210





 “髑髏の右目”へ向かって出発して暫く。
 恋とは何か、を無言でひたすらに考え込むクオンをちらと見下ろしたロビンは、遠くから木々を伝って耳朶に届く鈍い音を聞きとめて視線をめぐらせた。


「─── 随分森が…賑やかになってきたわね……」


 音源と気配は遠いが、どうやら既に争いは始まっているようだ。ロビンもクオンが考えた通り、この島には“神”率いる神官に加え、白海にてメリー号を襲ったシャンディアの者達がいると見ている。
 何か事情があるらしいガン・フォールは語らなかったが、おそらくシャンディアがこの島の原住民であることは察せた。過去“神”によって追い払われた彼らは故郷の奪還を悲願としていて、青海人が空を揺らがせているのを好機と見て動き出したのだろう。


(そういえば……)


 空島に着いてから、時折クオンは意識をどこかに飛ばしていた。クオン曰く「お喋りな方の“声”」がよく耳に入っていたようだからそれを聞いていたのだろう。
 しかし、今は。クオンの頭の中は緑髪の剣士でいっぱいだ。耳を通って脳に響かせる“声”も今は聞こえていない。その“声”の主に何やら“浮気”をしていたらしいクオンについに我慢ならなくなったゾロが一瞬悋気を覗かせたことを思い出して、今のクオンを見て、ついでにクオンの肩に乗るハリネズミとも目が合って、ハリーがそっと片前足を口元にやったのを認めたロビンは、美しい微笑みを口元に刷いて視線を前に戻した。





† 探索組 4 †






 真っ直ぐ南へ歩を進めて暫く。
 固い地面と巨大樹が連なるばかりだった森の中に人工物が現れた。元はきれいに敷き詰められていたのだろう石畳は隆起した木の根によって盛り上がり、一方で石でできた建物らしきものは呑み込まれて踏み潰され、その一部が僅かに顔を出している。特に飾り気もない質素な造りの建物の残骸が散らばる周囲をクオンが見回す。


「ここは……」

「都市から離れた民家ね。……やっぱり森に呑み込まれてる…肝心の都市の遺跡は無事なのかしら」


 こうも浸食がひどいとなると、“髑髏の右目”にあるだろう遺跡はどうなっていることか。懸念を瞳に浮かべるロビンをクオンは見上げた。


「既にこうして木々に呑み込まれてしまったものでも、あなたにとっては大事にするべきものですか?」

「ええ、もちろん」


 間髪いれずに返したロビンにクオンはひとつ頷き、すいと左手を上げた。一拍遅れて「メ~~~!」と男の声が轟く。
 ダァン!と樹の上から降ってきて勢いよく遺跡に足をつけたのは、側頭部から生えた長い耳のようなものが特徴的な男だった。目尻は鋭く吊り上がり、頭部には2本の細い角。身にまとうのは白に統一された上下衣。そして白海で遭遇したシャンディアと同じスケート型のウェイバーを履いている。
 遺跡を破壊することを躊躇わない勢いで降り立った男はじろじろとロビンとクオンを眺めて高圧的に言い放った。


「女と、そっちは男か!このルートは“神の社”へ続く道!これ以上踏み入るは無礼なりメ~!」

「……そこから下りなさい。あなたには“遺跡”というものの歴史的価値が分からないようね」


 むっと柳眉を寄せ、不快げに冷たい視線と声音を投げかけるロビンに、まさか言い返されるとは思わなかったのだろう、男は「ぬ!?」と明らかに気分を害した様子で目を眇めた。


「何を生意気な!」

「私達にご用?どうしたいの?」


 腹を立ててロビンを睨みつける男を見上げ、短気は損気ですよとクオンは内心でため息をつく。素人ではなさそうだが、かといって脅威も感じない。ルフィ達が相対した神官は手強かったと聞くから、この男はその下に位置する兵だろう。もしかするとさらにその下なのかもしれないが。
 もはや男の声も聞く気にはならないクオンは他に敵がいないか辺りの気配を探る。何やら口上をつらつらと並べる男があっさりとロビンの能力によって関節技を決められ一発KOを食らい、泡を吹いて建物から転がり落ちるさまを無感動に眺めた。と、ぱちりと被り物の下で瞬きひとつ。鈍色の瞳が改めて地面に倒れ伏す男に向けられる。


「ひどいことをするわ……あら?」


 あれだけ男が勢いよく降り立ったというのに、改めて見やった建物にはひびどころか足跡ひとつついていないのを認めたロビンが思わず声を上げる。そうして気づいた。確かクオンは、男が降り立つ寸前に左手を掲げていなかったか。確か左手を掲げるのは引き離すための能力を発動するための動作だ。
 はっとしてロビンがクオンを振り返る。するとそこには、


