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 夜通し続いた宴もひとり、またひとりと眠りに落ちたことでゆるやかに終わりを迎え、朝に近い時刻ともなれば既に誰もが寝静まっていた。
 地面に直接寝転び、それぞれが平和に寝息を立てて深い眠りにつく中、むくりと体を起こす者がひとり。


「………」


 薄く開いた眠気がにじむ目を手の甲でこすり、無言で顔ごと視線をめぐらせる。青い巨躯を横たえ、大きな口をぱかりと開け鼻ちょうちんをふくらませて眠りこける大蛇のとぐろの上に、眠る前まであったはずの白い人間の姿はない。予想はしていたので驚きはなく、夜明けの気配が濃い澄んだ空気を吸い込んだゾロはぐっと伸びをすると立ち上がった。






† シャンドラ 2 †






 “髑髏の右目”にあるシャンドラの遺跡から東へ、停泊してあるメリー号よりも南寄りの海岸に、クオンはひとり腰掛けてこれから昇る陽と朝焼けを待っていた。とは言っても、壁のように立ちこめる雲に覆われて実際に目にすることはかなわないと分かっている。それでもクオンは自分の足でここへ来た。

 静かな鈍色の瞳を夜の色を残した空の果てへ向け、秀麗な素顔をさらし形の良い唇にゆるやかな弧を描いて鼻歌を口ずさむ。調子外れで音程があべこべの旋律が空の海の波立つ音に混じり軽やかに流れていくのを何となしに聴いていた。

 クオンの肩にハリネズミの姿はない。共にここにやってきた相棒をひとり置いて森へと入っていったきりだ。クオンはそれを止めなかった。止める理由がなかったからだ。
 クオンクオンの心が向くままここへ来て、ハリーはハリーの心が向くまま踵を返した。なぜハリーがそうしたのか、クオンは容易に想像できていたし、すぐに答え合わせができることも知っていた。

 軽やかで優しい音の連なりが夜明けを待つ空にとけていく。
 調子外れで音程があべこべの旋律はひたすらに穏やかで、子守唄のようでもあり、ゆるやかなバラードのようでもあり、どこか童謡じみた懐かしさもあった。時間にしてほんの数分、短い曲は唐突にふつりと終わり、同時にさくりと土を踏みしめる音が耳朶を打つ。


「下手だな」

「これ以上はどうにも上手くならないのです」


 言葉とは裏腹にちっとも残念そうではない声音と小さな笑みをこぼして肩をすくめたクオンが振り返れば、深く巨大な森を背にしたゾロと目が合った。その頭には男の道案内を務めたハリーが乗っている。やっぱりそうでしたかと、クオンは穏やかな笑みで答え合わせを終えた。
 ひとつ瞬いたハリーがゾロの体を下りて森へと消えていく。まったくよく気が利く相棒なことで。あとで存分に愛でようと心に決めて、今はこの男と向き合うべきだと再び視線を合わせる。


「ゾロ、こちらに」


 岸壁に腰掛け足を垂らすクオンが微笑みながら隣の地面を白手袋を外した右手でぽんと叩けば、呼ばれたゾロは片眉を跳ね上げた。
 怒涛の一日を挟んだとはいえ、ゾロはクオンに強烈な恋心を叩きつけたばかりだ。おれの恋を思い知れと、確かにそう言ってクオンの秀麗な顔を真っ赤に染め上げさせた。だというのに、クオンはそのときと打って変わりどこか達観したような表情でゾロを見つめている。

 男の訝るような眼差しを正確に読み取り、私を追いかけてきたのはあなたのくせにとクオンは苦笑した。ゾロ、ともう一度やわく呼んで男が近づいてくるのを待つ。誘われた通り右隣にゾロが腰を下ろしたのを待って、鈍色の瞳を陽が昇る方角へと向けて口を開いた。


「ロビンと賭けをしました。……あなたが、夜明けの時刻に、私のもとへ来るのかどうか」


 ロビンは間髪いれずに「来るわ」と即答した。自動的にクオンは「来ない」方へと賭けることになったが、賭けの内容を口にした時点で無意識に来てほしいと思っていた。自分がこの空島で夜明けを望むとき、傍にいてほしいと。
 果たして、ロビンの予想通り、そしてクオンの願い通り、ゾロはここへ来た。来てくれた。それが嬉しいと思う心は誤魔化せない。


