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 液体が注がれる小さな音を聞いて、白い瞼を開いた海兵は自分が眠っていたことに気がついた。座り心地の良い椅子に腰掛け、肘掛けに頬杖をついていた海兵が目だけで音源を辿る。

 傍らに、女がいた。
 白い塗料を刷毛で雑に塗り潰したように背景に溶け込んだそれの姿はまったくもって判らないけれど、女だということだけは判った。
 書類が散らばった重厚なデスク近く、シンプルなカートの上に用意されたひとり分のティーセットを一瞥して僅かに顔を上げれば、海兵が起きたことに気づいた女がそっと微笑む。寝起きであるはずの海兵の鋭い視線に、しかし女は気にした様子もなく朗らかな声音を返した。


『よくお眠りになられていましたので、起こすに忍びなく』


 紅茶をご用意しても起きないようでしたらもう少しお休みしていただこうかと、とやわらかく言葉を重ねる女が連日働き通しの海兵を案じているのがよく判り、女よりも随分年下の海兵は何も言わずに視線を女から目の前に置かれたティーカップへ移す。女の姿は何も判らないのに、薄っすらと湯気を立てる紅茶の色は鮮やかな黄色に近い茶色をしているのが判った。


『今、お砂糖を』


 好みに合わせて用意を進めようとする女の言葉を無視して、雪色の髪を揺らした海兵は頬杖をついていた手をティーカップに伸ばした。淀みなく口元に運んでひと口。新しいものだな、と海兵は内心で呟く。好みの甘さではなかったが、今まで傍らの女が丁寧に淹れたものがまずいと思ったことがなかった通り、飲めるものではあった。
 無言で一杯を干し、空になったカップを女に差し出す。ソーサーをそのままデスクに置いておけば、おかわりの意図を汲んだ女は嬉しそうに雰囲気を明るくさせて恭しくカップを受け取った。
 早速新しい紅茶をカップに注ぐ女が今度はしっかり海兵の好みに沿った甘さに調整して出すことを、デスクに散らばる書類を見下ろすしろい目をした海兵は知っている。






† シャンドラ 3 †






「……」

「……」

「…………」

「…………」


 既に陽も高く昇り、多くの人間が行き交う古代都市の一角に、腰を下ろし無言で向かい合う2人の男がいた。
 ひとりは緑髪の剣士。白い布に包まれた大きな何かをあぐらの上に乗せた彼はそれが落ちないよう両手で抱えている。
 相対しているのはシャンディアの戦士。全身に包帯を巻いた満身創痍の男は鋭い眼差しでじっと白い布を見つめている。
 どれほどの時間そうしていたか。鋭くはあるが熱のにじんだ目を白い布の下にあるものへ向けていたワイパーは、剣士の腕の中で微動だにしないそれに小さくため息をつくとおもむろに腰を上げた。そのまま無言で背を向け去っていく。心なしか肩を落としているようにも見えて、離れたところで2人の様子を窺っていたナミはゾロのもとへと近寄っていくと眉を寄せて首を傾げた。


「なに、あれ?」

クオンと話がしてぇんだと。今はできる状態じゃねぇから改めろっつったんだ」


 既にワイパーから視線を外して白い布を見下ろすゾロが答える。成程、とひとつ頷いたナミが白まんじゅうのようにふくれた白い布を同じように見た。ナミが目を覚ましたときには既にゾロはそうやって白まんじゅうを大切そうに抱えていたことを思い出す。


「それやっぱりクオンなのね。調子悪いの?チョッパー呼ぶ?」

「いや、“声”がうるせぇだけらしい。周りに人が多すぎて悪酔いしてグロッキー状態だ」

「“声”……ね。アイサやエネルの言う心綱マントラみたいな能力がクオンにもあったってことか」


 あんたは当然知ってたんでしょ、と言外に詰問してくるナミの目を、ゾロは無言で逸らすことなく見返した。沈黙こそが是と知ったナミが小さくため息をつく。しかしそれ以上咎めるようなことは言わず、つらいならメリー号に戻したら?と言えば、既にそう言ったが、クオンは首を横に振ってお気に入りの白いマントを持ち出しただけで共にここへ戻ってきたと返された。何でも、リミッターが外れて制御が利かないからこそ今のうちに慣れておく必要があると言って聞かなかったようだ。
 人が起き出すほどにどんどん顔色を悪くするクオンを見かねたゾロがおれにできることはあるかと問うたのは自然なことで、それにクオンが手を伸ばしたのもまた自然なことだった。


「くっついてればおれの“声”の方が大きくてちったァましになるんだと」


 それでも会話はできる状態ではなく、今も夢うつつのさなかで苦しんでいる。
 ワイパーはどうにか少しでもクオンと会話ができないか座り込んでねばっていたようだが、結局は諦めたようだった。あの様子では今のところは、だろうが。

 白まんじゅうを抱えるゾロの傍らにナミが腰を下ろし、立てた膝に両腕を置いて顎を乗せる。注意深く見なければ分からないほどゆったりと小さく上下する白まんじゅうを見つめて吐息のようなため息をついた。


