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 唐突に響いたぎゃーぎゃーわーわーと賑やかな仲間の声に意識を揺り起こされ、ゾロの腹を枕に眠っていたクオンはきゅうと柳眉を寄せた。枕、もといゾロがゆっくりと上体を起こすのに合わせて腹からずり落ちた頭が男の太ももに落ち着く。体勢が変わって地面に落ちた掛け布団代わりのマントが再び肩までかけられ、僅かに乱れた髪を梳く武骨な指はまだ寝てていいと告げているようだった。

 薄っすらと瞼を開けば固まって眠っていた麦わらの一味全員が目を覚まして何やら話しているのが見え、暗い空へ視線を滑らせてゆるりと瞬く。朝の気配は近いが、まだ陽は昇っていない。こんな時分に突然騒がしくして、いったいどうしたというのだろう。
 クオンの傍らでこちらもまたすっかり目を覚ましたハリーが呆れたように肩をすくめているのが視界の端に映った。そして、あまりの騒がしさに目を覚ました空の住民達が身を起こす様子も。


「…………」


 ぼんやりと瞬いたクオンは寝返りを打ってゾロの腹に鼻先をうずめた。瞼を下ろせば鼻孔が男の匂いで埋まる。鉄と汗の混じった、今までに何度も嗅いだそれ。一般的には良い匂いとはほど遠いのだろうが、クオンはこの匂いが嫌いではなかった。
 まだ朝でないのならもう少し眠りたい。ここ数日ほとんど何もせず大人しくしていたから摩耗した肉体はだいぶ回復しているが、青海に降りる前に取れる休息はできるだけ取っておきたかった。
 無意識に手を伸ばしてゾロの手を己の頬に寄せ、自分よりも少し高い体温と何度もタコができては潰れた硬い剣士の手の感触に笑みを浮かべる。おもむろに頬に触れる手の親指が唇を撫で、それに反射でちうと吸いつけば秀麗な顔をうずめた男の腹がぐぅと締まって、何だか愉快な気分になったクオンはくすくすと肩を揺らして笑った。






† シャンドラ 5 †






 ルフィ曰く、ノラの腹の中にはたくさんの黄金や装飾品があり、それを根こそぎ奪って逃げようとのこと。また、「滅多に来れねぇ空島だ!思い残すことのねぇように!!」とも。
 そんなわけで、黄金回収に乗り出したのはルフィとナミ、サンジ、チョッパーの4人。ゾロは見張り兼鍛錬のために残り、ロビンは遺跡の方が気になるようで断って、ウソップは空の住民達と取引をしたいと言って物々交換に使えそうなものをメリー号へ取りに行った。
 そして、クオンはといえば。


クオン、いったいどこへ行くんだ。この先には折れた巨大豆蔓ジャイアントジャックしかないぞ」

「そこを目指しているのですよ、ワイパー。……そろそろ見つけた頃合いでしょうから」


 いつもの定位置に相棒のハリネズミを乗せて静養を厳命されていたワイパーのもとを訪れ、開口一番「行きますよ」とだけ言い置いて連れ出したワイパーと共に森を歩いていた。
 ただの青海人だったならばたとえ恩人であろうとワイパーは簡単には腰を上げなかっただろうが、相手がことシャンディアと深い関わりを持つイブリであるならばと素直に古代都市を離れるクオンについてきた。それでも何も言わず淀みなく足を進めるクオンに困惑を隠せない様子で、暫く森を歩いたのちに問い、しかし答えを得ても意図が分からず「??? ……何をだ?」と首を傾げるワイパーを肩越しに一瞥したクオンは被り物の下で吐息のような笑みをこぼした。