「賭けはロビンの勝ちです。だから私は、あなたに言わなければならないことがある」


 少しずつ白さを増していく雲の壁から隣に座るゾロへと視線を移す。
 ゾロの目は雄弁だった。今更隠すことのない熱を帯びた眼差しがクオンを見据え、これから紡がれる言葉を静かに待っている。惚れた女を前に欲しい欲しいと渇望する心を抱えていながら、それでもクオンから許しを得られるまではと耐えていた。たとえ何を言われても受けとめる姿勢を保つ男にクオンの眦が甘くゆるむ。


「ゾロ、私、たくさん考えました。そして色々な方にお話しを伺いましたが残念なことに明確は答えは得られず、結局私はあなたが欲する恋とは何かが分からないままです」


 恋とは何だろう。ゾロが望むものは何だ。ゾロの言う「許し」とは、いったい何のことだ。
 散々悩んで考えても答えは出なかった。けれど何も得られなかったわけではない。定めた心が、確かにあった。

 クオンは岸壁から足を上げて体ごとゾロを向いた。クオンの話を黙って聞いていたゾロもまたクオンと正面から向かい合う。
 足をたたんで姿勢良く正座をするクオンの右手がゾロの左手を取って己の頬に寄せる。触れた箇所からじんわりとしみ入る熱に、細められた鈍色がとろりととけた。甘い蜜をあふれさせる花が音もなく花弁を開く。


「だからゾロ、教えてください。あなたが私に望む恋を、どうか骨の髄まで刻んでほしい」


 クオンのゾロに向ける“愛”を恋と呼ぶ者もいると、ロビンは言った。けれどクオンはそれを聞いてゾロが望まないのであれば自分が抱く“愛”は恋ではないと断じた。


「何をもって、どんな想いを恋と呼ぶのか、私には分かりません。けれどひとつ確かなことは、私はあなたにあなたが望む気持ちを……恋を、返したい。あなたがいい、私は恋をするのなら、あなたでなければ嫌だと、そう思ったのです」


 ゾロの目が見開かれる。クオンは笑みを深めた。嬉しそうに、幸せそうに、恋を知らぬまま、男から移る熱を鈍色にのせてただひとりを真っ直ぐに見つめる。


「私が知りたい恋は、他の誰でもない、あなたの恋なのです」


 どうか、あなたの恋を思い知らせてほしいと、クオンは一切の偽りなく願いを口にした。
 世間一般的な恋なんて知らない。それはもうどうでもいい。クオンが知りたいものは、この男が向けてくる恋心だけ。そう思った瞬間に心は定まった。
 いくら普段から判断が早いとはいえ、結論を出すには早すぎたのかもしれない。けれど一度定めたのであれば心は変わらないこともよく分かっていた。“浮気”はすれど、本命には過ぎるほどに一途なのがクオンという人間だった。

 獣が懐くように武骨な剣士の手に頬をすりつける。何度もクオンに触れた手だ。何度もクオンに伸ばされて、少しずつ少しずつ、せっせせっせと囲い込んでひたすらに熱を与えてきた手。クオンの好きな手だ。


「ねぇ、ゾロ」


 甘く、蜜が滴るような声音で男の名を呼び、重ねた手を引く。大した力も入れていなかったがゾロの体は抵抗なく引き寄せられるまま傾ぎ、クオンは僅かに身を乗り出してゾロの唇に己のそれを寄せた。


「─── 私は今、ここにこれ・・があることが、惜しいと思っています」


 互いの唇が触れる寸前、間に一本の指が入った。自分の左手の親指をゾロの唇に押しつけ、自分のものが触れないようにしながら、クオンは瞬きもできずに固まるゾロに微笑みかける。男の左の指の間に自分の指を通して絡め、細い指で男の手の甲を撫でた。


「あなたに触れたい。その唇に触れることを、そこに触れるのが私だけであることを、あなたの唯一であることを─── 許され・・・たい・・


 女の細い親指越しに、クオンは惑う素振りもなく今の想いを吐露する。
 唯一であることを許せとゾロはクオンに望んだ。望むなら唇と胎を許すと言ったクオンはそのとき、ゾロの言う“唯一”が何か分からなかった。許されたいと願う心は“愛”ではないのかと悩んだ。
 けれど今なら分かる気がする。身の内を焼き尽くすような嵐にも似た熱を向けられるのは私だけがいい。私だけでないと嫌だ。そんなわがままを許してほしくて、同じ感情を返したとき、すべてを受け入れてほしいと願う。
 もしそれを恋と呼ぶのなら、成程確かに、クオンがゾロに向ける“愛”は恋ではないのだ。ゾロが望むものではない。


