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ルフィ主導の宴は連日連夜続いた。
誰もが笑い、踊り、賑やかな音楽が奏でられる。
一日かけてとりあえず取り繕える程度には頭に叩き込まれる膨大な“声”に慣れた
クオンは、いつものように相棒のハリネズミを右肩に乗せて人々の輪を少し外れたところで楽しみながら、代わる代わる声をかけてくる主にシャンディアの者達へ静かな笑みを返した。それだけで嬉しそうに表情をほころばせる彼らが
クオンを示す“イブリ”が何かはいまだ分からないが、ここ数日で深く知っていそうな者の見当はつけていた。
† シャンドラ 4 †
「イブリ。……あなたには、数々の礼をしてもまだ足りない恩がある」
「他の皆様にもう十分なほどいただきました、戦士殿。それに、実際あれを倒して鐘を鳴らしたのはルフィです」
宴の最中、話がしたい、とふいにやってきたワイパーに、
クオンは炎に照らされた秀麗な微笑みを返す。
シャンドラの遺跡を護り、カルガラの意志を聞いて叶えようと約束をして、孤独なウワバミに名を返した白い人間は自分は大したことはしていないと肩をすくめた。本気でそう思っている
クオンをじっと見つめ、雷に撃たれる直前に見た気がした針の盾を思い出しながらワイパーは付け加える。
「おれを、護ろうとしてくれただろう」
「…………結局、私ではすべてが中途半端でしたよ」
墜ちる雷からワイパーを護ろうとはしたが針の盾は粉々に壊され意味をなさず、エネルを倒そうと切り札を切っても通じなくて、降り注ぐ遺跡からこの古代都市を護ろうとしてもそのあとエネルの雷に一部が撃ち砕かれた。黄金の鐘を鳴らしたのはルフィで、
クオンはそれを見ていることしかできなかった。成果と言える成果は、すべてが終わったあとにノラに名前を返しただけ。
「だが、あなたが成そうとしたことに、おれ達は意味を見出している。そして、あなたがここにいるだけですべての物事が急速に進もうとしているのは事実。……それも、良い方向に」
白海にて真っ先に青海人を排除しようとして、スカイピアに住む人間すらも敵としてきた男が、ここ数日のうちに大きく変わっていく流れを静かに見据えてそう言葉を紡ぐ。
クオンは鈍色の瞳を猛々しい戦士へ向けた。祖先大戦士カルガラの意志を継ぎ、シャンドラの灯をともせと吼え続けてきた男は、憑き物が落ちたように思慮深い眼差しを返した。
この戦士は決して粗野なだけの男ではない。固く心に決めた覚悟があまりにも頑強で、燃える意志は他者を燃やし尽くすほどに烈しかっただけのこと。祖先を想い、友を想い、仲間を想う彼は、シャンディアの中で最も情が
強い性質なのだろう。そして自分のためではなく、誰かのために命を懸けて戦える人間だ。腹に揺らがぬ一本槍を持った者───
クオンはそういう者を、好ましく思う。そして定める。この男は「良いもの」だと。
ふ、と唇を笑みにゆるめた
クオンにワイパーが目を瞠る。先程まで浮かべていた静かなものではないそれを見て、秀麗な面差しをやわらかくする笑みが心からのものであると知った。鈍色が優しく細められ、眦がゆるむ。男にしては少し高い声が言葉を紡いだ。
「私の名前は
クオン。青海の海賊、麦わらの一味のクルーです」
シャンディアの戦士に向かって樽ジョッキが掲げられる。中身はみかんのジュースだ。酒は仲間達に止められてしまったので、
クオンは大人しくこれを飲んでいた。
樽ジョッキを持っていない方の指が振られ、どこからともなくひとつの樽ジョッキがゆるやかに直線を描いて飛んでくる。
クオンと向かい合う男はそれを驚いたように受け取り、中を満たす酒を見下ろして、もう一度
クオンを見て。
同じように、口元に笑みを刷いた。
「おれの名前はワイパー。……この空に生きる、シャンディアの戦士」
カツン、ふたつのジョッキが触れ合って軽やかな音が鳴る。
同時にジョッキを呷って中身を干す。真正面から言葉を交わしたのはこれが初めてな2人は互いの健闘を称え合い、そうして、近い未来の決別を交わした。
数度の宴を過ぎたのち、高く昇った陽に照らされたひとつの遺跡へと足を踏み入れた
クオンはすぐに目的の人物を見つけた。エネルに放り捨てられロビンに回収されていた被り物をした顔をそちらに向ける。犬の毛皮を被った老齢の男が垂れ幕の向こうから現れた白い人間に気づいて振り返った。
