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 腰を据えて暫く眼下に広がる都市を見つめ感慨にひたっていたロビンは、おもむろに立ち上がると街並みに下りた。クオンもそれに続き、整備された道をゆっくりと歩く。
 すると、ふいに耳朶を打つものがあった。


 ────、───……

「ん?」


 耳を掠めた“声”に思わず足を止める。数歩先で立ち止まったクオンに気づいたロビンが「どうしたの?」と声をかけてきて、クオンはそれに応えず辺りをきょろきょろと見回した。
 何だろう、今まで耳にしたもののどれとも違う“声”が聞こえた気がする。決して強くも大きくもない“声”だったが、無視はできないそれ。
 導かれるようにふらりと歩き出したクオンの肩の上で、ハリネズミがちょいちょいと短い前足を振ってロビンを手招く。ハリーには何も聞こえないが、相棒が自分から動いたのなら意味がある。そんな意図を正確に読み取ったわけではないが、何の前触れもなく道の脇にある建物へと入っていったクオンのあとをロビンは素直に追っていった。






† 黄金の鐘 1 †






 果たして、クオンが辿り着いたそこには、壁に刻まれた文字があった。
 クオンは目を瞬く。耳朶を打ちつける“声”の元がこれなのは間違いないが、いったい何と書いてあるのだろう。
 首を傾げて矯めつ眇めつするが分かるはずもないクオンが大きく首を傾げる。そのとき、「……まさか」と後ろから驚きがにじむ女の声がした。
 振り返れば目を瞠り文字を凝視するロビンの姿。クオンは文字を一瞥してそっと横にずれた。同時にロビンが前に出て文字に手を伸ばし呆然と呟く。


「こんなに無造作に…………歴史の本文ポーネグリフの古代文字が」


 歴史の本文ポーネグリフは世界中に散った、いわば世界の禁忌だ。正確に言えば石そのものではなく石に刻まれた文字を読むことも石に刻むことも許されていない。政府に古代文字が読めるとバレれば間違いなく消されるだろう。
 少なくとも、いくら滅びた古代都市といえど誰の目に触れるかも分からない場所にあっていいものではないのだ。否、この都市が生きていた頃からここにあったのだろうと思えば、それだけでシャンドラが世界的に見て異端であることが窺える。

 少なくともクオンでもそれが分かり、クオン以上に造詣の深いロビンはより信じられない思いで文字を見つめ、「この文字を扱えるのは歴史の本文を作った人々の他にいないはず…」と言葉をもらした。そして、刻まれた文字を読み進めて息を呑む。


「『真意を心に口を閉ざせ。我らは歴史を紡ぐ者』……『大鐘楼の響きと共に』」

「大鐘楼─── 黄金の鐘のことでしょうか」

「─── そうだわ。確かここにはそれがあると、ノーランドの日誌にあった」


 クオンが思わず口を挟めばロビンが硬く頷く。
 ロビンと共に道に戻り改めて都市を見渡すが、それらしきものはどこにもない。大鐘楼ともなれば必ず目につくはずだというのに見当たらないのは、持ち出されたのか、それとも空に来た際にどこかへ飛んでいってしまったのか。

 そういえばルフィ達は無事“髑髏の右目”に辿り着いただろうか。ルフィとゾロは期待できないにしても、チョッパーならば着いていてもおかしくはないと思うのだが。
 一度上に戻るべきかと思案したクオンはしかし、遺跡と遺された古代文字に心を奪われているロビンを見て右肩に乗るハリーと顔を見合わせた。
 どう思います。諦めろ。デスヨネー。相棒と無言で心を通わせた1人と1匹は今のロビンを放っておくこともできずに彼女のあとをついていくことを選んだ。

 古代文字で記された文を考えるに、おそらくこの都市は遥か昔、大鐘楼と共に遺された歴史の本文ポーネグリフを護るために歴史の本文及び古代文字を禁忌とする現政府に抗い、戦ったのだろう。そしてその果てに、黄金都市は滅びた。滅ぼされた、と言った方がいいか。


