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「うん、折れてはないな。痣もできてない。暫くしたら痛みも引くと思う。けど、痛みがあるうちは無理しちゃダメだからな」

「ええ、分かりました」


 チョッパーの診察を終えて処方された痛み止めを飲み、医者の言うことに素直に頷いたクオンは、このあとに待っている“余興”を、場合によっては不戦敗で流すのもありかと考えた。






† デービーバックファイト 3 †






 クオンがチョッパーと共にメリー号の甲板に出たときには、まだレースの決着はついていなかった。だがもう終盤らしい。司会実況を務めるイトミミズの声がただならぬ熱を帯び、ゴール付近で仲間を待つ両チームの応援も大きくなっている。


クオン、ナミ達戻ってきたかな!」

「そうですね……おや、どうやらナミ達の方が勝っているようですね」

「本当か!?」


 被り物の額に手でひさしを作って眺めたクオンが口元をほころばせれば、チョッパーが笑顔で目を輝かせる。
 ポルチェ達も諦めずに必死で追い上げてはいるものの、ナミ達は十分距離を離しているし、この分では麦わらの一味が勝つだろう。
 チョッパーが喜びもあらわにルフィ達のもとへと駆けていく。クオンもそのあとをゆったりと歩を進めて続き、ゴールに迫るナミ達を見やって、ふと。


 ─── ゴール直前で動きを止めた仲間を、視た。


 は?と思わず声をもらして瞬く。誰にも気づかれることなく鋼を沈ませた鈍色の双眸は再び動き出したナミ達を映して、しかし奇妙な違和感を覚えた。
 何だ。何の障害もなく真っ直ぐにゴールへ向かうタルボート。それには何の違和感もない。乗っている3人の仲間にも何ら変化はない。けれど違う。どこかが違う。何かが、違う。
 迫るタルボート。その大きさが、さっき・・・視た・・もの・・よりも・・・小さい・・・───?

 気づいた瞬間、言いようのない悪寒が氷塊となって背中を滑り落ちる。嫌な予感がした。あれは、あってはならない未来・・だと本能が警鐘を鳴らす。
 ナミ達の姿が垣間見た未来のものと寸分違わない大きさになる。同時、彼らに並走するように岸を走っていた、フォクシーを背に乗せたハンバーグの姿が、あって。


「────!」


 クオンは針を放った。
 本能のみで放った針は音もなく駆け、残像すら残さず瞬く間にフォクシーへ肉薄する。正確に脳天を狙う余裕もなく飛ばされた針はナミ達へ向かって突き出されたフォクシーの腕を貫いた。

 しかし、遅かった。

 そのときには既に、フォクシーが己の悪魔の実の能力を発動し終えたあとで。


「ノロノロビ────ム!!! 痛ァ!?


 フォクシーの手から放たれた光線がナミ達に浴びせられ、同時、針が腕に刺さったフォクシーがにんまりと浮かべていた笑みを驚愕と痛みで上書きして「針ィ!?」と叫ぶ。
 クオンはフォクシーを止められなかったことに歯噛みした。被り物の下で鋭く舌打ちし、右肩に乗ったハリーが相棒の気にあてられてぶわりと背中の針を逆立たせる。

 光線を浴びた瞬間、ひとも船も波もすべての動きが遅くなったナミ達の横をポルチェ達が駆け抜ける。そしてそのままゴールを潜り抜けた。


『勝者!!!キューティワゴン号!!!』


 イトミミズが声高らかに叫ぶ。フォクシー海賊団が歓喜に沸き立ち、祝砲が上がった。
 ─── 負けだ。麦わらの一味はこのレースに敗れ、仲間をひとり奪われることとなる。


「…………」


 クオンはぐっと白手袋に覆われた手を握り締めた。湧き上がる激情が拳を小さく震わせ、しかし深呼吸を数度繰り返して心を落ち着ける。
 いつの間にか止めていた足を再び進めて仲間のもとへ戻れば、能力が切れたのだろう、元の速さを取り戻し遅れてゴールしたナミ達を呆然と見下ろすルフィ達がいた。


「ホイホイホイホイフェッフェッフェ~~~!!!さぁ~~~差し出してもらうぞおめぇらの仲間をひとりよォ~~~う!!!」


 腕に刺さった針を引き抜き、フォクシーがにやにやと締まりなく笑う。
 サンジが慌てて抗議しようとするが、勝っていたのは寸前までだ。結果は変わらない。

 しかし、ナミ達がゴール直前でスピードを落としたのはなぜなのか。
 祝杯を上げるフォクシー海賊団を背後に、船長である悪魔の実の能力者は得意げにつらつらと己の能力の詳細を明かしてくれた。

 “ノロノロの実”を食べ、「触れたものみなノロくなる」ノロマ光子を自在に発することができるようになったフォクシーが実演を交えて語るのをクオンは冷めた目で眺める。だがすぐに興味を失った鈍色の双眸を滑らせ、地面に座り込んで酒を呷るゾロの背を映した。
 そういえば、慌てるルフィ達と違って彼はナミ達が負けたときからひと言も発していない。だが何も思っていないはずがない。
 負けは負け。ならば次の競技で勝って取り返せばいいだけのこと。クオンは瞼を伏せ、ひと呼吸置いて開いた鈍色に鋭い光を宿した。