「アイサがね、クオンのこと“イブリ”だって言うのよ。シャンドラの神子みことか、とにかくあの子達にとって大切なものみたいで」


 そういえば、ワイパーもエネルに向かってそんなことを言っていた。あの荒々しかった戦士がエネルに向けた苛立ちと、確かに抱いていたクオンに対する敬意も今ならそのせいだと分かる。
 さらに、クオンを“イブリ”と呼ぶシャンディアの戦士達は、森に入ってクオンへ奉げる貢ぎ物を集めている。到底ひとりでは食べられない食べ物をはじめ、薬草や調味料の材料なども。クオンに懐いた、ノラというらしい大蛇も嬉々として仕留めた大型動物を運んできて、サンジをはじめ料理の腕に覚えがある者達は食料の振り分けと調理・保存に努め、チョッパーをはじめとした医療関係者達は不足していた薬の量産に励んでいる。ルフィが運び込まれてくる大量の食料を前に目を輝かせていたから、今夜もまた昨晩のような賑やかな宴が開かれることをナミは確信していた。


「ほんと、クオンってば貢がれ上手」


 シャンディアもスカイピアも入り交じって腕に覚えのある者達が集め、技術者達が加工して、他の者達がそれらを必要とする者達へと回していく。その中で生まれも育ちも異なる者達で交流が生まれて絆が結ばれ、次第に大きな輪を形成していく。そうしてひとつの循環が既に生まれつつあり、しかしその中心にいるはずのクオンはそれゆえのグロッキー状態だ。
 実はクオンとの対話を試みたのはワイパーだけではない。代わる代わるゾロが抱えるクオンの前にはひとがやってきていた。その全員が、ワイパー同様肩を落として去っていくことになったが。その前にゾロの眼光に怯えてすごすごと引き下がった者がいることも、こっそり見ていたナミは知っていた。


(“イブリ”って何なのかしら。……ま、何だとしてもクオンは渡さないけど)


 内心呟き、ぐっと決意を腹にこめる。
 白まんじゅうはいまだ身じろぎひとつしない。ゾロが抱えているのもあるが、安心しきっているのか男に凭れて小さな呼吸を繰り返している。
 今のところ誰も口にはしていないが、クオンを空に残してほしいと思っているシャンディアの者達は少なくない。しかし麦わらの一味はそれを許さないし、クオン自身どれだけ乞われたとしても空に残る選択肢を選ぶはずがないとも分かっている。
 クオンが身を委ねているのはおれなのだとゾロが周りに示し、ナミ含む他の仲間達もさりげなくゾロとクオンの様子を窺い時折声をかけているのは、一抹の不安というよりも周囲への牽制の意味合いの方が強かった。クオンは良くも悪くもひとを惹きつけてしまう。……人間以外もね、とナミは上機嫌にジュラジュラ鳴きながらハリーと森に入っていった大蛇を思い浮かべて付け加えた。


「……、……ん」


 ふいに白まんじゅうが微かに動いて、ナミは思考に飛ばしていた意識を戻した。ゾロの武骨な手があやすように白まんじゅうを軽く叩く。
 体勢を変えているのか、もそもそとした動きにマントがずり下がって雪色の髪があらわになり、ゆるく開かれた瞼の下から瞳が覗く。鈍色と鋼が揺らめく不思議な色合いをしたそれがぼんやりとナミの方を向き、唇が音もなく単語を紡いだ。それが何かは判らず怪訝に思うより先にクオンの顔色の悪さに気を取られた。


クオン、あんた本当に顔色悪いわよ。寝てていいから、それとも水でも飲む?」


 青白い秀麗な顔をマントで覆い直して隠しながらナミが問えば、焦点が不確かな瞳がナミを見て、大好きな仲間を認識した雪色の獣はそれはそれは嬉しそうに破顔した。ウッ、と好意120%のがんぜない笑みに心臓を撃ち抜かれたナミが短く呻く。ダメだわこれ、しまっとかないと。マントをさらに深く被せたナミはクオンを抱え直して後頭部に手を添え顔を隠すように自分の肩口に押しつけるゾロによしよしと頷いた。ナミが見えなくなって不満そうに息をもらすクオンには悪いが、さすがにこれは誰にも見せられない。
 再び白まんじゅうと化したクオンがマントの隙間からゆったりとした声をこぼす。


「……ナミ」

「なぁに、クオン


 即座に返した声音は誰が聞いても優しく穏やかなもので、ナミは表情も同様にゆるめて促した。1音たりとも聞き逃さないように白まんじゅうへと身を寄せて耳を澄ませる。


「ナミのみかんが、食べたい」


 とても珍しいクオンのおねだりにナミは目を瞠った。あれだけ大量の貢ぎ物をされてもその中のどれでもなく、ナミのみかんがいいと言う。深い笑みを浮かべたナミがクオンに返す言葉など決まっている。


「仕方がないわね」


 いいわよ、少し待ってなさい。そう言って立ち上がったナミの耳に、「うん」と小さなクオンの声が届く。
 しっかりするべきときは凛と背筋を伸ばしているくせに、こうして甘えたなときは一味の中で一番年若いチョッパーよりもさらに幼くなる。まったくもって、可愛いひと。……本当に、エネルなんかに連れて行かれなくてよかった。
 ルフィがクオンを取り返してからもう何度思ったか分からないことを再度思い、ナミはクオンのおねだりを叶えるべく踵を返した。







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