 いまだ傷が癒えていないワイパーに合わせてクオンの歩みはゆっくりだ。それもできるだけ平坦な場所を選んでいるため、酋長の命に従って探索に出た者達とすれ違うことはない。
 不思議そうにしながらも足を止めることはないワイパーを連れ、森を抜けて海岸に出たクオンは少し離れた場所に集まる大勢の人間達を認めた。クオンの後ろで同じものを見たワイパーが目を瞠る。
 思わず駆け出そうとした彼を腕を上げて制止した。それでも足は止めずに近づいていけば、シャンディアの者達が何本もの長い蔓を引こうとしているのが判った。
 その蔓の先にあるものは、まさか─── ワイパーが上擦った声を上げる。


クオン、あれは……!」

「あなたがご想像通りのものです」


 被り物越しに低くくぐもった声で紡がれた答えにワイパーが絶句した。さすがに我慢ができなかったようでクオンが止める間もなく駆けていく。掛け声に合わせて蔓を引いていたワイパーの仲間が喜色もあらわに彼に「黄金の鐘があったんだ!」と教えるのを眺めていれば、勢いよくワイパーが振り返った。ワイパーの視線を辿り、愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物をした真っ白い人間がクオンであると気づいたシャンディアが「イブリ!」と叫ぶ。


「酋長に言われて、あなたが示した場所を探せばすぐに見つかったんだ!ありがとう!」

「お礼は鐘を無事に引き上げてからお受けしましょう」


 このままではお礼の合唱が上がりそうで、引き上げ作業に集中するよう軽く手を振って促す。イブリがそう言うのならと、目に見えて士気が上がったシャンディアの者達は太い声を響かせた。


「ワイパー、こちらに。あなたをここへ連れてきたのは参加させるためではありません。見届けさせるために連れてきたのですから」


 作業の邪魔にならないよう森の傍に横たわる木に座ったクオンが手招く。特に重傷だった右腕を指の先まで包帯で覆ったワイパーも今の自分では何の力にもならないと分かっていたようで、参加できないことに歯噛みしつつも文句ひとつなくクオンの隣に腰掛けた。

 2人が見つめる先、全員が力を合わせて黄金の鐘を引き上げようとするが、巨大な鐘はなかなか上がらない。まだ手が足りていないのだろう。
 クオンの能力ならば引き上げることは簡単だ。ちょっと腕の一本は覚悟しなければならないが引き上げにかかる時間も短縮できる。けれどクオンはそうせず、ただ彼らを静かに眺めていた。被り物の下、やわらかく眦をゆるめ、近づいてくるたくさんの“声”を聞きながら。


「ワイパー、勇猛なるシャンディアの戦士。あなたはこれから、何をなしますか」


 スカイピアの住民や神隊が続々と集まって力を貸さんとするさまを共に見つめ、ふいにクオンは問う。
 故郷の奪還は叶った。黄金の鐘は鳴ってシャンドラの灯はともされ、対立し合っていた者達は手を取り合おうとしている。長く、あまりにも長く続いた戦いは、終わったのだ。
 ワイパーは答えない。ただじっと見ている。空の者達が力を合わせて鐘を引き上げる様子を。クオンもそれ以上は問わなかった。答えは聞かずとも構わない。戦いに明け暮れた戦士の心が定まれば、それでいい。

 やがて遺跡に留まっていたほぼ全員がやってきて、その中には酋長の姿もあった。クオンが軽く手を振れば気づいた酋長が目礼を返す。いつの間にかやってきていたガン・フォールもクオンから少し距離をあけて腰掛け、眩しそうに空に住まう者達を眺めている。

 少しずつ黄金の鐘の姿があらわになり、不安定な巨大豆蔓ジャイアントジャックの上に置かれ、次いで地面に乗せようと慎重に運ばれていくのも一切手を出すことなく見ていたクオンの耳に、黙考を重ねていた男の低い声が届いた。


「まだ、答えは出ない。けれどあなたに恥じない選択を約束する」

「それはそれは、大変に光栄なことです」


 被り物越しに伝わる声音は抑揚を欠いてにじむ感情を削ぐ。だが素の声は言葉の通りに喜色を帯びて、小さくこぼれた笑声からそれを正確に読み取ったワイパーの口角が上がった。