「他の誰にも恋をしないでほしい。私だけであってほしい。私も、あなただけだから。あなただけにするから」


 伝わる熱に浮かされるまま言葉を重ね、顔を離して唇から指を外したクオンはゾロの胸元に顔をうずめた。そのまま凭れるようにして体を寄せる。自分よりも少し高い男の体温がひどく心地好くて、眠ってしまわないように指を絡めたままの手に力をこめた。
 ぴくりとゾロの体が跳ねる。しかし決して突き放そうとはしない。それどころか、中途半端な姿勢になっていたクオンを片手で器用にひょいと抱えるとあぐらの上に乗せた。横向きに座るクオンの背に腕が回ることはなかったけれど、腰を支える男の腕に引き寄せられるまま身を寄せる。
 ゾロの胸元に耳をあててドッドッドッと早い鼓動を聞いたクオンはたまらず笑みをこぼし、男の心臓の位置に耳をあてたまま顔を上げ、眉間に深いしわを刻んで怖い顔を─── 噴き上がりそうになる情欲を耐えるゾロの頬に左手を伸ばした。
 への字に結ばれた口元を親指で掠める。男の肌は意外となめらかで触り心地がいい。もちろん普段から手入れをしっかりしているビビやナミとは比べるまでもないが、クオンはこの感触を気に入った。こうして触れれば、触れることを許されていれば、獣が懐くように手の平に頬をこすりつけられれば、腹の奥底で沸き立つものが確かにあった。


「ゾロ」


 大きくはない声で男を呼ぶ。ゾロはクオンの手が離れないよう自分の右手を重ね、白い手に懐いたまま無言で視線を返した。ゾロの目は魂まで焦げつくかのような熱と燃え盛る嵐に似た激情を湛えて隠さず、さらに瞳の奥底で渦巻く欲が鎌首をもたげているのが、見えて。そのすべてを受け入れようと、クオンは鈍色の瞳を逸らすことなく真っ直ぐに据えて希った。


「私に、恋を教えて」


 恋を知らない女が、恋を知る男に恋願う。

 唇も胎も一度は許したくせに、恋を知るまではとおあずけを強いておいて。
 男の背に腕を回さない自分と、惚れた女の背に腕を回さない男をよしとしておいて。
 欲しい欲しいと女を望む男に、すべてを知りながらならば与えよと傲慢にものたまうのだ。そうすれば必ずあなたに同じものを返そうと、真摯な想いを添えて。


「……本当に、厄介で、たちの悪い女だ、お前は」


 心底しみじみと、感慨深くため息をつきながらゾロは呟く。けれど嫌悪の色は微塵もなかった。それがクオンという人間で、それが自分が心底惚れてしまった女であると理解している。
 それでも恨みがましげな視線は隠せず、じとりと睨み下ろしてくるゾロにクオンは即座に返した。


「そんな私を、あなたは許すのでしょう?」


 答えなど聞くまでもないとほころぶ秀麗な顔が告げている。
 ゾロがクオンと絡めた指に力をこめた。


「─── ああ、許す」


 さらにゾロは言葉を重ねる。ひたとクオンを見据える瞳の奥、情欲をくべて轟々と燃えているのは恋の炎だろうかと甘ったるいことを考えたクオンの胸に、刀の切っ先を突きつけるような鋭さで。


「褒美があるんなら大人しく『待て』を聞いてやる。けどな、お前が『よし』と一度でも口にしたのなら、そのときは……」


 言葉の途中で指を絡めていた手を離し、その手を腰に回して引き寄せクオンの体を反らせたゾロがぐっと身を屈め白い耳に口を寄せる。吐息が触れて小さく震えた耳朶に低い唸りが注ぎ込まれた。


「食わせろ、クオン


 欲に掠れた、男の劣情を隠さない声音が鼓膜を通って脳を侵していく。端的な言葉を補足するように、腰から腹に回った男の手がへそよりも少し下の位置にある女性特有の器官を、薄い腹の上から強く押した。
 頭の奥がじんと痺れて熱を帯びていく。指圧と共に伝わる熱がカッと内臓を灼くようで、背筋を駆け抜けた得体の知れない震えが下腹部に集まって疼きへと変わった。心臓が大きく跳ね、速度を一気に上げた血流に乗って全身に熱が回っていく。顔が熱い。何となく落ち着かない心地になって、縋るようにあいた右手を腹に触れるゾロの手に添えた。発火しているのではと思うほど熱い自分よりもさらに熱く感じるゾロの胸元に頬を押しつける。