「そういえばロビン、その大鐘楼の場所は判っているのですか?」

「ええ。『4つの祭壇の中心に位置する大鐘楼』と記述があったわ」

「祭壇……」

「あの建物よ」


 背の高い三段造りの建物をロビンが指差して教えてくれたが、成程と頷きつつもさっぱり分からん、とクオンは内心で首を傾げた。確かによくよく見れば人が住む構造にはなっていないが、街の中にぽんとあってもあれが祭壇だとは分からないだろう。
 ロビンの言う4つの祭壇に囲われたそこは、島雲に覆われて何もないひらけた場所だった。否、あるにはあるが、それは遺跡の遥か上まで至る巨大な蔓だけだ。大鐘楼どころかノーランドが見た黄金すら影も形もない。ロビンが落胆のため息をついてメモ帳を閉じた。
 大鐘楼がなければロビンが探していた歴史の本文ポーネグリフも望めない。ここまで来て道が途絶えて肩を落とすロビンが少しでも興味を引かれるものはないかと辺りを見回したクオンは、ふと地面の上に残されたものを認めた。


「ロビン、あれを見てください」

「……?」

「これはトロッコの軌条ではありませんか」


 クオンが言う通り、摩耗し多少錆つきはしているが、それはまさしくトロッコで物を運び出すために用いられる軌条だ。古代都市に比べてまだ新しく、つまりは最近まで使われていたことを示している。
 軌条に気を取られ、消えた大鐘楼から意識が逸れたロビンにそっと息をついた、そのときだ。


「ヤハハハ」

「!」


 ふいに耳朶を打った男の小さな笑声に、クオンは反射で身構えようとした体を無理やりに制止した。ゆっくりと愛嬌があるようで間の抜けた被り物を背後に向ける。
 クオンとロビンの背後、崩れた遺跡の壁に─── 悠然と腰を下ろす、男の姿があった。


(私としたことが、警戒を怠るとは)


 否、警戒はしていた。ここは敵地、いつ誰に襲われても不思議はない。だから常に注意を張り巡らせていた。しかし僅かに警戒がゆるんだその瞬間、この男はどこからともなく姿を現していたのだ。
 忍び寄る気配があればさすがに気づく。だがそれはなかった。それほどの手練れ。あるいは、それほどの能力。犯罪者である青海人を前にしているというのに臆した様子はなく、向けられる敵意もないが、間違いなく味方ではないだろう。クオンの秀麗な顔に冷や汗がにじむ。

 男は長い耳たぶを垂らし、頭には布を被っている。覗く金髪は短い。実用的に引き締まった上半身を晒したその背には円を描くように太鼓が4つ連なり、笑みを浮かべる顔には傲慢じみた余裕が満ち満ちている。左手におさまるのは瑞々しい、真っ赤なリンゴだ。

 この男は誰か。それはまだ判らない。けれどはっきりと判ることは─── この男は、違う。戦士ではない。シャンディアではない。この地へ不躾に踏み入った、侵略者だ。

 相手の挙動を窺いゆっくりと体の向きを変えて正面から向き合うクオンとその傍らに佇むロビンに、男はこちらの警戒など気にしたふうもなく「見事なものだろう」と声をかける。


「空へ打ち上がろうとも、かくも雄大に存在する都市…シャンドラ」


 自分のものでもないだろうに、自慢げに男は語る。
 伝説の都も雲に覆われてはその姿の誇示すらままならぬ、私が見つけてやったのだと。先代のバカ共は気づきもしなかったとせせら笑い、そしてクオンの直感が男の正体を悟った。


