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 大蛇が森の奥へと姿を消して暫く。
 元のルートに戻ってきたロビンは、「困ったわ……」とこぼして右手を頬に添えた。


「コースへ戻っても誰も来ない……私がはぐれちゃったのかしら」

「いいえ、あなたは間違っていませんよ。他のみんながはぐれてしまったのです。先に行って待った方がいいでしょう」


 ひとりごちるロビンの傍らに、言葉と共に白い痩躯が降り立つ。気配は感じていたのだろう、ロビンは特に驚く様子もなく「あら、執事さん」と静かな視線を向けた。


「行きましょう、ロビン。彼らは大丈夫です」


 被り物越しに確かな信頼がにじむ声音でそう促され、クオンの肩に乗ったハリーも同意するように短い前足を上げて鳴く。そうねとひとつ頷きを返したロビンは、真っ直ぐ伸ばして歩き出した白い背中を、じっと思慮深い目で見つめた。





† 探索組 3 †






「ねぇ、執事さん」


 辺りを警戒しながら無言で先を進んでいた2人だったが、その沈黙はふいにロビンによって破られた。数歩下がって後ろを警戒していたクオンが顔を上げる。ロビンが微かに振り返って薄い笑みを浮かべていた。


「剣士さんと何かあったの?」

「………」


 疑問を口にしていながら、その声音と目は確信に満ちている。クオンは鈍色の視線を落とした。
 暫しの無言ののち、小さな声がロビンの耳朶を打つ。


「……分かりますか」

「あなたがここにいるのがその証拠ではなくて?あなたならバラバラになる私達のうち誰とでも合流することができたはずよ。私達の中で一番その可能性が高いのは船医さんだったわ。次に剣士さん。私はその次ってところかしら。でも確か剣士さんと船長さんは方向感覚が危うかったから、やっぱり本来あなたが真っ先に合流するのは剣士さんね」


 それに、とロビンは続ける。


「昨日の夜、私達のテントの近くに来たでしょう」


 幼い頃から他人の顔色と気配を窺って生きてきたロビンにとって寝込みは一番警戒すべきタイミングだ。ゆえに常に眠りは浅く、他人の気配がすればすぐに目を覚ます。それはたとえテント越しでも変わらなかった。
 テント近くに訪れた気配はそのまま朝まで微動だにせず、朝方確認すればクオンがチョッパーを抱えて蹲っていたのをロビンは見た。
 大変に珍しいものを見た気分で、秀麗な面差しをあどけなくゆるめ眠りこけるクオンとむにゃむにゃ言いながら安心しきった様子でクオンの胸元に顔をうずめるチョッパーを暫く無言で眺めていたのには他意はない。ただ可愛い×可愛いは倍以上に可愛いと思っただけである。

 思い出し笑いを何とかいつもの薄い笑みで上書きし、足を止めてクオンが隣に来るのを待つ。自分よりも身長が低いクオンの顔をひょいと下から覗き込むようにして囁いた。


「何か、私に訊きたいことがあるのかしら」


 クオンは無言を返した。一瞬足を止めて、しかしすぐに歩き出す。ロビンもそれに続いた。
 クオンには言わなかったが、朝からクオンは挙動不審だった。いつも通り平静を装っていたようだが、いつもあれだけ距離が近かったゾロから離れていたし、ゾロが決して自分からは近づこうとしないロビンを盾にするように隣にいて、森に入ってもどこか上の空、ゾロに話を振られても振り返りすらしないのはあからさますぎる。淀むことなく言葉を返せただけ及第点かもしれない。

 あと何よりゾロはクオンを見すぎである。何も言わないが真っ直ぐな眼差しは雄弁で、クオンが臨時避難場所としているロビンにも流れ弾のような鋭い視線が突き刺さっていた。分からないでか、というものだ。
 昨夜2人の間で男女のあれそれがあったのだろうことは察しつつも既にいっぱいいっぱいなクオンを追い詰めるのは可哀想で、そう思うほどあまりに自分が知る“雪狗”とはかけ離れた様子に、もしかしたら私の知っている“雪狗”はよく似た別人だったのかもしれないわね……と思考が逸れた。あの“雪狗”に今のクオンを見せてこれはあなたよと告げたらいったいどんな顔をするだろうか。


