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 さて、まずは第1回戦「ドーナツレース」。
 ルールはシンプルに島を1周する速度を競うものだが、司会実況を務めるフォクシー海賊団宴会隊長イトミミズ曰く“妨害ボートレース”とのこと。その時点で諸々察したクオンはゆっくりと時間をかけて準備運動を済ませた。

 麦わらの一味はナミ、ウソップ、ロビンの3人。フォクシー海賊団は開会式での進行を務めていたポルチェ、カジキの魚人カポーティ、そしてホシザメのモンダの……2人と1匹。おそらくタルボートの曳航役としてサメを選んだのだろう。
 ナミは相手チームを見て魚じゃない!と抗議の声を上げたが、魚はダメだというルールはないとポルチェは一蹴した。そもそも「デービーバックファイト」に疎いこちらが圧倒的に不利ではあるので、そのあたりは呑み込むしかないだろう。

 両チーム手作りタルボートに乗り込み、スタートラインについて合図を待つ。
 仲間にそれぞれ声援を送るルフィ達の中に混じり、クオンは静かな笑みを被り物の下で浮かべてゾロの方を見ることなく言った。


「ゾロ、多少はお許しくださいね」

「あ?」


 ゾロの訝る声と視線が向けられると同時、司会のスタートの合図と銃声が響いた。






† デービーバックファイト 2 †






 スタートと同時に一斉に放たれたフォクシー海賊団によるお邪魔攻撃が、麦わらの一味のタルボートへ襲いかかる───


斥力アンチ、オン」

『え~~~!?!?!』


 ことはなく。
 左手を翳したクオンの悪魔の実の能力に従い、大小様々な銃弾のすべては空中で動きを止め、そのまま力なく海に落ちていった。殺しきれなかった衝撃こそ多少波を荒立て麦わらの一味のタルボートを海岸から離すように押しやったが、クオンの助力のお陰で被害は皆無と言ってもよかった。

 不意打ちの一斉砲撃をことごとく無効化され、フォクシー海賊団が揃ってぎょっと目を剥き絶叫した。何だ!?どうして!?なぜ効かない!?と慌てふためくさまが海岸にて繰り広げられ、それは出場者であるポルチェ達も同じだった。サメの曳航によってスタートダッシュは切られたものの、何事もなく漕ぎはじめる麦わらの一味と海岸を信じられないものを見る目で忙しなく交互に見ている。


クオンありがとう愛してる!!」

「ふふ、私も愛していますよ、ナミ。なのでその上のものもポイしてしまいましょうね」


 満面の笑みでラブコールと投げキッスをおくるナミに軽く手を振って応え、一斉砲撃が効かぬのならとナミ達の頭上へ放り投げられた巨大な岩を、クオンは指揮者のように指先ひと振りで言葉通りポイと巨岩の軌道をずらして海に沈めた。


『はぁ~~~!!!???』


 第2撃も軽くいなされてフォクシー海賊団が叫ぶ。うるさいですねぇと敵の視線をすべて集めながらクオンは被り物の下で目を眇めた。


「なんっ……!何だあいつ!あの白いの!!悪魔の実の能力者か!?」

「あのふざけた頭の白いの、ふざけた能力ちから使いやがるぞ!!」

「おれ達の妨害が……!!」

「あなた達の可愛らしいお邪魔攻撃など、私からすれば児戯に等しいものです」


 海賊のゲームである以上、“卑怯”とは口にしないながらも十分に表情で語るフォクシー海賊団の面々に向けるのは、上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物。それからこぼれる声音は低くくぐもって抑揚を削ぎ感情をあらわにしない。白い燕尾服を身にまとう人間は決してガタイが良いとは言えず、目立った武器もないゆえに戦闘力も高くないと侮り、さらに懸賞金もついていないただのクルーだと思っていただけにフォクシー海賊団にとってはとんでもないダークホースだった。
 愛嬌があるようで間の抜けたその下で冷ややかに鈍色の瞳を煌めかせたクオンは、見えないと分かっていながらにっこりと美しい笑みを浮かべてみせた。すっと白手袋に覆われた指が海岸に並ぶフォクシー海賊団を指差す。


「サンジ、行けゴー

「ナミさん達に何しとんじゃコラァ!!!」


 低くくぐもったコールに従うようにして飛び出したサンジが怒号と共にフォクシー海賊団へと強烈な蹴りを炸裂させる。ギャアアア!!といくつもの悲鳴が上がるが、麗しの美女達を害しかけた連中に憤懣やるかたない様子でサンジはさらに追撃を加えていく。


