蹴りが見事顔面クリティカル~~~!』


 ボールのように大きく跳ねて転がっていくポイズを白い影がゆっくりと追う。
 うつ伏せに転がり立ち上がれない男の背中を思い切り踏みつければ、「うぎゃっ!」と濁った悲鳴がまろび出た。


「いい加減負けを認めなさい。わたしをどうこうできるなどと、夢にもおもうな」


 形の良い唇から絶対零度の声音が落ちる。ポイズは思わず顔だけで振り返り、抜き身の刃のようなが差す双眸に射抜かれて息を呑んだ。
 毒矢が刺さった左腕から血が滴る。ぱたぱたとこぼれ落ちる雫の鮮やかさを目にして、足蹴にされたままの男は自身が白く美しい人間に抱いていた欲望も忘れて恐慌状態に陥った。


「なんっ、なん、何なんだよお前!!飴玉に仕込んだ毒は1分も経たずに立てなくなるくらい強烈なものだぞ!?矢に仕込んだ毒も、即座に神経を痺れさせて意識だけは失わせないおれの特製だ!!なのに何でまだ動けて、たっ、戦えるんだ!!」

「毒などと」


 絶叫する男に、クオンの表情は変わらない。秀麗な顔をぴくりともさせず、白けたように、何の感慨もなく淡々と、鋼が覗く双眸をほんの僅かに細めて告げた。


死ぬまで・・・・食らい・・・続ければ・・・・いずれ・・・慣れる・・・


 まるで毎日朝が来るように、陽が昇りそして沈むのが当然のように、何もおかしいことはないと言わんばかりに静かな台詞が紡がれた。次いで振り下ろされる言葉は、まさしく触れれば斬れる刃。


「面倒くさい。もうこれ以上抵抗をしないでいただけますか。ころすなと言うからころさずにいるんだ。このわたしが、大人しくおまえの負けをまってやっている。私の愛を損なおうとしたお前の生を許して差し上げようと」


 滔々と語るクオンの抑揚のない声が場に満ちた静寂を震わせる。あまりに温度のない声音に、今だけはイトミミズでさえ口を噤んでいた。

 ポイズを見下ろしているために顔を俯かせたクオンの顔は誰にも見えない。雪色の髪が横顔を覆い、前髪が眼窩におさまる瞳の色を隠した。─── 鈍色に差した鋼が、皓々と輝くさまを。
 瞬きひとつせず足蹴にした男へまた何事かを紡ぐために口を開いたクオンは、瞬間どくんと大きく跳ねた心臓に動きを止めた。
 早鐘を打つ心臓が痛みを覚えるほどに激しく鼓動を跳ね上げる。肺が軋み、喉の奥から何かがせり上がってきた。


「……っ、……」


 急速に意識が遠のいて体が傾ぐ。倒れるのを何とか耐えたクオンはポイズの背中から足をどけて数歩後退り、鉄の臭気を帯びたものを必死に呑み下した。口元を右手で覆い、喉を閉じて再びせり上がってくるものを耐える。
 生理的に吐き出したい衝動を散らすために小刻みに肩を揺らして咳き込み───


「ごぼっ」


 本能が開いた喉を過ぎ、歪んだ口元から濁った音を立ててこぼれ出たのは、質量とぬめりけを伴ったもの。
 いやに目を引く真っ赤な鮮血が、白手袋を濡らして袖に伝った。







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