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 舟の外を睨み、今にもゾロを殺しに行きそうなエネルを前にクオンは腕を組んだ。即座に飛び出していかないところを見るにどうやらまだゾロは目覚めておらず、その居場所は判らないようだ。
 ゾロを殺されては困る。しかし嘘でもエネルのものになるなどとは言えない。そんなクオンは、嫉妬に怒り狂う男を止めるすべをよくよく知っていた。なにせクオンは1年という時間を重く熱く濃厚な愛を向けてきた王女と共にいたので。もっとも、これから口にする言葉を彼女に放ったことはただの一度もないが。


「彼に何かすれば、私は本気であなたのことを嫌いになりますからね」

「ぅぐ……!!!」

「うっわ、あざとっ」

「たち悪すぎて今ほど仲間でよかったと思ったことないわ」


 柳眉を吊り上げ、冷ややかな半眼で言い切るクオンの「本気で」という希望を捨てさせない物言いとむぅと唇をとがらせてどこか幼さをにじませた可愛い表情にまんまと引っ掛かり、そして「嫌い」という単語が不可視の槍としてエネルの心臓を貫き、何もできず悔しげに歯を軋ませる男を見てドン引きしたウソップとナミの呟きをクオンはまるっと聞かなかったことにした。





† 黄金の鐘 9 †






 惚れた弱みとはまさにのことを体現するかのごとく嫉妬に駆られながらも動きを止めざるをえないエネルと対峙するクオンをよそに、準備を進めていたナミはエンジンをかけたウェイバーにウソップを乗せて逃げる方角を確認した。


クオン!逃げるわよ!!」


 ナミがエネルと対峙するクオンを振り返る。クオンは幸い逃走ルート上に立っているため拾うのは簡単だ。しかし、クオンを連れて逃げようとする2人をエネルがそう簡単に逃してくれるはずもない。積もる苛立ちを当たり散らすような激しい眼差しがナミを射抜いた。


「ひとえに“逃げる”と言っても、相手が私では…容易くはないぞ……!」


 クオンを連れていくとなれば尚更許し難いことだろう。ぞくりと背筋を駆け抜けた悪寒にナミは震え、しかし歯を食いしばって恐怖に耐える。勢いよくアクセルを回してウェイバーを走らせた。ナミの後ろに乗っていたウソップがクオンに向かって手を伸ばす。


クオン!掴まれ!!」


 クオンは必死に手を伸ばしてくるウソップを見やり、目を細めた。やわらかな微笑を浮かべて、足を一歩─── 前に。


「なっ……!」


 目を瞠るウソップから視線を逸らしたクオンがまた数歩前に出る。それはつまりエネルの傍に寄っていることを示し、その明らかな拒絶の姿勢にナミが「クオン!?」と声を荒げた。
 クオンはエネルと共に行くことを偽りだとしても口にすることを拒否した。なのに一緒に逃げようとはしてくれない。いったいどうして。
 わけが分からずクオンを追ってハンドルを切ろうとするナミに、クオンが自分から傍に寄ってきて歓喜の冥い笑みを浮かべていたエネルは気分を害した様子で棍を振りかぶった。その棍を、クオンの白手袋に覆われた手が止める。しかし目は仲間に向けたまま。


「私はまだ、この舟を降りるわけにはいきません」


 ─── だってまだ、約束を果たしていない。シャンドラの灯を、ともさなければならない。
 胸の内でそう続けたクオンは、最初から逃げる気などなかった。今更それに気づいたナミが顔色を変える。
 理由は分からないが、クオンが残るのならばと逃げる青海人2人に追い打ちをかけないことにしたらしいエネルが秀麗な顔を見下ろして口の端を吊り上げる。少し離れた位置に立つクオンを自分の腕の中に引き寄せようと歩を進ませたエネルは、次の瞬間金色が割って入って目を見開いた。


「行け!!!」

「サンジ!?」

「ぐぇっ」


 ナミとウソップが乗るウェイバーへと突き飛ばされたクオンが思わず名を呼ぶ。ウソップの上に尻もちをついたクオンを視認したエネルが表情を消した。怒りでぶわりと全身から電気が奔り、右手が雷と化して大きく爆ぜる。
 腕が振りかぶられた。標的はサンジ、逃れるすべはない。─── ただひとつを、除いて。


神のエル…」

「─── 引力シンパ!!!」


 クオンは迷わなかった。全力を振り絞って能力をサンジにかけ、うぉっ!?と声を上げた彼をウェイバーへと瞬時に引き寄せる。そして自分の位置と交換するようにサンジをウソップへと押しつけて飛び出した。
 サンジを追って腕を振りかぶっていたエネルが突然目の前に現れたクオンに目を見開く。しかし今更雷撃を止めることはできず、振り抜かれた腕から迸る雷が視界を灼くほどの閃光を伴ってクオンへと迫った。
 クオンは眩しさに目を細め、呟く。斥力アンチ。アクセルを回してもいないのに舟の外へ向かって動き出したウェイバーに瞠目したナミの絶叫が轟く。


クオン!!!」

裁きトール……!!」


 針の盾を展開するか。いいや、間に合わない。そもそもそんな力はもう残っていない。
 クオンは瞼を閉ざした。既に限界も近いこの体、砕けてしまわなければいいけれど。麻酔針を打ったから痛みは然程ないことだけが幸いか。