「シャンディアの酋長殿、少しよろしいですか」
「もしや……イブリ殿?」
上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物が小さく上下に動く。愛嬌があるようで間の抜けた被り物の下にあの秀麗な顔があると気づいた周囲の者達がざわめいたが、聡く
クオンの意図を悟った酋長はすぐに自分以外の者へ外に出るよう言って人払いをしてくれた。
酋長に勧められるまま
クオンは老人と向かい合うように椅子代わりに据えられた島雲のひとつへと腰を下ろす。
クオンはひと息つく間もなく口を開いた。
「前置きは不要でしょうから単刀直入にお訊きします。あなた方が私を差す“イブリ”について教えてほしいのです」
クオンの問いに、酋長はいずれ訊かれると分かっていたのだろう、大した驚きはなく、しかし「失礼ながら、その前に質問をお許しください」と伺われて頷いた。
「あなたは、ご自身が何者かご存じで?」
「いいえ、残念ながら。私は2年前以前の記憶がないのです」
首を振る
クオンに、成程と酋長は頷き、次いで言葉を探すように宙を見上げて呟いた。
「では……さて、どこから話せばよいか…」
それははぐらかそうとしているものではなく、本当にどこから話せばいいのかが分からないというようだった。
酋長は視線をさまよわせ、少しの黙考ののち「やはり最初からお話しすべきでしょう」と息をついた。
「伝え聞く話では、我々が“イブリ”、あるいは“シャンドラの
神子”と呼ぶ最初の人物が現れたのは、空にこの島がやってきた数十年後……300年以上も前です」
酋長は語る。
ある日突然、どこからかシャンディアの隠れ村に流れ着いた真っ白い人間は、あまりにも美しい男だったという。その美しさに外の人間を排斥しようとしていたシャンディアの人々は思わず構えた武器を下ろし、ひどい怪我を負って気を失った彼を村へ運び入れた。
そして目を覚ました彼は最初こそ警戒をあらわにひどく怯えてもいたが、根気よく接し、甲斐甲斐しく世話をして幾分か心を開いてくれた彼の話を聞くと、ここより遥か下の青い海─── 青海にてひどい迫害を受けて空へと逃れてきたと言う。誰も自分のことを知らない場所へ行きたかった、それができないのならばいっそ死にたかった、と。
しかし生きて村へ流れ着いた男はこれも何かの縁だと親切にしてくれたシャンディアのもとで生きることを決め、次第に村へ溶け込んでいき、己の特異能力を用いて村に大きな貢献を果たし様々な恵みをもたらした。
「特異能力?」
「エネルやその配下の神官達、そしてアイサと同じく“声”を聞く力に似たものと聞きます。ひとの感情や思考も読み取り、時に動物とも心を通わし、物言わぬはずの物体にこめられた想いすら詳らかにできた者もいたと。そして何より、たった1人で2人分…いえ、数十人分もの働きを見せたと。……ああ、あなたは既にお気づきでしょうとも。私はイブリと呼ぶ
最初の人物と言いましたから」
シャンディアの村には、それから数十年に一度、同じ色彩を有した人間が度々現れるようになったと言う。
「濃淡の差こそあれど、皆あなたと同じ色です。あなたは
瞳の色が違うようですが、知るはずのないカルガラの意志を汲み、あの空の主とも心を通わした。……間違いないでしょう」
雪色の髪、人外じみた白皙の美貌、そして─── 鋼の瞳。
クオンは無言で被り物を外した。短い雪色の髪が揺れ、前髪の隙間から同色の柳眉が覗く。中性的な人外じみたあまりに美しい顔立ちは容易くひとを堕とすだろう。ただひとつ、真っ白な肉体の中で際立つのが、真っ直ぐに酋長を見据える濃い灰に似た鈍色の瞳だ。
夜空に瞬く星を見つめるように目を細めた酋長が視線を落とす。
クオンに最大限の敬意を払いながら、それでも拭えぬ畏れを覚え、己が内に湧きかねない悪心を振り払おうと一度ゆるく首を振って話を続けた。
「我々があなたをイブリと呼ぶのは、最初の人物がそう名乗ったからです」
のちに、それは血族の名であり本名は別にあったと言うが、その記録はどこにも残されていない。ゆえにシャンディアの者達は稀に訪れる真っ白い人間をイブリと呼び、そして何の縁があったのか、訪れたすべての真っ白い人間は「なぜそれを」と驚いて、由来を知ると納得したように頷き、「ならば、あなた達のもとに身を置こう」と全員が口を揃えてシャンディアのもとに腰を据えた。