『第1回戦決着~~~!!!さぁさぁ、では待望の戦利品!!相手方の船員クルー1名!指名してもらうよ!オヤビン!!どうぞ~~~!!』


 イトミミズに促されたフォクシーが、迷わず指を指したのは。


「船医!!!トニートニー・チョッパー!!!」

「おれ!!?」


 自分が指名されるとは思っていなかったのか、驚愕に目を見開いたチョッパーがうろたえる暇もなくその両脇をフォクシー海賊団のクルーが掴んで抱え上げ連れていく。ナミが「そんな…!チョッパー!!」と追い縋ろうとするが、すぐさまフォクシー海賊団によって行く手を阻まれた。
 ステージの上で待っていたフォクシーが引き渡されたチョッパーを嬉しそうに抱きかかえる。想像以上にふっかふかだなオイ♡と大変にご満悦だ。ポルチェもチョッパーに触りたがり、もみくちゃにされたチョッパーが「うわ~~~!!!」と悲鳴を上げる。


「…………“余興”は手早く済ませましょう。いつまでもあそこにいさせては可哀想です」


 仲間をとられて慌てるルフィ達より数歩後ろでステージを静かに眺めていたクオンが素の声音も淡々とさせて呟き、それを聞いた男はしかし無言を返す。だが一瞥はもらい、クオンはそれで十分だった。

 フォクシー海賊団の証であるマスクをつけられ、イスに座らされたチョッパーが今にも泣き出しそうに顔を歪めて麦わらの一味を縋るように見つめる。ああ、ああ、海賊の男がそんな顔をしてはいけない。クオンは決してやわらかくはない眼差しで落ち着きなく仲間の顔に視線をさまよわせるチョッパーを眺めた。


「み゛ん゛な゛~~~!!おで…ウゥ…おれ゛いやだ~~~!!!」


 仲間と引き離されて涙をこぼし、鼻水も垂らしてチョッパーが泣き言を叫ぶ。


「おれは…!お前達とだから海に出たんだ!!ルフィ!!ルフィが誘ってくれたからおれ……海に出たんだぞ!!!おれ、こんな奴らと一緒になんて」

「ガタガタぬかすなチョッパー!!!見苦しいぞ!!!」


 さらに言い募ろうとするチョッパーへ、重く鋭い男の一喝が振り下ろされた。
 誰もがはっとしてゾロを振り返る。クオンもまた顔の向きはそのままに被り物越しに視線だけを向けた。その形の良い唇に、笑みを描いて。


「お前が海に出たのはお前の責任!!どこでどうくたばろうとお前の責任!誰にも非はねぇ」


 背を向けたまま立ち上がったゾロの正論に、チョッパーも思わず息を呑む。ゾロはさらに続けた。


「ゲームは受けちまってるんだ!ウソップ達は全力でやっただろ。海賊の世界でそんな涙に誰が同情するんだ!?」


 最年少の仲間に向けた厳しい言葉に、さすがにナミが「ゾロ!?」と非難の色を目ににじませた。そこまで言うことないじゃないと言わんばかりのナミの肩をクオンが押さえる。はっとして顔を上げたナミに無言で首を横に振った。


「男なら……!フンドシ締めて、勝負を黙って見届けろ!!!」


 刀のような鋭さでチョッパーを見据えるゾロに、チョッパーが涙を止める。
 思わずナミがチョッパーの気持ちも、とゾロへ向かって口を開こうとして、肩に触れるクオンの手に気づくとぐっと言葉を呑み込んだ。
 ものすごく物言いたげではあるが唇を引き結ぶナミを見下ろし、よくできました、と褒めるようにクオンは優しく肩を叩く。レースで乱れた髪を細い指先で梳いて整えれば、その優しい手つきについ気持ちよさそうに目を細めたナミは細く長いため息をついた。

 ゾロの言葉に見守る覚悟を決めたか、乱雑に涙を拭い鼻水をすすり、歯を食いしばったチョッパーはきりりと表情を引き締めると腕を組んでドカッとイスに座り直した。おお~、とフォクシー海賊団から感嘆の声が上がる。クオンも被り物の下で僅かに相好を崩した。
 もう泣きも喚きもしないチョッパーに、「よし!!!」とゾロが鋭く声を上げる。同時、漢気あふれる剣士にフォクシー海賊団も目を輝かせて沸き立った。


「うお───!」

「イカスぜあの剣士!!」

「オヤビン、次あいつもらいましょう!!」

「トナカイも根性あるなぁ」

「泣けたっス、マジ泣けたっス!!」


 次々と上がる歓声に、ふふんとクオンも胸を張る。そうだろうとも、うちの剣士も船医も、とても「良いもの」なのだ。
 だがチョッパーに加えてゾロをもらおうとするのはいただけない。だってあれは、私のものなのだから─── と、考えて。クオンははたと目を瞬いた。


(いえ、確かにゾロの恋心は私のものでしょう。けれどゾロ自身は、決して私のものでは……)


 強いて言うなら船長であるルフィのものだろうか。いや違う、そうではない。そういうことではない。考えることはそれではなくて。
 …………ゾロ自身に対する独占欲を、私は、いつの間に抱えていたのだろう。
 自分の心の動きに戸惑い被り物の下で目をしばたたかせたクオンは、ふいに片手を取られてそちらに意識を移した。見れば、両手でクオンの手を握り締めたナミが真剣な顔で見上げている。


クオン。たとえ“余興”でも、負けちゃダメよ」


 次は基本的に勝っても負けてもリスクのない“余興”。クオンはそれを、適当に不戦敗で流そうと考えた。
 けれど。


「─── ええ、もちろん」


 剣呑な光を鈍色に宿して、クオンは不敵に笑う。
 仲間をとられたのであれば話は変わってくる。たとえ何も得られずとも、己の“愛”を奪った報いを与えなければならないのだから。







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