「起きなさい、少し訊きたいことがあるのです起きなさい」

「ぶべべべべべぶばべぶぶぶぶば!!」



 気絶していた男の胸倉を掴み高速ビンタでしばき上げるクオンの姿があった。
 強制的に意識を引き上げられた男が虚ろにクオンを見上げる。ずいと顔面に迫る猫を模した被り物にぎょっと男が顔を引き攣らせ、しかしクオンはそれに構わず短く問うた。


「あなた、恋とは何か知っていますか?」

「……は?」

「恋ですよ。恋愛、あるいは恋慕。知っていますか?」


 被り物越しに男に浴びせられる声は低くくぐもり抑揚を削がれて感情を窺えさせない。ロビンには被り物の下にある秀麗な顔がしかつめらしくどこまでも真面目なものであると判ったが、初対面の男が判るはずもなく、無理やり起こされた途端言葉にし難い謎の圧力と共に投げられた浮ついた話題に反応しきれず不気味なものを見る目でクオンを凝視して恐怖に喉を鳴らした。


「知っているのなら答えなさい。恋とは何です?」

「し…知るか!恋とか愛とかそんなものどうでもいいだろうメ~!!」


 胸倉を掴んで離さない白手袋に覆われた手を引き剥がそうと暴れる男を見下ろし、淡々とした声音で「そうですか」と短く返したクオンは、すぅと被り物の下で目を細めると男から完全に興味を失った。


「ではあなたに用はありません。おやすみなさい」

「メ゛ッ!!!」


 容赦なく木の根に男の後頭部を叩きつけ、ドゴォッ!と大変に痛い音が響いたが意に介さず、クオンは用無しとなった男の手から“斬撃貝アックスダイアル”を剥ぎ取ると素早く樹のツルで簀巻きにして木々の向こうへ投げ捨てた。強奪した“貝”を懐に仕舞って両手のついた土を払うとロビンに顔を向ける。


「あなたの話は参考になりましたが、やはり実際のサンプルが得られるのであれば越したことはないかと」

「……ここの人達にはあまり期待できないと思うけれど」

「ええ。なのでとりあえずは手当たり次第に。どうせあちらから寄ってきてくれますし」


 今回はハズレでしたと肩をすくめるクオンは真面目だった。大変に、大真面目に自分が悩む恋について話を聞こうとしている。やはり女性の方が詳しい話を聞けるのでしょうかと被り物の顎に指を置いて呟いたあたり本気の度合いが窺えた。


「執事さん、あのひとが遺跡を壊さないように能力を使ってくれたの?」

「ん?ええ、そうですよ」


 足跡ひとつない遺跡を一瞥して思考に耽るクオンにそう問えば、クオンは即座に頷いた。あまりに当然のように肯定するから、思わずまじまじと愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物を凝視してしまう。なぜ?と無意識にこぼれた疑問に、クオンは不思議そうに首を傾けた。


「あなたが大事だと言ったのでしょう?」


 たとえ木々に深く呑まれてしまったとしても、これらはロビンにとって大事にするべきものだと言ったからクオンはそれに応えたにすぎない。たとえ反動がこの身を苛んだとして、それが何だというのか。仲間が大事なものは自分も大事にする、ただそれだけのこと。
 短い航海でロビンが歴史あるものに真摯であると既に知っている。だからあの無礼且つ無粋な男に建物が足蹴にされず、ロビンの顔が憂いに彩られなくてよかったとしか思わなかった。
 そんなクオンの思いが容易に読み取れて、どこまでも真摯な心が向けられていることを思い知ってしまって、ぐぅと湧き上がるものを呑み下したロビンは細く長い息を吐くとクオンの白い痩躯を眺めた。


「能力を使えば反動があるのよね。どこか痛む?」

「大丈夫ですよ、何の問題もありません」


 ひらひらと軽く手を振り五体無事を示すように両腕を広げるクオンの損傷箇所はロビンには見抜けない。傷ついた箇所がさらに傷みやすいと聞いているから、痛むとしたら左腕なのだろうが。
 たぶん剣士さんなら判るのでしょうねと思いながらも口にはせず、「そう、ならよかった」と笑みを浮かべて引き下がる。


「ありがとう、執事さん」

「どういたしまして、ロビン」


 軽やかに、自然に、けれど心から礼を紡ぐロビンに返る声は被り物を通り抑揚を削がれ淡々として感情が窺えない。けれどもう、ロビンはクオンの素の声を知ってしまっていた。被り物の下にある秀麗な素顔を知ってしまっているのだ。クオンは本当に当然のような顔をしていることを疑えなかった。


「……行きましょう」


 ひと声かけて歩みを再開するロビンに、クオンは無言でついていく。







  top