 後ろのウェイバーに乗る3人だけは必ず護る。
 大丈夫だ。確信がある。絶対の自信があった。
 まともに食らえば砕けるこの体を目の前の男がどうしてもと欲しているのだから、死ぬことはない。

 雷が奔る。
 ─── 果たしてそれは、目を閉じて佇むクオンの右腕を掠めて空の彼方へと消えていった。


「ぐ……!はぁ、はっ、は……」


 荒い男の呼吸を聞いてクオンは瞼を開く。右腕が痺れている。しかし壊れてはいない。すぅと鈍色の瞳を目の前に据えれば、大きく肩を上下させたエネルが自分の技でクオンの肢体を損なわなかったことに深い安堵の息をついた。
 軌道を無理やりに変え、慌てて威力も絞った男は大股で歩み寄り上から下までまじまじとクオンを眺め、雷撃を放つ前と比べ変わりのない様子を確かめてひとつ頷いた。だがその顔は苦い。


「あの男…!危うくクオンを損なうところだった、何という真似をしてくれる…」


 雷撃を放ったのはお前だが?とは言わない。クオンさえ舟に残せば何もするつもりはなかったというのに余計なことを、がエネルの言い分だろうが、当のクオンからすれば冷めた眼差しをおくる他ない。


 ドゴゴオオ…ン!!


 ふいに不穏な音が空に響く。同時にぐらりと舟が揺れ、よろめきはしたが何とか体勢を維持したクオンは目を瞬いた。エネルもまた突然の事態に訝って辺りを見渡す。
 次いで不規則な爆発音が聞こえてクオンは顔を上げて音の元を辿る。見れば先程まで舟の頭についていた煙突は黒い雲─── 雷雲を吐いていたはずだが、何かが詰まったかのように異音を繰り返していた。それを目にしたエネルが大きく瞠目し、クオンは登場が遅かったサンジヒーローの活躍を知る。


「ふふ、流石はサンジ」


 唇をほころばせ、やわく眦をたゆませたクオンの言葉に振り返ったエネルが明らかに顔色を変えて忌々しげに歯を軋ませた。


「おのれ……やってくれる……!!」


 クオンを逃がそうとしただけでも大罪だというのに、舟への細工までやらかした上、クオンの称賛までも与えられるなど。
 このまま何もせずにいたら舟が地に墜ちる可能性が高い。それだけはあってはならない。
 エネルは静かに佇むクオンを睨んだ。視線に気づいたクオンは薄い笑みに刷き直し、ことりと首を傾けた。あざとい仕草にエネルが一瞬見惚れる。
 共に来る気は欠片もないが今舟を降りるつもりもないと明言したクオンを信じ、「…歯車が狂ったな…食い止めねば」とひとりごちて身を翻した男の背中を見送ることもせず、ひとり残った甲板でクオンはふらりと後ろに痩躯を傾がせた。


「…………、……」


 ぜ、と濁った呼吸をこぼす。全霊をかけて倒れ込むことだけは己に許さず船べりに凭れて体を支えた。
 鋼を揺らす瞳を瞼の下に隠して意識を広げれば、視えるものがあった。ナミとウソップとサンジは無事下の島雲に着地できたようだ。古代都市で転がっていたゾロ達もまだ気を失っているが遺跡の上がってきている。これは……ロビンか。ひとり立っているロビンが能力を駆使して運んできてくれたようだ。

 舟はボォン、ゴゴォン、と時折爆発音を上げて巨躯を揺らす。
 エネルは果たしてサンジの工作を取り除いて復帰させることができるか─── 考えるまでもなく答えは出ていた。


(この舟は見るからに雷を動力として動いている。ならば、動力回路くらいは熟知していて当然でしょう)


 そうそう簡単にこの舟は墜とせない。そのうちエネルはここへ戻ってくるだろう。そして向かうはずだ、この国のどこかにあるはずの大鐘楼─── 黄金の鐘のもとへ。


 ─── シャンドラの灯をともせ


 耳の奥で戦士の願いが渦を巻く。おれ達はここにいるのだと伝えてほしいと叫んでいる。
 分かっている。叶えよう。約束した。違えぬ約定を、絶対の誓いを、我が名をもって。
 だからクオンはこの舟にいる。だからナミ達と共に降りなかった。行くべき場所へ行くためなら、たとえ敵を喜ばせることになろうとも構わなかった。


(“声”が……聞こえる)


 希う“声”とは違う、もうひとつの無視できないそれがいっそう大きくクオンの頭に響く。近い、と思った。この“声”の元は、とても近くにある。
 この“声”はいったい何なのだろうか。そういえばこの“声”とは違う、けれど似ているもっと小さなものを確か、シャンドラで───


「黄金の鐘…歴史の本文ポーネグリフ…」


 唐突に結論に至ったクオンは目を瞠った。そうだ、シャンドラに残された古代文字、それを使って綴られた歴史の本文は、黄金の鐘と共にある。クオンの耳に届くこの“声”は、歴史から抹消された文字が放つもの。

 ああ、そうか。最初から─── この空の海に辿り着いて複数の“声”を聞いたそのときから、私が至るべき場所は決まっていたのだ。

 まるで導かれるように、いつの間にか世界の禁忌へと近づくために歩を進めていた事実にクオンは気づく。それは元海兵だった自分にとって何の皮肉だろうか。いいやそもそも、なぜ自分は海兵になどなっていたのか。
 答えの出ない疑問に沈みそうになったそのとき、断続的に続いていた舟の異音が止んだ。







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