「にゃろうが!!頭蓋骨粉砕するぞクソ共!!!クオンよくやった!!!!」

「あとでマーマレードのワッフルください」

「好きなだけ……夕飯に障らない程度にな!!!」


 ちゃっかりしているクオンのおねだりに即頷こうとして食育係としての務めを思い出したサンジが釘を刺す。はーいと良い子の返事をしたクオンによしとやわらかい笑みを浮かべて頷いたコックは、瞬間眼前のクソ共を調理する叩き潰すために表情を般若のそれにして再び脚を振り上げた。
 重い蹴撃音と男達の悲鳴をBGMに、被り物の額に手でひさしをつくったクオンが遠目に見えるポルチェ達を見つめて唸る。


「うーん、相手チームを沈めるのは……まぁ、難しくはありませんが」


 先程巨岩を落とされかけたように、無数の針の雨を浴びせればさすがにひとたまりもないだろう。その気になれば針に追撃機能を加えてどこまでも追い立てられる。だがそれでは“余興”を控えている今、針のストックが少々心許なくなるか。


「やめとけ、クオン。あいつらに任せろ」


 そこに、心ひとつで飛び出しそうな白い背中へ制止の声がかかった。
 こいつは危険と判断した白い人間を背後から狙っていた男を瞬殺したゾロが半歩後ろに佇む。クオンは先を進むポルチェ達と何とか追い上げようとするナミ達を見やり、ゾロを一瞥し、被り物の顎に指を当てて頷きひとつ。


「そうですね。ここはナミ達に任せましょう」

「ああ。……それで、痛むのは右腕か?」

「ん……右肩が、少々。腕が上がりにくいですね」


 互いにしか聞こえないよう小声で言葉を交わす。反動のダメージは然程重くはないが、浅いと言い切れるほどでもなかった。
 クオンはチョッパーを呼びに行くゾロの背から自身の体へ視線を滑らせた。両手を開閉してみれば、やはり僅かに右手の反応が悪い。指先が微かな痺れをもっていた。


(…………反動が、重くなっている?)


 大小あれどあの程度の銃弾の数と巨岩ひとつならば、今までは大した負荷がかからなかったはずだ。それなのに、この肉体は早くも損傷しはじめている。反動による摩耗速度が著しく早い。
 空島での無茶がまだ尾を引いているのか。しかしその傷は完治したはず。クオンは自己判断でそう思っているし、チョッパーも医師としてもう大丈夫だと言ったのだから間違いない。


(少し、能力の使用を控えねばなりませんね)


 なぜ反動が重くなっているのかは分からないが、原因が特定できないでいるうちはそうするしかないだろう。ただでさえ過保護気味な仲間に心配をかけたくはないし、何よりもゾロの目を翳らせたくはなかった。案じるように小さく鳴くハリーを心配はいらないと指先で優しく撫でる。ハリーの顎をくすぐる右手の感覚が少し鈍かった。

 既にナミ達のタルボートは遠く、姿も見えない。フォクシー海賊団も最初の妨害が決まらなかった上に海岸に残る麦わらの一味にぼこぼこにされてはそれ以上何をする気もないようで、大人しく観戦に回ってイトミミズの実況を地面に腰を据えて電伝虫越しに聞いていた。


クオン、肩が痛むんだって!?」


 ゾロに呼ばれて一緒にやってきたチョッパーに言われ、素直に頷いたクオンはしかし、周囲を見回して軽く首をすくめた。


「さすがにここでは少々……メリー号でもよろしいですか?」


 肩を診るとなれば燕尾服のジャケットとシャツを脱がねばならない。仲間にも性別を隠しているクオンがそう伺えば、チョッパーは納得して頷いた。
 メリー号はフォクシーの船によって行く手を封鎖されてはいるが、乗り込む分には何の問題もない。
 早足でメリー号へ向かうチョッパーのあとに続いて数歩進んだクオンは、ふと足を止めると後ろで2人を見送っていたゾロを振り返った。


「ゾロ、私はまたひとつ学びましたよ」

「?」


 被り物越しの低くくぐもった声音は抑揚を削いで感情を窺わせない。けれどゾロには分かる、分かってしまう、やわらかな笑みを含んだ甘い声音が己の知見を綴った。


「私がナミに向ける愛とあなたに向ける愛は、……同じようで、少しだけ違う」


 どこが違う、とはうまく言葉にできない。けれどナミに愛を向けられ、それに同じものを返して。空島で己がゾロに対して口にしたときのものと比べて「違う」と、クオンは確信したのだ。


「私は、まだ恋というものをうまく理解できてはいませんが……もしかしたら、あなたへの愛を抱いたそのときから、ゾロだけが特別だったのでしょう」


 クオンは笑った。当然の事実を告げるように、何の気兼ねもなく、無邪気に、またひとつ育った恋心を自慢げに見せびらかす。
 そうして思い出した。そういえばジャヤを出てクリケットのもとへ向かう道中、恋なんて何も知らないそのときに、クオンはゾロにこう言ったのだ。


 ─── 今更あなた以外を選ぶつもりはありません。私がどれだけ一途かは知っているでしょう?


