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「─── 少し、眠ったふりをします」


 シャンドラに降り注ぐものすべてを止めたクオンは、反動によって全身が引きちぎられるような痛みに苛まれながら、体勢を崩したところを受けとめたゾロと肩に乗った相棒だけに聞こえる声量で囁いた。
 ゾロの返事はなかった。しかし片腕に抱えられたことが返答だと疑わない。何やら考えがあるらしいクオンに内心はきっと穏やかではなかっただろうに、ゾロはクオンの意を汲んでくれた。

 神兵長ヤマとの逃走劇とシャンドラを護るために能力を使ったクオンは、その白い体に赤をにじませてはいないものの内部はひどいありさまだった。
 左脚と左腕の骨は折れ、右腕も無数のひびが入っている。肋骨も数本が折れて肺に刺さり被り物の内側に赤が散っていた。内臓は軋み引き絞られて裂けている。心臓だけは今のところ無事だが鼓動を打つだけで全身が痛み、正直言葉を発するだけでもかなりの気力を要した。全霊をもってこぼれる喘鳴を隠して取り繕い、歯を食いしばる。

 エネルはクオンの“声”が聞こえないといった。ならば、こうして意識を保っていることは判らないはず。瞼を開いて鈍色を剣呑に煌めかせる秀麗な面差しは被り物に隠されているから、動きさえしなければ気絶しているものとみなすだろう。

 ゾロ達が、あるいはシャンディアの戦士がエネルを倒せたならばそれでいい。しかし相手は自然ロギア系悪魔の実の能力者。念には念を入れるべきだ。
 麦わらの一味の殿を務める戦闘員として、クオンはナミに庇われながら敵の一挙手一投足を観察し、たとえ誰が倒れたのだとしてもその場から動かず、ひたすらに機を待った。






† 黄金の鐘 5 †






 そうして今、クオンは己の相棒が作り出した海楼石の針をエネルへと奔らせた。顔色を変えたエネルが躱した先へまた一射。たとえ弾かれたとしても砕けてはいないそれは再び宙を滑って獲物へと何度でも襲いかかる。苛立たしげに雷で針を撃ち落としたエネルに間一髪逃れたもの達が四方から肉薄した。
 針の一本一本を細かく操るクオンは、その間もぱきぱきごきばきぼきんと折れ砕けていく骨と潰れていく内臓の悲鳴を聞いていた。それでも能力の使用はやめない。

 ─── エネルが海楼石の針に貫かれてもなお動けているのは、その純度が低いからだ。
 元々海楼石の針はアラバスタにおいてクロコダイル対策に急遽用意したもので、しかし初めて海楼石を取り扱うハリーは精製がうまくできずにどうしても高純度の針は作り出せなかった。結局ルフィがクロコダイルを倒したため質の悪い海楼石の針は不要になり、以降何度か取り込み直しては作ったが納得のいくものはできなかった。
 特にハリーは相棒に失敗作を渡すことを許せず、クオンが嫌がるハリーを何とか説得して大変に渋々ながら渡してもらい、今ここに至る。


「……ッ、ぐ、ぅ」


 クオンは喉元まで上がってきた血を呑み下す。
 純度が低いといえど、海楼石の針は本来ならばクオンの悪魔の実の能力に影響されない。しかし針の先に海楼石の成分を固めているため、中心部より後方に能力をかければ操ることはできた。
 だがその負荷は通常の針を操るよりも凄まじい。僅かでも己の能力が海楼石に触れれば無効化され、バランスを崩して地に落ちる。さらに速度もそこまで出ない。細かな軌道の操作も容易にはいかず、既に能力の反動で内部がぼろぼろのクオンの体はおさまらない怒りが支えていた。

 何が“”か。何が恐怖か。ふざけている。まったくもって度し難い。いっときは自分が治めた国を、部下を、民を、そこに住まうすべてのものを何だと思っている。
 砂の賢王を知っているからこそクオンの怒りはより大きく荒れ狂う。


「チッ…!さすがに鬱陶しいな」


 次々と襲いかかる針を捌いてエネルが舌打ちする。その背中と腕には海楼石の針が数本刺さり、雷の体となって逃げることはできない。抜く暇も与えないほどの針の雨をひたすらに浴びせかけた。
 確実に討ち取るためにはエネルの心臓を貫く必要がある。海楼石の針を叩き込めば己の能力で心臓マッサージなどというふざけたことはできまい。
 ワイパーが吼えたように、シャンドラの灯を再びともすためには─── こいつが、邪魔だ。


「抜槍」


 クオンは左手を掲げた。空中に浮かぶ針が重なって線を描き、重なった線が立体を得て、細く長い槍を形成した。
 穂─── 刀身の部分が長い、身の丈以上の大きな槍の先がエネルに据えられると同時、クオンの手が振り抜かれる。海楼石の針でできた槍は弾丸のごとく宙を奔った。


断罪の槍ロンギヌス───!!」


 峻烈を極めた咆哮が轟く。針の槍はあやまたず神を名乗る男の心臓へと駆け抜けた。
 ただびとの目には残像も残さず迫る槍はしかし、槍と心臓の間に割って入った黄金の棍によってその穂先を止められた。ギィイイン!!と耳障りな金属音が響き渡る。行き場のなくなった衝撃が槍と棍を境に弾け、爆風が渦巻いて肌を叩き、白いツバメの尾が翻る。


「……!!」


 渾身の槍を止められたクオンが目を見開く。止められてなお敵の心臓を諦めない針の槍と黄金の棍が拮抗してバヂヂと激しい火花を散らす。
 ここで仕留めなければまずい。クオンは槍が弾き飛ばされないよう全霊を注ぎ、エネルもまた、これに貫かれれば立ち上がれなくなると本能で分かっていたため抵抗をゆるめなかった。