イブリは男女問わず戦闘に長けた者ばかりで、故郷を奪還せんと“神”や神隊と戦うシャンディアに力を貸すことも往々にしてあったという。その際には鬼神もかくやという働きぶりであり、奪還こそ果たせなかったものの、膠着していた戦場を大きく前進させるだけの力を敵味方双方に見せつけた。
イブリの美しさと特異能力、大いなる献身性、そして村の人間と心を通じ合わせた者すべてが子をもうけなかった事実が神性さを帯びて、いつしかシャンドラの神子としても呼ばれるようになっていた。
そんな彼らだったが、誰もが自分達を記録に残してくれるなと言い含めていたためカルガラのように像のひとつ、形見すらも残らず、今では口伝でしか伝わっていない。それでも、シャンディアの全員がその存在を知っていた。
「いずれまた、必ずイブリは我々のもとへ現れる。きっとその力を貸してくださるだろう。たとえそうしなくとも構わない、我らは歴代のイブリに数多の恩恵をいただいたのだから十分すぎる。それに、イブリが戦いに出る前に奪還が叶えば、そのときは、……我々は二度と、イブリを喪うことなくシャンドラへと迎え入れられる」
杖を握り締める手が白くなるほど力をこめる老人の、血を吐くような声音が深い後悔をにじませている。
クオンはそれを見て、ああ、彼も彼の“イブリ”を喪ったのだと察した。
なぜか数十年に一度現れる血族。老齢な彼が昔出会っていたとしても不思議はない。
「……あなたの“イブリ”は、どんな方でしたか」
「…………美しい方でした。女神と見紛うように光り輝く、まさしく天上に瞬く星そのもの。幸運にも我らのもとへと降りてきてくださった星の化身なのだと、戦うすべも知らない子供の私は彼女の姿を目にするたびに思っていたのです」
そして例外なく戦闘に長けた彼女は、歴代のイブリ同様シャンディアに恩恵をもたらし、そして“神”との戦いに参戦し─── 骨ひとつ、髪の毛ひと筋残さず、その命を散らした。
「彼女の存在は当時の“神”へも伝わっていたようで、彼女を捕らえようと血眼になっていたと聞きます。ゆえに、彼女が死したことで当時の“神”が怒り狂って我々を殲滅しようとし、また彼女を喪って報復に狂った我々の誰もが武器を取り、全滅も覚悟で総攻撃を仕掛けようとしました」
もちろん、私もそのとき初めて武器を手にしました、と酋長は笑った。笑いながら、その目に冥い炎を揺らして。
「けれど、そうしなかった」
「……ええ。何よりも彼女がそれを望まないと、彼女が死す直前まで共にいた者が証言しましたから。生きてと望まれたのであれば、我らは彼女を滅ぶ理由にしてはなりません」
そしてシャンディアは血を吐く思いで報復を呑み込んだ。当時の“神”の方は、イブリを喪って狂った末に憤死し、シャンディアの殲滅はうやむやになったという。
ふう、と重いため息をつき、瞬きひとつで瞳にともった炎を消した酋長は真っ直ぐに
クオンを見つめた。
「─── イブリ。我々が求めた、しかし青海の方と共に来られた最後の神子。私はあなたに伝えなければなりません」
「聞きましょう」
「歴代の方々は口を揃えてこうも言いました」
─── いずれ、私達の裔がやってくる。滅びを連れてやってくる。だから私達“滅びの血族”は、最後の裔のために縁を色付かせよう。
「『私達には聞こえぬ想いを聞いた者が、血族が待ちわびた裔である』と。……大戦士カルガラが残した“声”を聞けた者は、あなただけでした」
「………“滅びの血族”、イブリ」
それは確か、アラバスタ王国で、コブラが口にした言葉だ。
「“滅びの血族”を追うといい」─── それが、ここへ繋がるのか。
記憶ごとすべてを失くした
クオンのキーワードにしてキーパーソン。記憶を取り戻すために追わなければならないもの。ひとつ知って、そのたびに深まる謎は何を暗示しているのか。
分からないことが多すぎる。分かるのは、
クオンは歴代のイブリにその到来を望まれていたということだけだ。
「……青海に残った他の血族の者達は迫害を受けて各地に散らばったと聞きます。それでも血族は知らず知らずのうちに縁を辿って必ず巡り合うと……だからこそ、シャンディアの村には多くのイブリが訪れたのでしょう」