 そうして穏やかに2人が言葉を交わす中、ようやく重い音を立てて黄金の鐘が地面にその体を据えた。腰掛けていた木から離れ鐘に近づいていくワイパーを見送り、クオンはふと見知った“声”を聞いてそちらに顔を向けた。
 黒髪を揺らしたひとりの女が近づいてきている。おや、ロビン。クオンは口に出さずに呟いた。まぁ来るだろうと思っていたので驚きはない。
 クオンもまた腰を上げてロビンのもとへと歩を進めた。クオンに気づいたロビンが軽い驚きを見せる。


「執事さん、ここにいたのね。剣士さんが気にしてたわよ。単独行動はあとで怒られるんじゃないかしら?」

「あ」


 そういえば、空に来たばかりのときにナミとそう誓ったような。すっかりぽんと忘れて誰にも言わず遺跡を出てきてしまった。言われてみればそうだったとクオンの肩の上でハリーが手を叩く。


「…………よし、ロビン、口裏合わせをお願いします」

「ふふ、しょうがないひと」


 やわらかくクオンに微笑みかけるロビンの眼差しは手のかかる子供を見るようなそれで、あとで怒られなければどう思われようと構わないクオンは甘んじて受けた。
 足を止めずに並んで大鐘楼に向かう2人に道を譲るように人波が割れていく。
 クオンは改めて黄金の大鐘楼を見上げた。鐘を鳴らす際にルフィの凄まじい一撃を食らったはずだが鐘自体に欠けはひとつもなく、横の柱は一本折れてしまったようだが土台部分は無事で、そこに古代文字が刻まれた石が埋め込まれてあるのが見えた。
 同じくそれを目にしたシャンディアのひとりが「ほら、ここを見ろ」と仲間の視線を促す。


歴史の本文ポーネグリフ…我らの先祖が…都市の、命を懸けて護り抜いた石…!!」


 しかし、その石に刻まれた文字を読むことができる者はこの場にいない。─── ロビンを除いて。
 いったい何が書かれているんです、と酋長を振り返って問うシャンディアに、酋長は静かに文字を見つめ、少しの沈黙を挟んでゆっくりと口を開いた。


「……知らずともよいことだ……我々はただ───」

「『真意を心に口を閉ざせ』」

「!」


 ふいに隣を歩いていたロビンが口を開き、その文言を聞いた酋長が勢いよく振り返る。ロビンはそれに構わず、ただ真っ直ぐに歴史の本文を見据えたままさらに続けた。


「『我らは歴史を紡ぐ者。大鐘楼の響きと共に』」


 青海人が知るはずのない文言を一句違わず紡いだロビンを目を見開いた酋長が凝視する。おぬし…なぜその言葉を、と驚愕もあらわに問う酋長へ「シャンドラの遺跡に…そう刻んであったわ」とロビンが淡々と返した。涼やかな瞳が酋長を一瞥し、「あなた達が代々これを護る“番人”ね」と重ねる。そのまま歴史の本文の前へと歩を進めるロビンの背を、クオンは酋長の隣で足を止めて眺めた。


「まさか…読めるのか!?その文字が……!!」


 黄金の大鐘楼─── 正確にはその石を遥か昔から護り続けてきたシャンディアの者でさえ読むことができない古代文字と向かい合うロビンはそれに答えず、この場にいる全員の注目を浴びながら、暫しの沈黙ののち硬い声音を発した。


「神の名を持つ“古代兵器”、『ポセイドン』…その在処」


 途端、古代兵器!?なぜそんなものについてなど、と辺りがざわめいた。
 クオンもまた被り物の下で眉をひそめる。古代兵器の在処などとまったく穏やかではないものがなぜこの大鐘楼に残されているのか。世界政府が歴史の本文の解読を禁忌とするくらいだ、おそらくその「ポセイドン」なる古代兵器は今もこの世に眠り続けているのだろうが、だとしてそれと滅びたシャンドラには何の関係があったのだろう。

