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風がなく惰性でゆったりと海を泳ぐメリー号の背後に唐突に現れた、3体のシーモンキー。間の抜けた猿の顔をした彼らは見目だけならばメリー号と同程度の巨体を有していたとしても脅威には感じない。しかし彼らは非常に厄介なことに、戯れで大波を引き起こす生き物である。
つまり。
「逃げろ───!シーモンキーだ!!!」
「ついて来てやがったのかー!?」
「まずい!!風がねぇ───!!」
「すぐに帆をたたんで!!」
「漕ぐんだ、漕げ~~~!!!」
迫るくる大波を背に、慌ただしく動き出した麦わらの一味の中でただひとり、男達に混じって巨大なオールを握りながら
クオンがのんびりと口を開く。
「まぁ最悪、波に追いつかれても私が何とかしますのでご安心を」
「クオン傷つけたくなきゃ全力で漕ぎなさいあんた達!!!」
ナミの怒号に似た鋭い号令に、男どもがイエッサー!!と声を揃えた。
† 長い島 3 †
シーモンキーが起こした大波から全速力で逃げている途中、帆も旗もない、ウソップ曰く「すげぇ勢いでいじけてる」まるで生気を感じない少数のクルーが乗った船と行き交ったが、ルフィの忠告に顔を上げたかと思えば、宝を奪うだの大波を避けるのが先だだの、大砲を用意しろだの誰に命令してるだの勝手な真似をするなだのと喚き、舵を切るにも方向が分からず、指示する者は皆無で航海士がいなければ船長もいないらしいと彼らの怒号を聞きながら悟った
クオンは被り物の下で眉をひそめた。
まさしく烏合の衆ともいうべき、おそらくは海賊なのだろう彼らにまとまりは一切ない。眼前に迫る大波に何の対処のできずなぜか大砲を撃つ始末。各々が怒鳴るばかりで波一つ切り抜けられないさまは、憐れみよりも困惑を抱かせた。
しかし、こちらを見て「敵船」と言い放った相手を助ける義理などあるはずもなく。
メリー号は何とか大波を躱し、だが騒がしい船はなすすべなく大波に呑まれていくのを、
クオンは冷めた眼差しで眺めていた。
やがて、大波もすっかり落ち着き、再び風が吹き始めた頃。
麦わらの一味の優秀な航海士は、あの大波がシーモンキーのいたずらであり、湿度も気温も随分安定しているからもう次の島の気候海域に入ったのではと推測した。となれば、島が近くにあるはずである。
見張り台に立っていたロビンにウソップが何か見えるかと問い、それに彼女はしれっと答えた。
「島がずっと見えてるわ」
「「言えよそういうことは!!」」
ロビンに仲良くツッコんだルフィとウソップが島が見えたときの作法を教えるが、ロビンはそれをまるっと無視して「割と霧が深いわ」と続ける。その素っ気なさが彼女なりの気安さにも見えて、被り物で表情が見えないのをいいことに
クオンは唇をゆるめた。
とはいえ、霧があるというのは気になる。障害物に当たって座礁でもすれば笑い話にもなりはしない。ナミがチョッパーに前方確認を任せる傍らで、いつでも能力を使えるよう
クオンも努めて周囲を窺った。
隣からのじとりとした剣士の視線は気づかないふりである。もしかしたらゾロには対
クオン能力使用感知センサーが搭載されているのかもしれない、などと最近思い始めた
クオンだが間違いなく自業自得なので口を噤んでおいた。
「─── ところで…さっきの船、気にならねぇか?」
慌ただしさが落ち着けば話題は当然先程の船で、切り出したのはウソップだ。
船長も航海士もおらず、旗がなければ帆もなく、やる気もまとまりもない、海賊の一団として成り立っていない彼らにいったい何があったのか。
ゾロが海戦でもやって負けたんだろと言うが、よく船の様子を見ていたらしいウソップは即座に否定した。船に戦闘の形跡はなく、なのに海賊にとって“命”とも言えるものがあの船にはなかったと。
じゃ、海賊じゃねぇんだろ、気にすんなとサンジが話を締める。状況だけを見ればそうと結論付けてもおかしくはないが、ウソップは納得がいかない様子で小さく唸り「どう見ても海賊だと思うんだがな、あいつら」と呟いて視線をさまよわせた。悪い予感がする、と続けたウソップに「いつもそうだろ」とサンジが返す。それはそう、と
クオンも頷いた。なにせこちらにはトラブルメーカーな船長がいるので。自分のことはしれっと棚に上げておく。
「今度はどんな島でしょうか」
前方甲板へ向かいながらこぼれた好奇心に満ちた声音は愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物を通って低くくぐもり抑揚を削ぐ。だが
クオンの右肩に乗ったハリーは
クオンの気持ちを容易に見抜き、相棒が楽しめる島ならいいんだがなと呟くように鳴いた。
やがて霧が晴れ、島の全容が見えてきた。
目の前に広がる、─── 見渡す限りの大草原。
ぽつぽつと生えるやたら背の高い木が視界に入るが、多少の丘陵はあれど地平線までなだらかな島には一見ひとが住んでいる気配がしない。ひとどころか動物の影も見えず、「何もね~~~!!」とルフィが叫んだ通り、本当に何もなかった。
「何じゃここは!!すげー!!」
清々しいほどの大草原だが、ルフィは目を好奇心に輝かせて歓声を上げて飛び出していく。それとほぼ同時にチョッパーとウソップも飛び出していき、はしゃいでゴロゴロと転がり回る3人を眦を吊り上げたナミが「コラー!!!」と怒鳴って、びくりと肩を震わせた
