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 鐘が鳴る。黄金の鐘が、高らかに、天高く、あるいは空の遥か下まで。


 カラァ──…ン!!!


 何度も何度も、高く澄んだ、美しい調べがどこまでも響き渡る。
 老人は言う。それは島の歌声。戦士の末裔は言う。それはシャンドラの灯。
 あまりに雄大で、荘厳で、しかしてすべてを包み込むような優しい音色に、クオンは眩しそうに微笑んで聴き入った。






† 黄金の鐘 13 †






 エネルが倒され、動力を失った舟を浮かすプロペラがゆっくりと動きを止めていく。同時にばちりと小さく弾けてクオンを囚えていた雷の檻も消え、白い痩躯はその場に力なく倒れ込んだ。
 耳朶を美しい音色が叩き続けている。これを子守唄に眠れればどれだけいいだろう。少しだけそう考えて、けれどそうするわけにはいかず、震える肘を立てて何とか仰向けへと体勢を変えた。同時、がくんと大きく舟が傾ぐ。船首から海雲へと真っ直ぐ墜ちていく。


クオン!!」


 墜ちていく舟の甲板に転がったまま動かないクオンへルフィが腕を伸ばす。甲板から背が離れて浮いたクオンの腰にぐるりと腕が回って引き寄せられた。
 クオンを抱えたルフィがナミがいる空に浮く雲へと落ちる。雲は2人をぼふりと優しく受けとめ、クオンから手を離したルフィが大の字になって空を仰いだ。クオンもまた、ルフィの横に横たわって晴れた空を見つめた。


「鳴った」


 ふいにルフィが言葉をこぼし、傍らに座るナミがうんと微笑んで頷く。


「聞こえたかな、おっさん達に」

「ええ…きっと」


 ルフィのひとりごとじみた問いに、ナミが優しい声音で囁く。
 鐘の音はもう聞こえないが微かな余韻が残る中、クオンはゆっくりと瞬き、軋む体を動かして上体を起こした。いまだ痺れの残る体を雲に手をついて支えるとルフィを見下ろす。


「ルフィ」

「ん?」

「ありがとうございます、鐘を鳴らしてくれて。お陰で私は約束を果たせました」


 多くを語らないクオンの言葉は、傍から聞けば意味が分からないものだ。約束とは何か。誰と交わしたのか。ナミが首を傾げているのが判る。それでもクオンはそれ以上言わず秀麗な面差しを優しくゆるめ、真っ直ぐにルフィをあたたかな鈍色で見つめた。
 ルフィは何度か目を瞬き、しかしすぐに、にかっと満面の笑みを浮かべる。


「ああ!よかったな!」


 心からの言葉だ。疑いようもない。クオンが誰とどんな約束を交わしたかは問わず、気にもせず、ただ約束を果たせたことを喜んでいる。
 太陽のような笑みだった。クオンも思わず唇をあどけなくゆるめるような、決してなくしてはならないと思わせるそれ。


「……よっし、クオンも無事…ではないけどちゃんとエネルから取り返したし、さっさとここから下りましょ」


 いつまでもここにいるわけにはいくまい。仲間とも合流しなければ。
 そうだなと頷いたルフィが大きく息を吸って風船のように体を膨らませる。ナミがウェイバーごとルフィの体に乗り、クオンもお邪魔することにして、その際に「一応念のため言っておくけど、私に能力かけるんじゃないわよ。落ちそうになればルフィが何とかするんだから」とナミにしっかり釘を刺されて素直に頷いた。

 2人と1台をのせたゴムゴムの風船状態なルフィはゆっくりと風に乗りながら下りていく。
 鬱蒼と生い茂る森が眼下に広がり、巨大豆蔓ジャイアントジャックが聳え立っていた“髑髏の右目”近くに差しかかったとき、おもむろにクオンが口を開いた。


「……ルフィ、ナミ。私はここで下ります」

「え?何でよ、一緒にこのまま下りていった方が楽なのに」


 訝しげにクオンを振り向いたナミが眉を寄せる。クオンはそれに曖昧な笑みを返した。口を開けば空気が抜けてしまうため喋れないルフィが無言でクオンを見る。真っ直ぐ向けられる瞳をクオンもまた真っ直ぐ見返し、先に視線を逸らしたのはルフィだった。分かったと言うように小さく頷かれる。
 船長の許可を得てクオンは笑みを深め、見た目以上に怪我が深いクオンを心配げに見つめるナミの頭を大丈夫だと軽く撫でる。


「先に下で待っていますね」


 返事を待たず、クオンはルフィの体の端に寄り、立ち上がることなく上体を傾がせて頭から落ちていった。悪魔の実の能力があるから大丈夫だとは分かっているが、それでも真っ逆さまに落ちていくクオンを身を乗り出して見下ろすナミを安心させようと手を振る。

