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誰もがその
異常に驚愕した。
唐突に足下が眩い光を放ったかと思いきや地盤が崩れて足場が落下し、さらに巨大な蔓の根元を過ぎてもなお落ちていく。
なすすべなく落下するしかない彼らは、せめて着地だけはどうにかしようと身をひねり─── 何の前触れもなく、空中で動きを止めた。
時が止まったのかと錯覚したが、一拍遅れて細かい土や雲が再び落ちていく。次いでどさどさと落ちていくのは神官や神兵達。まるで不必要なものから順に落としているように思えるほど、明らかに作為的なものだった。
「これ、は……!」
宙に浮いたまま左腕に気を失っているチョッパーを抱えたゾロが顔を歪めて唸る。
ゾロはこの能力を知っていた。こんなことができる人間はただのひとりしかいない。
あの荊のドームにあれはいなかった。だから眼下を捜す。あるはずの白い姿を。
そして─── すぐに、その姿を視界におさめた。
† 黄金の鐘 3 †
クオンの意思によって空中に残され動きを止めていたもの達が、ゆっくりと地面に下りていく。
途中で人間達や大蛇が遺跡の残骸よりも落下速度を上げたが、それでも重力に任せて落ちるよりは遥かに遅く、誰もが危なげなく地面に足をつけた。
シャンディアの戦士は驚愕から抜け出せないまま呆然としていた。─── 何だ、今のは。
空を仰ぐ。ゆっくり、ゆっくり、遺跡の残骸が降り注ごうとしている。まるでこの場所を傷つけまいとするその光景に、そして自分達を護ろうとでもしたかのような先程の出来事に、なぜ、という疑問だけが頭の中を渦巻いていた。
誰かが自分達を助けた。それだけは理解できて、ではそれはいったい誰だ。何のために、誰が、なぜ自分を。
戦うことだけを己に課してきた戦士はそのときばかりは“神”の討伐と故郷奪還の目的を忘れて辺りを見回し─── 青海の剣士が誰かの名を紡ぐ声を、確かに聞いて振り返った。
空の騎士ことガン・フォールと共に大蛇の腹の中から脱出したナミは、不可視の能力で自分達を助けた人物を脳裏に描き空中でざっと顔を青褪めさせ、老騎士と共に島雲に足をつけるや否や素早く辺りに顔をめぐらせた。
隣で「今のは、いったい……」とガン・フォールが呆然と呟いて今もなおゆっくりと落下してくる遺跡の残骸を見上げる。大きいもの、小さいもの、石の欠片。それらすべてがスローモーションで落ちてきている。こんな、まさしく神の御業と見紛う所業を、いったいどこの誰が。
遺跡が宙に浮いているということは、まだ能力を発動し続けているということに他ならない。ナミは必死に白い姿を捜して近くに見当たらず、ここが敵地ど真ん中であることも忘れてその場から動こうとして、「待て!無闇に動くでない!」と慌てたガン・フォールに止められた。
地面に降り立ったゾロは、そのまま脇目も振らずに真っ直ぐ目的の人物のもとへと駆け出した。幸いか降り立った場所はすぐ傍で最初から視界に入っている。
黒髪の背の高い女が「執事さん、もういいわ、いいから、やめて!」と焦燥を隠さず白い人間の腕を掴み下ろそうとしていて、しかしそれに相手は応えない。
「
クオン!!─── やめろ、能力を解け!!!」
平然と佇んでいるように見えるが、
クオンの肉体は内側から損傷しているはずだった。これほどの広範囲、これほどの重量、そして今もなお展開し続けている能力の反動はいかほどか、想像もつかない。厚手の燕尾服に覆われた肉体は損傷箇所をあらわにせず、一見して判らない摩耗具合に奥歯を軋ませた。
ゾロの制止に、やはり
クオンは手を下ろさず能力を使い続ける。しかしロビンの呼びかけには一切反応を見せなかった
クオンは僅かに被り物の顔をゾロに向けて口を開いた。