 考古学者でもない自分に分かるはずのない疑問にクオンが首を傾げていれば、失望の色を浮かべたロビンが「やっぱりハズレね」と興味を失くしたように踵を返した。吐息のようなため息を落とす彼女の肩越しに、ふと目に入るものがあって瞬く。


「ロビン、お待ちを。歴史の本文の横に彫られているものは同じ文字ではありませんか?」

「え?」


 クオンが白手袋に覆われた指で示し、それを辿って振り返ったロビンは歴史の本文のすぐ横、三行ほど刻まれた短い文を見つめ─── 驚愕もあらわに息を呑んだ。


「『我ここに至り この文を最果てへと導く 海賊 ゴール・D・ロジャー』」

「は?……海賊王?」


 ロビンが紡いだ、あまりに有名すぎる名前に思わずクオンも絶句する。顔色を変えたロビンが「まさかこの空島に!?なぜこの文字を扱えるの……!?」と声を上げ、傍らの巨大な倒木に腰掛けていたガン・フォールが「ロジャーと書いてあるのか?」と僅かに身を乗り出した。知ってるの?とロビンが問えば、老騎士は静かに頷いて記憶を辿る。


「20年以上前になるが、この空にやってきた青海の海賊である。その名が刻んであるのか」


 その口振りと懐かしむような声音に、どうやらロジャーと多少の交流があったことを察したクオンはそのとき、背筋が震えた自分を自覚した。
 悪寒ではない。ただ、ロジャーが空島へやってきたと、どこにも記録が残っていない夢物語のような事実を、ほんの僅かながら確かに記載した小説があったことを思い出したのだ。
 よくある胡散臭い三文小説には、こうも書いてはいなかったか。然程尺を取らなかった空島の記述の最後には。


『もし、空へ至る者がいたのなら。おれ達が残したものを見つけてみろ。確たる証がそこにある』


 その文章通りに、海賊王ゴールド・ロジャー ─── 否、ゴール・D・ロジャーが空島の、それも黄金の大鐘楼のもとへ辿り着いた確たる証が目の前にある。覆しようのない、絶対的な事実が。
 これではまるで、あの冒険譚は─── 海賊王のいちクルーが残した航海日誌のようではないか。


(…………かの海賊王があの文章通りの人物像であるのなら)


 被り物の額を押さえ、クオンは鈍色の瞳を眇めて苦く唇を歪めると内心で低く呻いた。
 世界政府は処刑した海賊王に関わるもののほとんどをこの世から抹消しようと躍起になっていた時期がある。だがあまりに大量に出回った海賊王に関する書籍は軽い校閲すら追いつかず、大抵はそのまま流通した。ほとんどが根拠のない適当な嘘八百の妄想を並べた虚構だったからというのもあるだろう。それにしれっと紛れてあの小説は世に放たれ、何の縁か今クオンの手元に2冊もある。
 いずれ政府の手により歴史に埋没していくように消されていく、名前すらも一部を改変された偉大な船長を確かに後世へと残すために書き上げられたあの小説の筆者は相当な曲者だ、口悪く散々に描写した船長に負けず劣らず。クオンは胸に渦巻く感嘆のまま被り物の中に小さな称賛をとかした。


「本当に、あなたも確かに海賊王のクルーですよ…!」


 本の筆者と話を提供したクルーは別だと記載していたが、これではそれも怪しいことこの上ない。そして世界中に散らばる小説の顔をした航海日誌はあと何冊あるのか。まさか2冊程度では終わらないだろう。


(さて、いったいあと何冊あるのやら)


 この広い世界の中に散らばったそれを、旅の合間に探してみるのもいいかもしれない。
 ロジャーが残した文章を元に真剣な顔で歴史の本文ポーネグリフについて再度思考を巡らせるロビンを視界に入れながら、クオンは被り物の下、苦く歪んでいた唇を吊り上げて笑みを描いた。







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