 そして、今。
 空島でおれを唯一にしろと迫った男に、クオンはあのときと少しだけ意味が違って、けれど発した言葉通りの想いを抱いている。


「……ああ、よかった。私があなたを“一番”に据えたのは、間違いではなかった」


 あのときは何の一番だろうかと疑問に思って、しかしすぐにマシラが現れたことで思考から捨て置かれた。その答えを、クオンは己の心の内で育てようとしている。

 蜜が滴らんばかりに甘くゆるんだ眦、喜色もあらわに頬に薄紅を散らした秀麗な面差しは被り物で隠され、心情豊かに彩られた声音は低くくぐもって眼前の男の耳朶を叩く。だがゾロはその下にある素顔と元の声音がどんなものであるのか疑うことなく容易に想像がついたし、クオンもゾロに伝わると疑っていない。それでも、とふと思うのは。


(素顔であれば、もっとちゃんと、全部、余すことなく伝えられるのに)


 ゾロはクオンから渡されるものを何一つ取りこぼすことなく受けとめてくれると分かっている。
 たまに素顔を見たがられるが無理強いをされたことは一度としてない。クオンが素顔を許すタイミングを正確に見計らい、想定外の事態で被り物が外れれば拾って被せてくれる。
 だからこれは、クオンの望みだ。被り物を被る選択をし続けるクオンのわがまま。何ともままならないものだが、そのままならなさもゾロが原因なのだと思えば愉快な気持ちが湧いてくるから不思議だ。


「おーい、クオンー!」

「おや、少し長話をしてしまいましたね」


 いつまで経っても追いついてこないクオンに焦れたチョッパーにメリー号から呼ばれ、左手を上げて応えたクオンは踵を返す前にゾロを見た。途端、目許に手を当てて空を仰ぐ男が視界に映って目を瞬く。


「……ゾロ?どうしました?」

「お前は……いや、いい。今言ってもどうしようもねぇ」


 ゆるくかぶりを振って言葉を切るゾロだが、クオンの発言を不愉快に思っているわけではなさそうだ。真っ直ぐに見据えてくる眼差しは熱を帯び、それを堪えるように眉間のしわが深まっている。
 さすがのクオンも何やら男心に火を点けたのは察した。それもキャンプファイヤーかそれ以上にでかい火を。ここがメリー号ならば被り物をひん剥かれただろうが、あまりにも多くの目がある外ではそれができずに腹の奥で激情を燻らせている。
 いずれ、そのすべてを自分が受けとめ呑み込むことになる─── ぞく、とクオンの背筋が甘く震えた。


「だから」


 被り物を貫いて素顔まで見通すかのような鋭い眼差しに見据えられる。目を逸らすこともできずに佇むクオンに、そろそろ悟りが開けそうな域に達しかけては秒で俗世に引きずり戻されるという鬼畜の強制反復横跳びを課せられているゾロは、およそ惚れた女に向けるようなものではない凄絶な笑みを浮かべて宣戦布告を叩きつけた。


「お前はお前のやりたいようにやれ。おれも、そうする」


 言葉だけを聞くならとても優しい発言だ。言葉だけなら。けれど男の表情は“優しい”などと到底表現できないもので。おれも、と殊更強調して言われたのであれば尚のこと。


(あ、やばい)


 クオンの本能が危険を察知する。エマージェンシーエマージェンシー。貞操の危機である。いや、たぶんこの体には誰も押し入っていないしそれはゾロにあげると決めてあるのでそれはいいのだがそうではなく。
 くつくつぐつぐつぐらぐらぼこぼこ、男の煮え滾る激情と欲の一端を垣間見て、それを受けとめることになるだろう未来の自分の身を案じた。
 ううん、きっとたぶん相当めちゃくちゃにとんでもなく大変だろうが、私ならできる。というわけで任せましたよ、私。
 クオンは未来の自分へ無責任に押しつけることにした。だって今の私は私のやりたいようにしていいみたいですし。ゾロがそれを許したのだから、それに甘えない道理がないだろう。うん。
 未来のクオンが「過去の私って控えめに言ってひととして最低だったのでは……?」と真顔で呟く所以はここにあったりするが、現時点でのクオンが知る由もない。


「………」


 言いたいことを言って踵を返したゾロの背中を少しの間見つめ、鼓動が速い胸に手を当てたクオンは、またチョッパーに急かされる前にとメリー号へ急いだ。







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