236
『ねぇ■■■■■、恋ってなぁに?』
† 長い島 1 †
背凭れのない簡素なイスに腰掛け、ホットミルクが入ったマグカップを両手に持ったこどもの問いに、あらあらませた子ね、と眼前に立つ誰かはやわらかく微笑んだ。その姿は白い塗料を刷毛で雑に塗り潰したように背景に溶け込んでいて何も判らないが、女だということだけは判る。
返ってきた軽やかな笑みに問いを流されたような気がしたこどもはぷうとまろい頬を膨らませた。それに女はくすくすと優しく笑みをこぼし、あなたもそんなことを気にする年齢になったのねと感慨深そうに呟いてこどもの雪色の髪を撫でる。こどもは気持ちよさそうに目を細め、もっとと言うようにちいさな頭を女の手に押しつけた。
『可愛い
クオン、教えてあげる。恋というのはね、どうしようもないものよ。そのひとのことが恋しくて恋しくてたまらなくなる病。ひとたび恋煩いを発症してしまえば、あまりに恋焦がれすぎて死に至るわ』
気になったから軽く訊いてみただけだというのに、返ってきた思わぬ重い答えにこどもは口をぽかんと開けて固まった。いまだ恋を知らぬあどけないこどもを、女は慈愛に満ちた眼差しで見下ろす。
『東の海にはこんな諺があるわ。─── “恋はいつでもハリケーン”』
『……■■■■■も、そんな恋をしたの?』
『ウフフフ、違うわ。今も、しているのよ』
顔は見えないはずなのに、とても美しく笑っているのが判る。しろいこどもを見下ろしているはずの目が恋焦がれるひとを見ているように遠くなり、燃える炎のような熱が揺らいでいた。
恋はいつでも、ハリケーン。こどもは内心で繰り返した。それはきっと、嵐のような激しさをもってこの体と心を乱すのかもしれない。
女の言う恋はとても苦しそうだけど、それを経験している目の前にいる女はとても幸せそうで楽しそうだ。だからきっと、恋とは、とても良いものなのだ。こどもはそう思って、きらきらとしろい目を輝かせた。そんな恋をしてみたいなぁと子供らしく考えるこどもの頭を、女は優しく撫でる。
『あなたが誰かに恋をしたら、そのときは私が味方になって協力するわ。あのひとは、……あなたが盗られたって泣くかもしれないから、それを私が慰めてあげようかしら。それで私達の絆はさらに深まるの。だから私が協力したってことは内緒ね』
『■■■■■、あくどい』
思わず半眼になって呟くこどもに、元海賊の女は最大級の褒め言葉を浴びたように楽しげに笑った。
† † †
「あああああクオン~~~~!!!!!!!!!!」
「ぎゃぁあああクオン助けて!!!!!!!!!」
「死ぬ!!!!これは死ぬ!!!!!!!!!!」
「いやぁああああああ死にたくない!!!!!!!」
『クオン~~~~!!!!』
「はぇっ!?」
聞いたことのあるような悲鳴が耳をつんざき、眠りの底に落としていた意識を勢いよく引き上げた
クオンはぱちぱちと鈍色の瞳をしばたたかせた。
クオンの腰に腕を回すゾロごとルフィがゴムの腕で抱き込み、その上にチョッパー、ナミ、ウソップが縋りつくようにして重なっている。
黄金の鐘の音を聴いているうちにいつの間にか眠っていた
クオンは眠る前になかったはずの浮遊感に疑問を覚えながら現状把握に努めて船内を見回し、サンジとロビンが顔色悪く船体にしがみついているのが見え、空を見上げればきれいな晴れ空が広がり、そこにあるはずのものがないことに気がついた。
「あ、タコがいません」
「「「「『
クオン~~~~!!!!』」」」」
「はいはい、大丈夫ですからね」
成程、空気が抜けたのか限界だったのかは判らないが、メリー号を運んでいたタコがいなくなったせいでメリー号はまたもや自由落下の憂き目にあっているのか。状況を理解した
クオンはひとつ頷き、しがみついてくるルフィの背を左手で軽く叩いて掲げた。
「
斥力、オン」
瞬間、
クオンの悪魔の実の能力によってメリー号が空中でぴたりと動きを止める。それから徐々にゆっくりと船体を下ろしていけば、何の衝撃もなくその身を青い海に泳がせた。
無事に空から下りられたことに
クオン以外の全員が安堵の息を深く吐き出す。
クオンはいやぁ危なかったですねぇとほけほけ笑い、空から遅れて落ちてきたタコがルフィの頭にクリーンヒットしたのを見てさらに笑った。
んべっ!と短い悲鳴を上げたルフィが