そして、あなたも。
思慮深い目で
クオンを見やる酋長に、
クオンもまた、静かな眼差しを返した。
歴代のイブリとは違う鈍色の瞳を白い瞼に覆い隠す。失くした記憶と共に追うべき“滅びの血族”─── 名を、イブリ。砂の賢王がそれを紡ぐことだけは断固として拒絶し、国のために早急に出て行くことを望まれた。……滅びを、連れてくるから。
空島へやってきた血族は、そうした迫害を受け血族のことを誰も知らない空へ逃れてきたのだろうか。その可能性は十分にある。
(けれど───)
クオンは瞼の裏にコブラを描いた。
あの顔には、畏怖と警戒はにじんでいても嫌悪の色は一切なかった。それどころか、玉座につく
許しを
クオンに乞うた。許しを得て微笑むコブラの目と声音は、決して嘘も偽りもなかった。確かなあたたかな心が、王の敬意が、この何もかもを失くした真っ白い人間に向けられたのだ。それは疑えない。疑いたくない。疑わないと、心は定まっている。
自分を取り巻くものは現状矛盾の塊だ。しかし破綻はしていない。相反するものが奇妙なバランスで成り立っているのは、
クオンに見えていない部分が支えているからだ。
(知らなければ)
私は何者なのか。欠片を集めて繋げ、その答えを得なければならない。閉ざされた記憶を、開かなければ。
物事はいち側面だけでは語れない。酋長が語る、口伝のみで紡がれた“滅びの血族”、イブリの話とてすべてが真実だとは限らないだろう。
否、酋長の話だけを真実とは言えない、か。酋長の話に偽りはない。しかし
欠けている、と閉ざされた記憶のほころびが告げていた。
「お話をありがとうございます、酋長殿」
短く息をついた
クオンは音もなく立ち上がると背筋を伸ばし、煌めく鈍色の瞳を酋長に向けた。静かに見上げてくる彼へと胸にゆっくりと手を当てて礼をする。白いマントで身を包んでいるため白い燕尾服は見えず、マントをさばいて軽く頭を下げるさまは、まるで一国の王が威厳をもって敬意を払うようにも老人には見えた。そしてそれを、何の違和感もなく老人は受け入れられた。
「血族を代表し、流れ着いたすべての同胞を深く愛してくれたことにも厚く感謝を申し上げます」
ここを訪れる、最後のイブリとして
クオンは心からの言葉を重ねる。
そうして顔を上げ、真っ直ぐに背筋を伸ばし、性別を惑わせる秀麗な面差しをやわらかくゆるめて微笑んだ。
「歴代のイブリのように、裔の同胞である私もまた、微力ながらあなた達に貢献するべきでしょう」
ようやっと“声”に慣れた今ならば、その中で響くひと際大きな“声”を聞き分けることができる。
イブリである
クオンのもとを訪ねて縋るように問いかけてきた者もいた。そのときは答えられなかったが、今ならば判る。
いずれは自分達で見つけるだろう。なぜなら白海、白々海問わず毎日のように隅々まで探し回っていることを
クオンは知っていた。この何もかもが足りない今の自分ができるのは、青海に落ちてしまったのかもしれないという彼らの不安を拭い去り、それを見つけるまでの時間をほんの少し短くすることだけ。
クオンは酋長を見つめながら、酋長ではない何かを見晴るかすように目を細めた。煌めく鈍色がほんの一瞬、鋼に揺らめく。
「折れた
巨大豆蔓を辿りなさい。そこに、あなた達が求めるものがある」
何を言われたのか、酋長は理解が及ばない顔をして─── 呼吸ひとつの間もあけずに思い至り、大きく目を見開くと同時に立ち上がった。まさか、と声なく驚愕をあらわにする彼に
クオンは続ける。
「再びともされた灯を絶やすことのないよう。そして歌う島の声を嗄らすことのないよう、お願いします。……ノラとも、そう約束をしましたから」
「あなたは……!ああ、本当に、なんと言ったらいいか…!」
噴き上がる感情が喉を詰まらせる酋長が深く頭を下げる。
クオンは一度瞼を下ろし、再び開いて鈍色の瞳を覗かせると、このまま自分から飛び出していきかねない老人の足を止めるためにもさらに付け加えた。
「もうすぐ日が暮れます。捜索に出ていた者達も戻ってくる頃でしょう。明日、陽が昇ってから向かうことをおすすめしますよ」
穏やかに微笑みながら紡がれるイブリの言に、シャンディアの酋長は頷きを返した。
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