 瞬く間に高度が下がり、ルフィも遠く、ひゅおう、耳元で風が鳴る。クオンは長く息を吐いて目を閉じた。
 無抵抗な白い痩躯はさらに地面に近づいていく。落下地点には島雲があるはずだから、然程能力は使わずに着地できるだろう。できるだけこれ以上この体に反動をかけたくない。ならばルフィに乗っていればよかったのにと自分でも思わないでもないが、クオンは一刻も早くシャンドラの遺跡へ─── 仲間のもとへ、急ぎたかった。

 そろそろだろうか。意識して無心になっていたクオンの感覚が迫る地面を感知して目を開け、落下地点を確認すると同時に足から着地できるよう体勢を整えようと身をよじったクオンは、


「─── クオン!!!」


 唐突に名を呼ばれて目を見開いた。
 眼下に島雲が、否、緑が迫ってくる。なぜここに。何で。どうして。みんなと一緒にいるはずじゃ。
 三本刀の剣士はひどく血相を変え、想定外のことに動揺して動けないクオンの落下地点へ迷わず駆け寄ってくる。落ちてくるクオンを受けとめようとでもいうのか。
 このままではぶつかる。あの高度から落ちた勢いでかち合えば、いくら下が島雲でもただでは済まない。さっと顔色を変えたクオンは我に返り、しかしそのときにはもう、眼前にゾロが迫っていた。


斥力アンチ……!」


 慌てて能力を使うが、集中力を欠いて発動した能力では僅かに速度を落としただけで、しかも体勢を整える暇がない。ゾロに合わせて体の向きを変えることくらいしかできなかった。
 落下地点に滑り込んで腕を広げたゾロの胸へと、クオンもまた腕を伸ばして飛び込むように落ちた。


 ボフゥンッ!!


 大きく島雲がたわみ、跳ねる。元の形に戻ろうとする島雲に弾き飛ばされないよう、クオンは必死にゾロの体にしがみついた。ゾロの方もまた、クオンを決して離さないように腕を回して抱きしめる。
 島雲はすぐに落ち着きを取り戻し、倒れ込んだゾロを下敷きに受けとめられたクオンはほー……と長く安堵の息を吐いた。胸元に押しつけた耳がどくどくと疾走する鼓動の音を聞く。と、がばりと勢いよく上体を起こしたゾロがクオンの肩を掴んで体を離した。


クオン!おい生きて…!……る…?」


 必死の形相で顔を覗き込んでくるゾロをきょとりと見上げるクオンを見て、どうやら命を危ぶんでいたらしい男は暫く呆然とし、クオンが目の前でひらひらと素手を振ればはっと我に返った。次いでその顔にじわじわと怒りがにじむ。肩を掴む手に力がこもった。


「お前…!紛らわしい真似すんじゃねぇ!目ぇ閉じて頭から落ちてくるのを見て、おれがどれだけ……!」

「心配してくれたんですか、ゾロ」

「当たり前だ!!」


 微笑んで訊くクオンに、ゾロが叫ぶ。
 エネルに攫われたクオンはルフィが必ず取り戻してくると分かってはいたが、だからといって古代都市遺跡でじっとしておくこともできず、治療も受けずにルフィやナミと共に下りてくるだろうクオンを待つために遺跡から上がれば遠目に落ちてくる白いものが見えて、どれだけ肝が冷えたことか。
 今なら自分の能力を使って着地しようとしたのだと分かるが、それでも血の気が引いて青白い肌が瞼を下ろすと、まるで死人のようで。まさか、まさかと湧く嫌な思考を振り払いながら落ちてくるそれを受けとめるために駆け出して、そうして腕の中におさめたクオンはゾロの内心など知らずにけろりとしている。それどころかどこか嬉しそうに笑ってさえいて、雷が降り注ぐさなか目を覚ましたときに「執事さんのことだけれど」と隠しておくべきではないと判断したロビンの話を聞いてからずっと腹の底に押しやっていた怒りが噴き出した。


「お前があの野郎に攫われたと聞かされたおれの気持ちが分かるか?しかも伴侶にだと?ふざけるなよ、ふざけるな…!」


 刀のような鋭い目を苛烈にぎらぎらと光らせ、燃え滾る熱を隠しもせずにクオンを睨む。八つ当たりだと冷静な部分で分かっていたが、吐き出す場所のない燻る激情が渦巻いてクオンにぶつけることしかできなかった。
 嵐の奔流のようなそれを、クオンはゾロから目を逸らすことなく受けとめる。お前はおれのだろうがと、まだ言えない男を静かな鈍色の瞳で見つめた。