クオンは3人に続くために手すりにかけていた足をそっと下ろした。そうしている間にテンション高く島の奥へ駆けていった3人の姿が見えなくなる。完全に乗り遅れた
クオンの肩が落ちた。
「もーあいつらは…得体の知れない土地にずかずかと」
「これだけ見え透いてりゃ危険も何もねぇだろ」
腰に手を当てて呆れるナミに錨を下ろしたゾロが返す。それもそうね、と頷いたナミはふと、あの3人に白い姿が混じっていなかったことを思い出し、あの好奇心旺盛な
クオンが珍しい、でもそれはそれであの3人だけってのは不安でもあるわね、と思いながら首をめぐらせ、ハリーを肩に静かに佇む白い姿を見て。心なしかしょぼくれているような気がしないでもないような気が多分にした。
「…………
クオン、一緒に行きましょうか」
「……!」
途端、
クオンの周りにぱっと花が散る。被り物の下にある秀麗な顔が無邪気にほころんだのを疑わず、ナミは半眼で「は?可愛い」と低く呟いた。同意するようにロビンとサンジが頷く。それを見て甘やかしやがってと内心で唸ったゾロは、口にすれば「お前が言うな」と全員から即座に返されただろうが、口にしなかったので何も言われることはなかった。
航海士の許しを得た
クオンはいそいそとナミを横抱きに抱えるとそのままメリー号を飛び出して草原に足をつけた。今更せめて梯子を出すのを待て、とは誰も言わない。
「おお、本当にただの草原ですね。そして何もない」
「ただの草原で何ではしゃげるのよあんた達」
ナミを下ろしてやわらかな草を踏みしめ、被り物の目許に手でひさしをつくりぐるりと草原を見渡して感慨深く呟く
クオンにナミが目を眇めた。よくよく見れば遠目に何か生き物の影が見えた気がした
クオンは、その影がやたらと横に長かったような気がして首を傾ける。はて、気のせいだろうか。
「ここまで見事な草原は初めて見ました。と言うより、草原自体が初めてです。思い切り走ると気持ちがよさそうですね」
そっと女の腕が伸びてきて白い燕尾服のジャケットに覆われた腕に絡み、薄い肩が後ろから男の手にがっしと掴まれる。
クオンの発言を聞くや瞬時に船を飛び降りてきた剣士と共に
クオンの動きを封じた航海士から据わった眼差しが向けられた。
「
クオン、単独行動は」
「イタシマセン」
「よし」
深く頷くナミを一瞥し、何だか空島を経てからさらに過保護度が増したような気がしてならない
クオンだった。心当たりは残念なことにいくつかあるので口にはしない。
肩から手は離したが隣を陣取るゾロを見上げ、視線を後ろに流して遅れて船から降りてきたサンジとロビンを見て、顔を正面に戻す。見渡す限りの大草原は当然何の代わり映えもしなかった。
落ち着いた天候と波、敵影はなく、危険が迫る様子はない。
クオンはふいにぱっと鈍色の双眸を輝かせるとゾロを見上げた。
「ゾロ!約束しましたよね!今がそのときでは!?」
「あ?……ああ、まぁそうだな」
唐突な
クオンの言葉に怪訝そうに眉を寄せたゾロだったが、空島で交わした約束をすぐに思い出すとひとつ頷いた。何やら通じ合っている2人にナミが首を傾げて問う。
「なに?何の話よ」
「ゾロ達はサルベージの際に海の中を見ましたでしょう?私も見てみたいと思ったので、溺れないよう抱えていてほしいとゾロにお願いしたのです」
「で、お前はそれに頷いちまったのか?はぁ~~~
クオン甘やかしてこれ以上わがままになったらどうしてくれる!」
「何か困るのか?」
いきり立つサンジにゾロが真顔で返し、
「…………いや別に困ることはないな」
サンジも真顔で答えた。ナミとロビンが同意して頷く。
クオンのわがままは周りに迷惑をもたらす類のものではないし、嫌な顔をされれば素早く引く素直さと観察眼も持っている。さらに言えばわがままを言うべき相手も言っても許される時と場合もきちんと見極めているので、
クオンのわがままに煩わされることはないのだった。
それにわがままを許せば
クオンが喜ぶし、ならいいか……と思ってしまう甘さが麦わらの一味には共通している。ゾロの言う通り、
クオンを甘やかしてこれ以上わがままになったとしても困ることはない。
しかしそれでも、と努めてサンジはしかつめらしく意識してぐる眉を寄せる。
クオンを甘やかすばかりの麦わらの一味、おれがしっかりせねばとコックらしいことを口にした。
「でも、
クオンの食育に影響しちまうかもしれねぇだろ」
「大丈夫です、サンジの料理はすべておいしいのでそれに関する懸念事項はないかと。わがままも、まぁ、サンジに許される程度にしか言いませんし」
「ならいい」
「いいのね……」
あっさり陥落したサンジに苦笑し、あと自分がわがままを言っている自覚があったの、と言いたげなロビンの視線を
クオンは涼しい微笑みと気づかないふりで流した。
いくらゾロの支えがあるとはいえ海に入りたがる能力者に少し呆れつつも、そういうことならとナミが
クオンを解放し、海の中にまで付き合うつもりはないらしいハリーがオレンジの頭に飛び乗る。自由を得た
クオンはまとう空気を弾ませてゾロの手を握った。
「服は私の能力で乾かせますし、刀だけ置いてもらえれば!さぁ!行きましょう!!」
わくわくとした笑みを浮かべた
クオンが泊めてあるメリー号の方を振り返り─── 近づいてくる海賊船を視認すると同時に動きを止めた。
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