207
深い深い眠りの底で、にじみ出る記憶の欠片を見た。
† 探索組 1 †
子供が泣いている。わんわん声を上げて泣いている。泣いているのは、─── 私。
目の前の太く黒い脚にコアラよろしく短い手足を回して抱きつき、小さな喉を震わせて泣いていた。涙をあふれさせて泣き喚く子供に、しがみつかれた誰かは直立しつつも困った気配を隠さない。
震える小さな背中に大きな手が添えられる。その感触に子供はさらにぴいぴいとかしましく泣いた。いやいやするように首を大きく振って涙を散らす。
『クオン、わがままを言ってはいけない』
誰かの声が優しくたしなめる。しがみついている脚の持ち主の声ではない、背後からかけられた静かな音は、しかし性別も年齢も判然としない。
黒いズボンをはいた脚から引き剥がすように子供に触れる大きな手に力が入る。それに、白い子供はびいとひと際大きく泣いた。無理やり剥がされた手足をばたばたと暴れさせて抵抗するが、誰かは幼い子供の抵抗など意に介した様子もなく抱え上げる。ぐんと子供の視点が高くなった。
べそべそと泣く子供のまろく白かった頬は真っ赤に染まり、涙の筋を描いて大きな粒が次から次へとこぼれていく。抱え上げられてもなお泣きながら手を伸ばす子供に、しかし今までしがみついていた目の前の誰かは手を差し伸べることはなかった。
黒い脚だけがはっきりとしている誰かの顔は見えない。白い塗料を刷毛で雑に塗り潰したように背景に溶け込んでいた。自分を抱える誰かと同様、こちらも性別も年齢も体躯も何も判らない。当然表情など判るはずもないが、目の前の誰かはふいに音もなく空間を震わせた。名を呼ばれたのだと、子供は理解した。
ふわりと視界をシャボン玉がよぎる。先程までなかったまるくとうめいな泡が、いくつもいくつも。
抱え上げられた子供よりもさらに高い位置にあるシャボン玉を示され、子供の涙に濡れたしろい瞳が上を向く。
空へ向かってふわふわと浮かぶそれは誰の手も届かない。目で追っているうちにどんどんと高く昇っていく。だが目の前の誰かが腕をひと振りしたような気配がして、同時─── ぱちん、シャボン玉が割れた。
泣くことも忘れて子供が目を見開く。シャボン玉があったはずの場所を凝視し、次いで目の前の誰かに視線が落ちて、また上げられて、また落ちて、何度も何度も交互に見るから、小さな子供の小さな頭が忙しなく上下に揺れ、そのたびに雪色の髪が細かく揺れる。
『お前がこれをできるようになるまでには、またここへ来る』
声が響く。目の前の誰かの声だ。別れを嫌がりぐずって駄々をこねて泣き喚いていた子供に、子供の目のふちからこぼれた涙を拭った誰かは次の再会を約束する。
『だから泣くな、クオン』
そう言って、押しつけるようにして渡されたものは───。
† † †
「見ろ!!言った通りだろ、ここに誰かいたんだ!!見たんだおれは、やっぱりあれは夢じゃなかった!!」
目を覚ますと同時にメリー号で何かをしている誰かを見たと騒ぎ立てたウソップに急かされ、メリー号に何かあっては困ると生贄の祭壇に向かった麦わらの一味が昨夜同様祭壇に鎮座するメリー号を目にした途端、目を見開いたウソップがそう声を上げた。
湖のほとりから見ても明らかにゴーイング・メリー号が修繕されているのが判る。慌てて全員でメリー号に乗り込んで詳しく見てみれば、折れたはずのメインマストは鉄板で繋ぎとめられ、削られた船底も補修されていて、さらに猿山連合軍によってフライングモデルにされていたはずのメリー号は翼も尾も外されて元の形に戻っていた。ただし、その修繕の出来は明らかに素人のそれではあったが。