「ゾロ」


 男にしては少し高い涼やかな声で、クオンは男の名を呼ぶ。途端ゾロはぴたりと口を閉ざした。眼差しの鋭さは変わらず、きつく眉を寄せて眉間に深いしわを刻んでいるのも変わらない。けれどクオンの言葉に耳を傾けようとしている。
 ふふ、とクオンは花がほころぶように笑った。
 肩を掴む男の武骨な右手を取って頬に押しつければ、自分よりも少し高い、よく知った心地好い体温がじんわりと冷えた頬をあたためた。甘い蜜が今にも滴りそうな鈍色が細められる。


「ねぇ、ゾロ。私、断りました。あの男を全力で拒否しました。どれだけ脅されても痛めつけられても、絶対に頷きませんでしたよ」


 クオンは剣士の手に頬を押しつけたまま、小さく首を傾けて覗き込むように上目遣いに見つめ、とっても頑張ったんですと言葉を重ねる。


「偽りの言葉でさえ許しませんでした。唇だって守りきりました。胎に触れられる前に針で貫く覚悟だってありました」


 さっとゾロの視線が下を向く。真っ白な燕尾服のジャケットに覆われた腹部には血の一滴もついていない。
 クオンは笑みを深めた。


「だから、褒めてください。よくやったと、そのひと言だけでいいのです」


 雪色の髪と同色の長い睫毛に縁取られた瞼を伏せ、クオンは囁くようにおねだりを口にした。甘くゆるんだ唇は与えられない可能性を一片たりとも考えずに望むまま与えられることを疑っていない。

 ゾロは沈黙した。2人の体温が混じり合って溶け合うように同じになっていく。
 クオンの頬に触れていた男の手に力がこもる。なめらかな白い頬を撫でて離れていくそれにクオンは縋らなかった。伏せていた瞼を押し上げてゾロの顔を見るよりも早く上体を傾がせたゾロの頭が左肩に埋まり、視界を染める鮮やかな緑に瞬く。
 島雲に尻をつけてぺたりと座り込むクオンの痩躯を挟むように男の膝が立てられた。ゾロの右手がゆるく腰に回って引き寄せ、左手はクオンの右手を取って指を絡める。互いの胸元には隙間があり密着こそしていないものの、物理的に囲い込むような体勢はまさしく男の心情を体現していた。クオンは嫌がる素振りを欠片も見せず微笑んで頬を掠める緑の髪にくすぐったそうに目を細め、あいた左手をゆっくりと伸ばしてゾロの頬を撫でる。
 ちりん、耳元で三連ピアスが鳴る。指を絡める男の手に力がこもった。


「─── よく、やった。よく頑張ってくれたな、クオン


 ゾロの低い声が耳朶を優しく叩く。決して上辺だけのものではない、惚れた女が無垢なままであることを心から喜ぶ色があった。


(今、ゾロはどんな顔をしているのでしょう)


 そんなことを思って、表情を探るように頬に指を滑らせる。正直に顔を見たいと言ったらゾロは応えてくれるだろうか。でも見られたくないからゾロはクオンの肩に額を押し当てて隠している。本気で願えば叶えてくれそうだが、それは少し可哀想だからやめておこう。別にロビンに真顔で「ひととして最低だわ」とまた言われる気がしたわけでは断じてない。たぶん。


「ふふ、うれしい、です…ね…」


 目を細めてあどけない笑みをこぼし、ゆっくりと瞬いたクオンは、視界が徐々に不明瞭になっていることに気がついた。目に映るものが何重にもブレて暗くなり、頭がぼうとする。感覚が鈍い。瞼が重くて、体から力が抜けていく。浅かった呼吸が深いものへと変じようとする。
 全身を包むあたたかな男の体温がまどろみを呼ぶ。ただでさえゾロの傍はよく眠れるのに麻酔針を打った体では抗えるはずもなく、弛緩しきった肢体はゾロの方へと倒れ込んだ。体勢を崩したクオンにはっとしたゾロが顔を上げて上体を戻す。


クオン?どうした、どっか痛むのか」

「痛みは、……あまり…麻酔針をうってますから…すこし……ねむくて……」


 言い、もう開くことが難しい瞼を力なく落とす。ゾロに凭れるクオンを支え直すためだろうか、絡めていた指が離れようとして、柳眉を小さくひそめたクオンはぎゅうと感覚の薄い指先に力をこめてそれを嫌がった。


「もうすこし、だけ…………」


 それだけを言い残し、クオンは唇を閉ざした。一拍遅れて絡んだ指を握り返される。腰に回った手に力が入ってさらに引き寄せられて、男の肩口に頬をつける。重なった体から伝わる熱の量が増えた。
 掻き抱くと言うにはあまりにゆるやかな腕の中、ゆるゆるととけていく意識でふいに思う。

 ……ああ、そういえば。
 あんな方法で落ちるようにして下りてきたのは、


 あなたに1秒でも早く会いたかったからだと、言いそびれてしまった───







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