「唇も、胎も、あなたのお好きなように。そうされるのは……あなたがいい」


 他の誰も、ここに触れてくれるな。クオンはエネルに執着を向けられたときにそう思ったし、きっとここだけは、ビビやルフィにさえも許すことはできないとも思った。この気持ちは、感情は、どういう心から生まれたものなのだろう。


「ゾロ、これが、恋なのでしょうか……? ひッ!?」


 熱に浮かされるまま問うたクオンは、唐突に赤みを帯びた白い耳に歯を立てられて大きく肩を震わせた。
 痛くはない、けれど思考が真っ白になるほどの衝撃に襲われて愕然と見開いた鈍色の瞳を向ける。途端ゾロの烈しい眼差しと目が合って、その視線の強さから逃れるように男の体に自分の身を押しつけた。それに眉根を寄せたゾロがクオンの腰に回した腕に力をこめ、そこでようやく自分から捕食者に縋りついている事実に気づく。あっと思ったときには再び耳元へゾロが顔を寄せていた。


「可愛い顔してンなこと言うとはな、本当にお前はおれを煽るのが上手ぇ」

「そっ、んなつもりは、なか……っ、あっ、やめてください息を吹きかけないで、ひぃっ噛むのもダメです!」

「耳弱ぇな」

「知らない知らない、そんなこと知りませんほんとに、ほんとうにご勘弁を……!」

「他に誰かここが弱ぇの知ってるのか」

「誰も知りませんよ!たぶん!こんなことするのゾロくらいでしょう!」

「当たり前だ、おれ以外にやる奴がいたら斬る」


 真顔で言い切る男の嫉妬に、本気のマジだと察したクオンは引き攣った声を喉奥から細く絞り出した。本当に記憶を失くす前の自分にそういう相手がいたらどうするのかと今更思って、けれど、それはないとすぐに否定した。そんな人物がいれば、きっと最初からゾロに心を寄せようとも思わなかったはずだ。自分はそういう人間だと、根拠のない確信がある。


クオン

「ッ」


 耳元で名を呼ばれ、びくりと体が震える。顔も耳も、首まで真っ赤に染めたクオンは潤んだ鈍色の瞳を伏せた瞼に隠してゾロの胸元に顔をうずめた。そうすると弱点の耳をさらけ出しているも同然だということにクオンは気づかない。ゾロがくっと愉快げに喉で笑ったのを気配で感じた。
 ゾロの頬に寄せていた手が離れて指が絡められる。ぴったりと手の平まで合わさったそこから生まれた新たな熱がじわじわと心臓へと伝ってきて、ただでさえ早い鼓動をさらに強めていく。痛みを覚えるほど強く早く脈打つ心臓がぎゅうと引き絞られるような感覚がした。

 何となく、ものすごく、無性にこの場から逃げ出したくなる。あぐらに座らされて腰に回った腕に抱き込まれ、指は絡んで離れないのは逃がさないという男の意思の表れで、それでも逃げようと思えば可能ではあるが、クオンにはその気はなかった。なぜなら、ゾロの恋が知りたいと願ったのはクオン自身であるからして。ならば余すことなく受けとめねばと覚悟を決めていた。思い知ってやろうじゃないですか、あなたの恋心。クオンは大変に大真面目である。


クオン。─── 他の誰でもない、おれがいいと思うなら、それが恋だ」


 その言葉が先程口にした問いに対する答えだとすぐに気づいた。恋を教えてと願ったから、そうであれ、真実そうなれと願いながら、そうだと教え込む男に安堵したように微笑む。


「……よかった」


 これで少しは、あなたに返せるものがあっただろうか。もっと知りたい。もっと、もっと、もっと知って、そして返したい。生まれたての私の恋心を、どうか余すことなく受けとめて。貪るように食らってくれても構わない。嵐の奔流に呑まれて溺れてしまったって本望だ。いつか、本当の意味で唇と胎を許したい。

 まったく落ち着かないようでとても安心できる男の腕の中、クオンはゆるむ頬を引き締めることなく瞼を押し上げた。

 朝の匂いが強くなってきた。陽の光が届いて雲の白さが際立っていく。夜明けが、近い。
 空の海の果ては白い雲が壁のように立ちはだかって朝焼けは望めそうにもない。それでも世界に朝は訪れる。暗い夜が明けていく。
 眩しいほどの白が目の前に広がっていくさまを眺めながら、クオンは耳の奥で、どこか遠くに、ドンドットット、と鳴り響く太鼓の音を聴いた気がした。







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