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 平静を取り戻した舟はさらに高度を上げていく。何事もなかったかのように雷雲を広げていく様子を、船べりに凭れながらクオンは奇妙に凪いだ鈍色の瞳で眺めていた。
 甲板に戻ってきたエネルがクオンがいることを目にして口の端を吊り上げる。空を仰いで辺り一帯を覆い尽くすほどの雷雲を順調に吐き出しているのを確かめ、満足そうに頷いた。
 鋭い鈍色がエネルを射抜く。


「……何をするつもりです」

「ヤハハハハハ、決まっている。─── “宴”だ」


 凄惨に嗤い、エネルはクオンを振り返った。歩み寄ってくる男をクオンは目を逸らすことなく見据えた。
 伸びてきた手が頬に触れる。興奮しているのか自分よりも体温が高い、戦いに長けた男の手だった。狂気を帯びた目をうっとりと細めてクオンを見つめるエネルは白い頬を撫で、雪色から覗く耳に触れる。ぴくりと小さく肩を震わせたクオンの手が、指先が白くなるほどきつく握り締められた。





† 黄金の鐘 10 †






 今の自分では、自然ロギア系悪魔の実の能力者を払いのけることはできない。嫌悪に任せて振り払っても雷に痺れるだけだと分かっていた。
 抵抗すればするほど燃えられても困る。しかし従順であるつもりもなく、クオンはできることなら今すぐここから飛び降りてやりたい気持ちをこらえてエネルを睨み続けた。


「私に触るな」

「私の伴侶はつれないことを言う。それに随分怖い顔だ、せっかくの美貌がもったいない。だが、そういうところも可愛いな」


 どろどろとした粘着質な執着が肌にまとわりついて内腑を侵そうとするようで、全身に悪寒を走らせたクオンは無意識に身を引いた。船べりにいるためのけぞるだけでエネルとの距離は変わらなかったが、拒絶されたことを理解した男の顔から笑みが消える。
 頬を撫でていた手がクオンの顎を掴み、ぐいと引き寄せて─── 眼前に男の顔が迫るのを見たクオンは、自分の唇を守るために己の手を滑り込ませた。


「……これをどけろ、クオン


 クオンの口元に覆い被さる細い指は固い意志に従って動かない。白手袋を噛んで引っ張るエネルに無言と鋭い睥睨を返した。
 目を眇めたエネルが顔を離す。と、閃光が走った次の瞬間バヂン!と衝撃と痛みに襲われ、雷を浴びせられたクオンは濁った悲鳴を上げて床に倒れ込んだ。威力が抑えられていたために意識は失わずに済んだが全身が痺れて立ち上がれない。
 口元を覆っていた手も力なく床に落とすクオンを薄い笑みで見下ろしたエネルが腕を振り上げて雷を雷雲へと放つ。思い出したように低く笑った。


「そうだ、この下にはお前の仲間達がいたんだったな」

「……ぅ…」

「ヤハハハハハハハハ!クオン、よく見ておけ!!お前の心を占めるものが消し飛んでいくさまをな!そうしてできたお前の空洞を新たに私で埋めてやろう!!」


 クオンを脇に抱え上げて船べりに飛び乗ったエネルが笑う。嗤う。嘲笑わらう。
 力の入らない痩躯を舟の外を見えるようにして足元に置き、エネルギーを十分に蓄えた雷雲がこの島やエンジェル島問わず次々と雷を降らせていくさまを目に焼きつけさせた。這いつくばったまま目を見開いて見つめることしかできないクオンにエネルは愉悦の笑みを広げる。
 美しい唇を奪うことはできなかったが、焦らずともいずれクオン自ら望み差し出すことになる。今はその反抗的な態度を愉しめばいい。たとえ最後まで抗ったとしても、それをねじ伏せて奪えばいいだけの話だ。


「さぁ…“宴”を始めようじゃあないか」


 唇を舐め、エネルは嗤う。“宴”の開催の音頭を紡いだ。


「─── 万雷ママラガン


 途端、呼応して無数の巨大な雷が雷雲から降り注いだ。腹の奥底に響く轟音をいくつも上げ、眩い光を放ち、そこにある命を無差別に焼き尽くし、命を生む大地を砕かんとする。
 噴き上がる怒りにクオンの視界が真っ赤に染まった。─── 何の権利がお前にあって、こんなことを!


「や、め…!やめろ!!