「ロビンは……」


 ふいに名を呼ばれて意識が現実に引き戻される。白い痩躯は足を止めないまま被り物の顔をこちらに向けていた。


「ロビンは、経験豊富、ですよね?」


 何のだろう。そう思いつつ、ようやく開いてくれたクオンの口をなめらかにさせるために頷いてみせる。
 クオンはゆっくりと息を大きく吸って深く吐き出すとロビンと合流した目的を果たすために口を開いた。


「ロビン、恋とは何ですか?」

「え?」

「私は恋とは何かが分からないのです。ひとを恋しいと想う心は、どういったものなのでしょう。まるで荒れ狂う嵐に放り込まれたようで何も考えられず…愛とは違うのでしょうか…違うとしたらどこがどう違うのでしょう…」


 ほとほと困り果てたようにクオンは肩を下げる。


「考えようにも頭が回らないのです。ずっと冷えない熱が燻って内側から焼き尽くすようで、時間が経てばおさまるかと思いましたが一向にそんなことにはならず…なのでまずは第三者の意見を知りたくて…」


 何だろう、とても恥ずかしい告白を聞かされている気がする。落ち着きなく白手袋に覆われた指を意味なく合わせてもじもじさせるクオンの顔は被り物に隠されて見えないが、僅かに覗く、被り物とシャツの間にある白い首は赤かった。たぶん、その被り物の下は耳まで真っ赤に染められているのだろう。もしかしたらいつもは聡明に輝く鈍色の瞳は潤んでいるのかもしれない。
 想像しなければ耐えられただろうに、うっかり想像してしまったロビンは音もなく沼に転がり落ちて胸に庇護欲を湧かせた。顔が良すぎるって罪よね……あとギャップがえぐい。“雪狗”も普段のクオンも知っているロビンには衝撃が凄まじかった。心臓がぎゅんとする。

 すんとロビンの表情が消えた。胸に抱えていたものを吐露して堰を切ったように「許すだけではダメなのでしょうか……」と続け、被り物越しでも分かる震える声音に追撃されてもうダメだった。
 この子、よく今まで無事だったわねと心の底からしみじみと思う。まあこんな状態に陥らせるほどの強者ツワモノがいなかったのだろうが。


「執事さん」


 穏やかな微笑みを浮かべたロビンはそっとクオンの肩に手を置いた。ロビンを見上げる被り物の下にある秀麗な顔が縋るようだと幻視して、気のせいではないと根拠のない確信を抱きつつ小さく首を傾けた。


「昨夜剣士さんと何があったのか、教えてもらえるかしら?」


 そこを聞かないと何も言えないわ、と努めて穏やかに、もっともらしく促すロビンを見つめ、少しの沈黙を挟んだクオンは訥々と語った。
 ゾロを呼び出した理由は伏せたがるクオンを言葉巧みに言いくるめて語らせる。根掘り葉掘り洗いざらいすべてを吐き出させるロビンの手腕に、クオンの相棒は定位置の右肩の上で感心しきりに頷いていた。いつの間にか足を止めて顔を突き合わせ恋バナに耽る2人に、敵地なのに緊張感が欠片もねぇなと思わないでもないハリーは結局口を噤む。なにせハリーにとっての最優先事項はクオンなので。
 やがて昨夜の出来事すべてを語り終えたクオンを見下ろし、成程と深く頷いたロビンは真顔でひと言。


「ひととして最低だわ」

「え!?そんな、ゾロはそんなことは…!」

「ええ、最低なのは執事さん」

「私!?」


 被り物越しに発された驚愕の声は抑揚を削がれていたが違わずロビンの耳に届く。自分を指差して呆然とするクオンをロビンは半眼で見やった。


「剣士さんの執事さんに対する好意は見ていれば気づくもの。気づかなかったとはいえ、執事さんのことを好きな人に殺してほしいと頼むなんて、まったくひどいことだと思わない?」

「うっ……それは…確かに…」

「それにあなた、好意に気づかされても撤回するつもりはないんでしょう?」

「…………まあ…」


 だって、ゾロ以外は嫌ですし、とクオンはぼそぼそと返す。
 ロビンは小さくため息をついた。少しどころではなくゾロに同情する。同時に手強すぎる相手に惚れてしまったものねと心から感心した。よくもまぁ、せっせせっせと丁寧に囲い込んでいたものだ。健気すぎて尊敬の念すら覚える。