クオンとゾロから離れてタコを引き剥がす。途中で縮んでしまったようだが、それでも青海へ運んでくれたタコに礼を言うルフィにやわらかく眦をゆるめた
クオンはいまだしがみついている他の3人の背を順に叩いた。
「うっうっ……
クオンがいてくれて本当によかった……」
「一生仲間でいてください……」
「お゛れ……
クオンからもう離れねぇ゛……」
ナミ、ウソップ、チョッパーが涙を流しながら言い募る。苦笑した
クオンが何かを言う前に眉を寄せたゾロが3人を引き剥がした。何すんのよゾロ!横暴な!ゾロのケチ!とやんややんや怒鳴る3人にゾロのこめかみにびしりと青筋が浮く。まぁまぁまぁと
クオンが今にも拳を振り上げそうなゾロの両手をそれぞれ握って宥めれば、さすがに
クオンには何も言えずゾロはぐっと呑み込んだようだった。それに「おお、流石
クオン」とウソップが感心して手を叩く。じとりとウソップを睨んだゾロだったが、すぐに
クオンへ意識を切り替えて静かな目で見下ろした。
「右腕」
「正解。……でも少し痛むだけですよ、折れてません」
反動による損傷は軽微、動きに支障はないことを偽りなく告げる。これでは青痣にすらなっていない。本当に支障がない程度の反動だというのに、ルフィ達にしがみつかれてほんの一瞬歪んだ顔を見られていたのだろう。相変わらずよく見ている。
ようやくクルーがひと息つき、海が青いことを実感して、全員の無事を確かめる。おもむろに煙草に火をつけたサンジが感慨深く青い空を見上げて「……すげーとこに、行ってたんだな」と呟いた。それに、ロビンが「落ちてみると……また、遠い場所ね……」と同意するようにひとりごちる。他のクルーも思い思いに呟き、
クオンはいつの間にか避難していたハリーがいつもの定位置である右肩に戻ってくるのを微笑みながら見つめていた。
「よーし……野郎共~!!帆を張れ~~~!!!行くぞ次の島~~~!!!」
ふいに大きく息を吸った船長の号令が上がり、それに従って立ち上がったゾロが
クオンを離す。
クオンも文句ひとつなく床に足をつけた。
帆を張るゾロの傍ら、航海士の指示を待ちながら懐から被り物を取り出した
クオンが礼を紡ぐ。
「ありがとうございます、ずっと抱え続けていただいて」
「礼はいい。役得だったからな」
思わず目を瞠って振り返った
クオンに、ゾロがにやりと口角を上げる。言葉の通り、男のまとう空気は弾んでいた。
少しは休ませろと泣き言を言うウソップを甘い甘いっ!と切り捨てるナミの声が、一瞬遠くなって。言葉の意味を正確に理解したのち、ドッ、と心臓が大きく跳ねた。
確かに恋心を隠さないでと言ったのは自分だけれど、これはこれで、何だか心臓に悪い。否、悪くはない。悪いはずがない。なぜなら胸の奥底から甘い痛みと共に湧くものは、確かな喜びなのだから。
(思い知らされる恋心と共にこの胸に湧くものが、ゾロの望むものであればいいのに)
そんなことを考えて被り物を被った
クオンは、いまだ恋しいという感情を理解できていない。ひとを想うと恋しくて恋しくてたまらなくなり、あまりに恋焦がれて死に至ることもあるとはいうけれど。
ずっと抱えられて互いの体温が同じになるほど触れ合っていて、それが離れたら隙間風が吹き込んだように冷たく寂しく思う。けれど向けられた想いと瞳ににじむ熱がこの心臓を叩き全身に血を巡らせて沸騰させ、その寒さと寂しさを吹き飛ばす。だからこの熱が絶えず欲しくて、その欲をひとは恋しさと呼ぶのかもしれない。
(知りたい。教えてほしい。私の心にあるものは、果たして何なのか)
きっとゾロならば、それが恋だと言ってくれるだろう。言ってほしいと思っている。他の誰にも覚えたことのない感情の動きを、その乱れを、恋だと肯定してほしい。
どこか落ち着ける島に着いたら訊いてみましょうかと、惚れた女の無邪気な質問に煮詰まった恋心を容赦なくぶん殴られ蹂躙されてくちゃくちゃにされることが確定した憐れな男の名を、ロロノア・ゾロという。傍から見れば割と
クオンはひととして最低である。
「波が少し変なの、さぁみんな動いて!とり舵!!」
きたる未来を誰も知る由はなく、小気味よく指示する航海士及びメリー号の背後に迫る大波とその中に紛れるサルの顔を目にした
クオンは、一旦すべての思考を振り払うと彼女の指示に従って動き出した。
← top →