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クオンを抱えたエネルの案内で辿り着いた場所にあったものに、ナミは驚愕し絶句した。
呆然の目の前の“舟”を見上げる。エネル曰く“空飛ぶ舟”─── 方舟マクシム。一見してものすごい量の黄金が組み込まれたその舟が本当に空を飛ぶのだとしたら、逃げるタイミングを完全に失うことを意味する。
クオンを連れて逃げられなくなる。
(
クオン…!私、どうしたらいいの……?)
縋るように頼りになる仲間を見ようして、神を名乗る男の背中に遮られたナミは白い痩躯を視界に入れることはかなわなかった。
† 黄金の鐘 7 †
正義と書かれた白いマントを折りたたんで躊躇いなく尻に敷きクッション代わりにした若い海兵は、ふよふよと頼りなげに揺れる炎の隣に腰掛けていた。片足を伸ばし、もう片足を立てて膝に肘を置き頬杖をついた少女が輝きをなくしてしょげる炎を無表情に見やる。
─── なぁお前、本当に分からないのか。何でお前の母親がそうしてまでお前を生かしたのか。何でそうして生かすことができたのか。何でお前は今生きているのか
分かるものか、と炎が揺れる。苛立たしげに荒く火の粉を散らして性別を隠している海兵を睨んだ。海兵は表情ひとつ変えず鼻を鳴らして続けた。
─── 海賊王の息子だ、母ひとりで護りきれるはずがない
─── 死した母がお前を託した相手は誰だ。知っているだろう
─── では、海賊王の子を身ごもった母をそいつに託した者は誰だ。お前の母を世界から隠せる者に頼めたのは誰だ
─── 一番最初に、母ごとお前を託したのは、誰だ
炎が揺らぎを止める。沈黙ののち何かに気づいたように大きく揺れて、でも、だの、けど、だのと火の粉が渦巻いている。
─── 前提を間違えるなよ、ロジャーの息子
─── 自分の生まれに目をくもらせるな。お前がロジャーをどう思おうが構わないが、絶対の事実とそこにある真実だけは見誤るな
─── 鬼の子が何だというんだ。お前ほど両親に愛されたこどももいないだろうに
何でそんな単純なことも分からない、バカだからか、なのに難しいことをぐちゃぐちゃ考えて分からなくなったんだな。
辛辣にそう言い放った年下の海兵は、心から、当然のように、疑えないほどの声音でお前は生まれる前から愛されていたこどもなのだと断言した。
炎は暫く呆然としていたが、やがてじわじわと炎の面積を広げていく。鮮やかな輝きが増した。どうやら生まれてくることを、そして生きていくことを望まれた愛し子なのだと言外に告げたことは伝わったらしい。
そこまで言わなくてはならなかったら一度海に叩き落とすつもりだった海兵はきらきらと輝く炎を眺め、口悪く励まし散々に持ち上げた手をぱっと離すことにした。
─── まあ、わたしには負けるがな
は???と炎が訝しげに揺れる。ややドスが利いた声は明らかに異を唱えている。この炎、手の平返すのが早いなと思わないでもない海兵はやはり無表情に続ける。
─── なぜならわたしは両親と■■■と■■■と■■■■■と■■と■■■■■■に大変に愛されている。単純な数ではどう考えてもわたしの方が上だろう。
指折り数え滔々と語った海兵に、炎はボボボボッと対抗心で大きく燃え上がった。ばちばちと火の粉が舞い、悔しげにおれにはきょうだいがいる!と弾ける。海兵はその数は?とすかさず訊いて、炎は悔しそうに2と答えた。多くの者に愛されてきた、今もまた多くの者に愛されている自覚がある海兵がお前の負けと淡々と言う。
ゆらゆらと悔しそうに揺れて海兵を睨んでいた炎は、ふいにボッと勢いよく膨れるといっそう強く輝いた。太陽にも似たあまりに強く美しい光が放たれる。そばかすが散った、幼さの残る端整な顔立ちがこちらを向いて不敵な笑みを浮かべた口が大きく開く。
『今から船のみんなに訊いてきてやる!おれが勝つ!!!』
言うが早いか、負けず嫌いの炎は弾丸のように駆け出して火の粉の軌跡を描きながら船内へと消えていった。
子供か、と炎よりも年下の海兵は少し呆れた。そこに、グラララララと地震が届く。心底楽しげな響きだった。
クルーを息子と呼ぶ地震のもとに腰を上げて近づく。慣れたように太い丸太に座ればまだ地震が続いているせいか小刻みに揺れていた。
─── 訊きたいことがある、■■■
地震の足に腰掛けて真っ直ぐに見上げてくる海兵を見下ろし、上機嫌に笑った息子達のオヤジは問いを促す。年若い少女海兵は緊張の色を見せ、ゆっくりと口を開いた。
「わたしは────」
その問いに音が乗る寸前、過去の記憶はシャボン玉のようにパチンと弾けた。
† † †
深く沈んでいた意識が浮上し、ぼうと瞼を押し上げた
クオンは耳朶を叩く低い駆動音と細かい震動に目を瞬いた。ゆっくりと五感が精彩さを取り戻していく。同時に痛覚も思い出して、無意識に身じろいだ体は内側から全身に走った衝撃に小さく跳ねて軋んだ。それにもまた痛みを感じて食いしばった歯の隙間から呻きがもれる。
(ここ……は…)
最後の記憶は忌々しいエネルの顔。どうやら電撃を浴びて気を失ったようだ。頬に感じる冷たい板の感触と明瞭な視界に、自分が床の上に横たわり被り物が外され素顔を見られたことも知る。無意識に視線を巡らせても常に傍にいる相棒の姿はなく、内心で舌を打った。
バリバリバリ…!!!