「いいえ。いいえ、ゾロ。ここは、この遺跡だけは─── 決して、傷つけさせや、しません」
被り物越しに訥々とゾロの耳朶を打つ声は低くくぐもり抑揚を欠いて淡々としている。けれどその素の声を既に知っているゾロには、確固たる意志に満ちた、男にしては少し高い声が容易に想像できた。
ごひゅ、と微かに呻く音がした。血を吐いたのか。それでも
クオンは左腕を下ろさない。
「シャンドラの灯をともせと、戦士が希い、私はそれを叶えると約束しました。ここはシャンディアの魂が還るべき場所、在るべき故郷、大鐘楼の響きを、再びここに……」
クオンが語る間にもゆっくりと落ちていた遺跡の残骸が音もなくシャンドラの都市を形成する建物へと触れ、輪郭を辿ってやはりゆるやかに滑り落ち─── やがて降り注ぐものすべてが、古代都市に傷ひとつつけずにその体を沈めた。
同時にかくりとくずおれた白い痩躯を、ゾロは慌てることなく受けとめる。
クオンの呼吸は被り物のせいで判然としないが、微かな心臓の鼓動は確かに感じ取れた。
横から伸びてきた手がゾロが抱えていたチョッパーをすくい上げる。ちらと視線を向ければロビンがどこか憂うような眼差しで
クオンを見つめていた。
「この子は、とても危ういのね」
「…………、……それより、ここはどこだ」
チョッパーを預け、壊れものを扱うように丁寧に
クオンを片腕に抱え上げたゾロが辺りを見渡す。それにロビンは「お探しの黄金都市」と答えて、でも黄金はないわと静かに紡ぐ彼女に「あ?」と訝しげにゾロが眉根を寄せた。
スカイピアの“神”を名乗る男は、たった今目の当たりにした光景に他者と同じように驚愕した。
どんな能力を使ったのか。おそらくは悪魔の実の能力だろう。しかし己が認識できないほど“声”が小さな生き人形にあれだけの能力がそなわっていたとは想像だにしていなかった。
あの能力は決して強大でも脅威でもないが、油断はできない。敵とするには厄介で、味方にあればさぞ頼もしかろう。
正直自分に必要なものではない。しかし神の持ち物としては不足がない。
最初は“声”が聞こえない人間という異質さに興味を引かれて気まぐれに飽きるまでは所有してやろうと思ったのだが、これはもしかしたら良い拾いものになるのかもしれない。まだまだ反抗的な部分はあるものの、脆弱な生き人形が神に敵うわけもなく、ゆっくり時間をかけて徹底的に心を折り従順になるまで躾けるのも一興だろう。あとはその間抜けた被り物の下にある顔が見られるものであれば十分だ。
(神の持ち物に許可なく触れるのは不敬ではあるが……まあ、今はいい)
いずれあれは私のものになる、ならば仲間との別れの時間くらいは取らせてやってもいいと、エネルは寛大な心で
クオンという名の生き人形を許した。
だが、まるで自分のものだと言わんばかりに白い痩躯を抱える緑髪の男は気に入らない。端的に言って不愉快だ。いくら生き人形の仲間であろうとも、いずれ神に献上されるべきものに気安く触れられてはその価値が貶められてしまう。
神の予言では生き残るのは5人。生き人形はカウントしないためその5人の枠にあの男がおさまる可能性は十分にあり、それはどうにも面白くない。
眉を寄せたエネルだったが、いや待て、と思い直す。そうだ、生き人形を躾け直している間は隔離してあの男に神の持ち物との距離感を叩き込み、従順になった生き人形の口からあの男に自分は“
神”・エネルのものであると言わせるのはどうだろう。きっと途轍もなく愉快なことこの上ない。
(ああ、早くその顔が見たいものだ)
生き人形の素顔を隠す被り物を見据え、エネルは恍惚に唇の端を歪めた。
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