 いまだ痺れる体を無理やりに起こしてエネルを睨む。それでも立ち上がることはできないクオンを一瞥し、エネルは雷が絶え間なく降り注ぐ光景を眺めて「ヤハハハハハハハ!!」と心底愉しそうに両腕を広げて哄笑すると、


「絶景」


 そう、紡いだ。


クオン


 ふいに静かに名を呼ばれ、ぎらぎらと不穏に光って熱に燃える眼差しに見下ろされる。柳眉を逆立てたクオンは無言で続きを待った。何を言われるかなど、もはや考えるまでもない。


「私の伴侶になると誓えばやめてやってもいいぞ」

「私は偽りの想いを口にしない」

「ああそうだとも。だからこそ、そう言ったときが私に心から屈した証左だ。私はそのときが愉しみでならない」

「……!」

クオンに嫌われるのは悲しいが、なに、それもひとときのことと思えば耐えてみせよう」


 わざとらしく嘯いたエネルは言葉を重ねる。
 青海の剣士を直接殺しはしない、どうせこの島ごと消えるのだから。失われていくさまを、無力な自分を呪いながら眺めていろと、いっそ優しげに。

 ギリ、と唇を噛んだクオンは舟の下を見た。すぐ傍には巨大な蔓が聳えていて、それを辿って降りればゾロ達がいる場所へと着くだろう。けれどクオンはそうはせず、昨晩右手にぬくもりを与えた男を脳裏によぎらせ、右手を握り締めて左手で包んだ。ぬくもりに口付けるように口元へ寄せるその姿は、意図せずして神に祈るようでもあった。

 エネルの傲慢な高笑いが響く。ここは空であり神の領域、すべてが目障り、人も木も土もあるべき場所へ還るがいい、とすべてを壊すためにさらに強く雷を放った。
 そしてシャンドラの戦士達の隠れ村すらもせせら笑いながら放った雷で撃ち壊す。凄まじい衝撃ともうもうと上がる黒煙がここからでも分かった。


クオン、お前は舟を降りるわけにはいかないと言ったな。何が目的だ?」


 空の上のものを壊して得る愉悦を隠しもしないエネルに問われ、クオンは降り注ぐ雷を見つめて、少しの沈黙ののち口を開く。


「……黄金の鐘が理由の大半を占めますが、私がナミ達と共に舟を降りればあなたが怒り狂うことは分かっていましたし、その時点でこれ以上の惨劇が起きたと思えば、判断は間違っていませんでした」

「ヤハハハハハ、遅かれ早かれというものではあるが、確かに」

「それに……」


 言いさし、クオンは口を閉ざす。鈍色の瞳を伏せて胸の内でもうひとつの理由を紡いだ。


 ─── 恋とは、何ですか。


 激しい執着を向けてくるエネルならば知っているのではないかと思ったのだ。嫉妬にまみれ、クオンが欲しい欲しいとうるさいこの男なら。
 しかし、クオンは結局その問いを口にすることなく呑み下した。
 私に向けるものが恋かと訊いて、それに肯かれたくはなかった。冥く燃える執着と情欲を恋とは呼びたくないと、そう思ってしまったからだ。
 だって違う。クオンがゾロに思い知らされた恋とはまるで違う。嫌だと、真っ先に感情が否定した。何の理由もなく、ただ嫌だと思ったから、エネルの抱えるものを恋だと言われたくないし、恋とは呼びたくない。


(私が知りたい、恋、とは───……)


 ぎゅう、と右手を握り締める。左手の親指の付け根が疼いた気がした。
 突然黙り込んだクオンをエネルが見下ろす。クオンは静かに首を振った。そうして、眼下の惨劇を鈍色の瞳で見つめる。
 身勝手にも蹂躙される国を前に、沸き上がる怒りはある。せめて一発ぶん殴ることができればどれほどすっきりするだろう。
 けれど悔しいことに今のクオンには何もできない。エネルには敵わない。だから待っている。


「─── ルフィ」


 小さな呟きが、口の中にとけた。
 傍らに聳える巨大な蔓に視線を這わせ、きっとここから昇ってくるだろう船長をクオンは待っていた。
 ルフィは諦めない。クオンが舟に乗っている以上は必ず来るし、何よりも黄金の鐘をエネルに渡すわけにはいかないと考えるだろう。クオンと同じように、黄金の鐘の響きを、雲の下、青海へ─── モンブラン・クリケットのもとへ、届けたいと思っているのだから。
 耳の奥でルフィの声が甦った。


『なーおい、黄金郷にはでっけぇ鐘があるんだよな!』


 “髑髏の右目”に向かっている道中、ルフィは笑ってそう言い、ロビンが頷き、頑なにゾロの方を見ないようにしていたクオンは思わず最後尾をチョッパーと並んで歩くルフィを振り返った。
 それがどうしたと訝るゾロに、ルフィは良いこと考えたんだと笑った。その大きな鐘を空から鳴らしたら、下にいるクリケットやマシラとショウジョウにも聞こえるのではないかと。


『なぁ!!聞こえるよなー!!』


 そう言うルフィにクオンは被り物の下でやわらかく笑って、確かに頷いたのだ。


「…………ええ、聞こえます。届くはずです。彼らに、きっと」


 そのとき返したものと同じ言葉を祈るように繰り返すその声は、雷が降り注ぐ轟音に紛れて誰の耳に入ることもなかった。







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