「あなたが彼に向けるものは、彼の言う通り“愛”であって恋ではないのでしょうね。それを剣士さんは望んではいない」

「はい……だから知りたいのです。ゾロが望む恋とは、どんなものなのか。そもそもとして恋とは何なのかを」

「でも、あなたの“愛”を恋だと言うひとも、きっといるわ」

「え?」


 こぼれたロビンの呟きにクオンが顔を上げる。いったいどういう意味だろうと、被り物をしていて表情が読めないのに真っ直ぐロビンの言葉を聞こうとする姿勢が語っていた。すぎるほどに素直で分かりやすい。


「私も恋らしい恋をしたことがないから、はっきりとは言えないけれど……」


 目を伏せ、しかしすぐにクオンへ視線を戻す。惑う幼い子供のような白い生き物に優しく言い聞かせた。


「恋なんてものはとても曖昧だと私は思うの。一般的に言えば、そのひとのことばかり目で追って、そのひとを思えば心臓が高鳴って、どこか甘酸っぱい思いが胸を締めつけて、傍にいるだけで嬉しくて、何よりも自分を見てほしいとわがままになる。けれど、それ以外の事柄を恋と呼ぶことは往々にしてある」


 ねぇ、浮気者・・・の執事さん、とロビンは笑った。


「あなたは愛多きひとよ。親愛、敬愛、友愛、家族愛、情愛。それ以外の感情すら、あなたは“愛”と呼ぶのでしょう?だから、何をもって自分の想いを恋と呼ぶのか─── それはあなた次第ではないかしら」


 クオンは無言だった。口を噤んだまま、ゆっくりとロビンの言葉を噛み砕こうとする。


「ひとつだけ聞かせて、執事さん。あなたが剣士さんに向ける“愛”こそが恋よと私が言ったら、あなたは納得するの?」

「……いいえ」


 クオンは静かに首を振る。それは違います、とすぐに否定した。
 だってクオンの許容と献身である“愛”は、ゾロの望むものではない。そう言われた。だから恋ではない。だから恋とは認めない。だから、恋とは何かが知りたかった。
 たくさんの愛を知っているクオンが唯一知らないもの。恋愛、あるいは恋慕。それを抱いて、向けて、向けられることを許せとゾロは言った。唇と胎を許すということはそういうことなのだと。


(許すだけではなく、許したいと思うだけではなく、許され・・・たい・・と思う心)


 ……やっぱりそれは、“愛”ではないのか。
 被り物の下で難しい顔をするクオンが小さく唸る。結局明確な答えは得られぬまま思い悩んだ。

 うんうん唸りながら足は再び目的地に向けて進めるクオンの隣に並ぶロビンは、大真面目に考えに耽るクオンを横目に、クオンの反応から脈があるらしいと喜んだゾロを思い浮かべて内心で苦笑する。
 知るは愛ばかりの女が知らぬ恋を知ろうとしているのは、果たして誰のためだ。まっさらな心に生まれたばかりの想いは誰に向けられているのか。あるいは誰に向けようとしているのか。
 傍から見ればあまりに分かりやすいというのに気づかぬは本人ばかりだ。なにせ恋とは何かを知ることばかりに気が向いていて深くに思考が至らずすべてが無自覚になっている。

 恋を迫ってくる男にゾロのすけべと言い捨てたらしいが、唇と胎を一度は許しておいてその場でぶち犯されなかっただけゾロの紳士ぶりに感謝した方がいい。キスのひとつすら自身に許さなかった男の頑強な精神に感服する。それほどまでに、心底どうしても確実にクオンが欲しくてたまらないのだろう。話を聞くだけでも逃がす気などさらさらないと分かる男に空恐ろしさまで覚えた。


「執事さん、あまり可愛い顔をしてはダメよ。あなたが食べられるのは自業自得だけど、それを我慢する剣士さんが可哀想」

「ロビン、私に容赦と遠慮というものがなくなってません?」


 あとなぜそうもゾロ贔屓なのです、と心なしかむっと声を低くして言い募るクオンに、ほら可愛い、と内心呟いたロビンは可愛らしく顔を歪めているクオンの表情を覆い隠す被り物の頬を優しくつついた。







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