「─── あなたは?」


 ロビンの静かな問いに、男は即答する。


「神」


 クオンは左手で自分の右の手首を握り締めた。痛みを覚えるほどに力をこめ、能力を使って自身をその場に留める。反動で上がる内臓の悲鳴で理性を繋ぎとめた。そうしなければ、“神”を名乗るこの男─── エネルへ飛びかかっていただろう。
 だがそれが今はまずいことも理性では分かっていて、だから止めた。相手の手の内が分からぬまま無策で飛び込むほど愚かではないつもりだ。クオンが簡単に討ち取れる人物であれば、空島はもっと平和でいられたはずなのだから。

 滲み出そうになる殺気すらも無理やり抑え込むクオンの不穏さには気づいていないようで、エネルはロビンの方へと視線を向けて「大したものだ」と称賛の言葉を吐く。


「青海の考古学者といったところか……?我々ですらこの遺跡の発見には数ヶ月を費やしたというのに、遺跡の文字を読めるとこうもあっさり見つかるのか」


 言葉を返さないロビンに気分を害することもなくエネルは続ける。


「だがもう目当ての黄金はない。あと数年遅かったな」

「……黄金…そういえば見当たらないわね。運び出したのはあなたね」

「よいものだ…あの輝く金属はこの私にこそ相応しい」

「─── じゃあ、ここにあった黄金の鐘もそうかしら?」


 ロビンの問いに、エネルは訝しげに「黄金の鐘…?」と繰り返した。とぼけているのではなくその存在自体を知らなかった様子に、ロビンもまた知らないのかと目を瞠る。
 エネルは無言でリンゴを齧り、興味深いなと先程とは違い明らかな興味をその目に浮かべてロビンを見据えた。
 文字を読み何を知ったと問いただす男にロビンが答える声を聞きながら、クオンは深呼吸を繰り返してざわつく内心を抑える。エネルの興味がロビンに向いているせいか、妙な被り物を被った白い人間のことは視界に入っても気にもとめていない。それが今だけはありがたかった。

 言葉を交わし情報を得ようと滑らかに言葉を紡ぐロビンが黄金の鐘と大鐘楼について口にすれば、リンゴを食べ終えたエネルはふいに何かを思い出したように目を見開いて声を上げた。


「…いや待て、ある!!あるぞ、それ・・は空に来ている!!!」


 曰く、400年前、この“神の島アッパーヤード”誕生と共に─── つまり、この島が空へ吹き飛んできたと同時に、大きな鐘の音が国中に響いたという。
 この国の年寄りはそれを”島の歌声”と呼ぶがな、と顎に手を当てて笑った男が、そうか、その鐘は黄金でできていたのか!!と喜色の声を上げた。それは、その黄金の鐘が自分のものになると一切疑っていない声音であり─── クオンの頭を激情に燃やすには、十分すぎた。


「……ッ」


 それでもクオンは堪えた。浅く短い呼吸を被り物の下で繰り返しながら、滲み出る酷薄な気配をまとわせながら、己の理性が焼かれていく音を聞く。エネルを睨み据える瞳が、爛々と鋼をにじませていく。
 黄金の鐘は、大鐘楼は、ここシャンドラにあるべきものだ。この地を治めたシャンディアのものだ。彼らが護ってきたものの価値も重みも知らない略奪者に渡せるはずもない。
 この地にあった黄金はいい。財を他人が奪うことにとやかく言える立場ではない。けれど鐘だけはダメだ。それだけは許されない。そうでなければ、深く重く切実に訴えかけてくる彼らの“声”に応えると定めた約束を、反故にしてしまう。伝えるべき者へ、伝えなければならないことが叶わなくなる。


(─── ああ)


 ふいに。
 クオンはひとつの解を得た。


(シャンドラの灯とは)


 ともすべきもの。
 伝えるためのもの。
 シャンドラも、シャンディアも、ここに在ると告げるもの。


 ─── 違わぬ約定はここに。絶対の誓いをお前達に。

 シャンドラの灯黄金の鐘を、とも鳴らしましょう───。







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