「わっ!!」
ふいに雷が弾けるけたたましい音と女の短い悲鳴が聞こえ、
クオンは首を動かしてナミの姿を捜した。それだけの動作で全身を貫くような痛みが走って息を詰める。
四肢の骨が折れて一部が砕けている。折れた肋骨が肺に刺さって息苦しい。右脚の感覚が薄いのは神経が焼けたせいだろう。特にひどいのは左腕だ。指先には力が入らず、吐き気を催す痛みが脳髄を殴りつけていた。
しかし、痛みを感じられるということはまだ左腕は生きている。薄れそうになる意識を痛みに集中することで繋ぎとめ、
クオンは傍らの物体を支えに何とか上体を起こし、それがまるで玉座のように据え付けられた椅子だと気づいた。何やら妙な管のようなものと繋がったそれは何かの装置のようにも見える。
クオンの視界に、悠々と佇むエネルの背中と、それと対峙するナミの姿が入った。ざっと周囲を見回せば目に入る悪趣味な顔のような形をした黄金の壁、甲板に顔を出している大きな歯車、回転する巨大なプロペラ。黒い雲が上空を覆い、柵の向こうは一面の白い空。飛んでいるのかと気づきはしたが、驚くよりもナミの身を優先して顔を戻した。
ナミが
天候棒を構える。その腕には見慣れた麦わら帽子───
クオンの目が見開かれた。
それをナミが持っているということは、もしかしてルフィがここに来たのか。思わず身を乗り出しかけた
クオンはしかし、ごふっと喉をせり上がってきた血を吐いて再びくずおれた。
クオンが一度身を起こしたことに、2人は気づかなかった。エネルはこちらに背を向けており、ナミはエネルと相対するのに必死でそれどころではない。何とかエネルが戯れに放った弱い雷は
電気泡で雷の通り路を作り軌道をずらしたが、それは規模を変えられてしまえば意味がない。
クオンは爆発する針を指に挟もうとして、左手に力が入らずそれを取り落とした。反動に苛まれ言うことを聞かない体に苛立ちが募る。
何とか取り出した麻酔の針を数本まとめて自分に打ち、用量を越えたため瞬時に意識を溶かそうとする麻酔に抗うために左腕を床に叩きつける。神経を直接刺すような痛みが駆け抜けて自我を取り戻した。
眼前でエネルが大きく爆ぜる雷を生み出す。それを「私は忙しいんだ、消え去れ!」とせせら笑いながらナミに放とうとして、なすすべなく呆然とするしかないナミの目の前に
クオンが滑り込んだそのとき、聞き慣れた男の怒号が轟いた。
「てめぇが消えろ!!必殺!!!火薬星!!!!」
ボゥン!!!とエネルの体が爆発する─── が、
自然系悪魔の実の能力者である男には効かず、エネルは雷こそ消えたものの酷薄とした視線を闖入者へと据えた。
クオンもまた、ナミを背に庇い悪趣味な黄金の壁に取りつけられた扉から現れた男に目を瞠る。ここにいるはずのない彼が、いったいなぜ。
疑問に思う
クオンには気づかず、威勢よく啖呵を切ったくせに己の攻撃がまったく効いていないと知ったウソップは、冷たい視線から逃れるように両手で顔を隠して「ご、ごめんなさい」と情けない謝罪を落とした。
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