 しかし、拮抗は長くは続かなかった。
 元よりクオンは一見して判らないがワイパーに劣らず満身創痍だ。時間をかけるほど加速度的に体内は傷つき、対してエネルは肉体損傷を然程負っていない。針の槍は容易に弾くことはできないが基本的にすべての攻撃の威力が能力者の身体能力に依存するため、悪魔の実の能力に慢心せず肉体を鍛え上げた男の膂力ならば気を抜きさえしなければ防ぐことができる。
 だからこそクオンは速度をより重要視していて、しかし必殺の槍は心臓に届かず止められた。その時点で結果は見えていたが、決して認めるわけにはいかなかった。せめて、せめて、ルフィがあの大蛇の中から出てくるまでは。
 だが─── 現実はとても残酷で、無情である。

 ごしゃり、鈍い音を上げて左腕の骨が砕ける。右脚の神経が焼ける。肺に刺さった骨が傷口を広げた。脳髄を駆け抜けた痛みを知覚できずに視界が真っ白に染まって一瞬意識が飛ぶ。


「────ぁ」


 小さな音と共に痛む肺から空気がこぼれ、針の槍が勢いを欠いた。その隙を見逃さずエネルは棍で穂先を流そうとして、我に返ったクオンが再び力を注いだときにはもう遅い。
 エネルの脇腹へと流れた穂先はそこを貫かんと勢いを取り戻し、しかし腕に血管を浮かせた男の重い一撃に薙ぎ払われた。


 ギャキィン!!!


 耳障りな悲鳴を上げた槍がその形を保ちきれずばらばらに砕け、無惨に欠けた針が宙を舞う。再び針に能力をかけるよりもエネルが自身に刺さった海楼石の針を引き抜く方が早かった。


「さすがにおいたが過ぎたな。仕置きの時間だ」


 男の低く冷たい声音が耳朶を叩く。はっとしたクオンの眼前に、男が立っていた。
 反射的に両手の指に針を構えて間合いを取ろうとするが既に遅く、勢いよく伸びてきた腕に首を掴まれて持ち上げられ、地面から足が離れたクオンは宙吊りとなって被り物の下で苦しげに顔を歪めた。細首を掴んで離さない男の手に爪を立てるが、白手袋越しでは僅かな圧迫感を与えるのが精々だ。


「覚えろ、お前の持ち主が誰であるのかを」

「────!」


 カッと瞳を怒りに燃やしたクオンに構わず、エネルは自身の腕を放電させて容赦なく生き人形に電撃を浴びせかけた。青白い閃光が弾けてバリリと脳を引っ掻くような音が鳴る。首を掴まれて動けない痩躯がのけぞり、がくんと大きく跳ねた。


「きゅぁ───!!!」


 そこに、今まで相棒に制されて物陰に隠れていたハリネズミが我慢ならず飛び出した。くわりと牙を剥いて襲いかかってくる小動物を冷ややかに見たエネルが指先を向ける。


「生き人形のペットだから残してやろうと思っていたが。序列もわきまえず刃向かうのであればいらん」

「ギュッ」

「ハリー!!!」


 向けられた指先から迸った電撃に貫かれたハリーが短く鳴いて地に落ちる。ナミの悲鳴に似た声が呼んだハリーが焦げた体を震わせて再び短い両手足に力をこめるさまを一瞥し、エネルは何の感慨もなく二撃、三撃と続けて放った。マグマ程度ならば平気であるはずの頑丈な“偉大なる航路グランドライン”産ハリネズミでも威力を高められた能力者の雷撃には敵わず、呻きひとつ上げられずにとさりと薄い砂埃を舞わせてその場に倒れた。


「……クオン…ハリー……」


 熾烈な戦いを見ていることしかできなかったナミが呆然と名をこぼす。
 エネルはクオンの首から手を離した。白い痩躯は力なく無造作に地に落ちて転がる。その顔を覆い隠す愛嬌があるようで間の抜けた被り物を見て、男は目を瞬かせた。唇の端が笑みに歪む。


「そうだ、その顔を見てやらねばな」


 エネルが腰を屈めて横たわるクオンの胸倉を掴み上げる。完全に気絶して弛緩しきった肉体は抵抗もなく上体を起こされ、重力に従って両腕がぶらりと垂れた。

 ナミは息を呑んだ。クオンの素顔が暴かれる─── ダメ、絶対にダメ!!!そう叫んだつもりだったが、開いた唇は震える吐息を吐き出しただけで。恐怖に強張った体では、止めるどころか身じろぎすら難しい。

 あの人外じみた秀麗な顔はひとの目に晒してはならない。あれは簡単にひとを狂わせる。夜空で瞬く美しい星に手が届くのなら、どんな手段を用いてでも己のものにしようとするだろう。たとえ誰かから奪い取ってでも。
 今でさえあれほどの執着を向けているのだ、素顔を見てしまったらどうなるか。分かっているのに、止めなければと思っているのに、震えるばかりで役立たずな体は立ち上がることさえできない。やめて、ダメよ、そう言いたいのに、見開いた目に涙の膜を張って軋む首を小さく振ることしかできなかった。


「見られるものであればいいが───」


 愛嬌があるようで間の抜けた被り物にエネルの手がかかる。ナミの必死な願い虚しくクオンの大切なものであるはずのそれは雑に放られ、誰に邪魔されることもなくその下にある素顔を晒した。


「─────」


 エネルが息を呑む。ナミは絶望した。
 あらわになった白い人間の素顔を凝視する男の目が、粘着質な情欲を燃やして冥く輝いた。







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