不思議そうにメリー号を見渡す麦わらの一味が各々言葉を交わす中、
クオンは船首に手を乗せて唇だけで礼を紡ぐ。被り物の下でゆらりと鋼をにじませた鈍色の瞳に、得意げに胸を張る小柄な影が映る。
「ほらほら!あんた達なにサボってんの!?『脱出
組』は昨日の後片付け!『探索
組』は冒険準備!」
謎は残るが今はそれを気にしている場合ではないと航海士が両手を叩いて指示を出す。食糧の振り分けをおれがやると言うルフィにそれだけはおれがさせねぇとサンジが阻止する声を背景に
クオンは羊の船首から手を離して中央甲板に集まる仲間を見下ろした。
それより船を下へおろさなきゃ、とナミが言ってすかさず
クオンが手を上げる。
「私が」
「「「「「「「却下」」」」」」」
「おいロープ持ってこい」
クオンの申し出をすかさず全員が声を揃えて切り捨て、ゾロは
クオンを一瞥することなく真っ先に動き出した。それに仲間も続く。ぐだぐだとしていれば
クオンが能力を使ってメリー号をおろしてしまうと察したのだろう。まったくもってその通りなので何も言えず
クオンは肩をすくめるだけだった。
「
クオンは『探索組』の準備をしてて!」
ナミに名指しで指定されればそうする他なく、素直に頷いた
クオンは右肩に乗ったハリーをくすぐると準備のために前方甲板から中央甲板へと飛び降りた。わいわいどやどややいやいと賑やかに沸く仲間を眺めてまずは男性陣の用意を整えるために男部屋へと向かう。
いつも通りを装って軽やかに歩を進める白い背中を剣士の目が追っていることには気づきつつ、被り物の下、あの眼差しと視線を合わせぬように鈍色の瞳を真っ直ぐ前へ据えていた。
祭壇からおろしたメリー号を湖に浮かべ、各自片付けと準備を終えたあと。
麦わらの一味はメリー号のすぐ傍でナミを中心に集まっていた。全員が揃ったことを確認したナミがスカイピアの地図を手に口火を切る。
「さてと。地図を見て!」
そう促されて全員の目が地図に落ちる。
『探索
組』のルートはここから南へ真っ直ぐだ。“髑髏の右目”に何らかの遺跡があるはずで、そこに黄金がある可能性が高い。
「まぁ敵諸々に気をつけて黄金持ってきて!」と言うナミにゾロが「簡単に言いやがって…」と唇を歪める。それはそうだが、それが大変にナミらしいと
クオンはロビンの隣に佇みながら苦笑した。
黄金黄金言ってるくせに来ねぇのかと疑問を口にするルフィにナミが当然のように「そうよ、だって怖いじゃない」とあっさり返して自分達「脱出
組」のルートを伝える。
「その間、私達はメリー号でこの島を抜けるわ。こっちも危険よ。なるべく早く遺跡付近の海岸へ行くから、そこで落ち合いましょう!」
メリー号に乗った「脱出組」はまず南西へ向かって島を抜け、それから北回りにぐるりと島の外周を通ってくるという。
黄金を手にした「探索組」と「脱出組」が合流すればそのままコニスに教えてもらった“
雲の果て”へ向かって空島を脱出する手筈となった。「これで私達は『大金持ち海賊団』よ!好きなもの買い放題♡」と目をベリーに輝かせたナミが嬉しそうに笑う。
さて、目的も共有したことだし早速出発といこう。いつまでもだらだらと時間を無為にすることはない。
相変わらず太陽の光は雲に遮られているが、雲の上ということもあり雨の気配はまったくない。快晴といってもいいだろう。つまりは冒険日和だ。
「じゃあ…東の海岸で無事会おうぜ!」
ゾロが仲間の顔を見回してそう言い、大きく頷いたルフィがこれから始まる冒険にわくわくと目を輝かせて声を上げる。
「おーし!!そんじゃ行くかぁ!!」
「おお!!!」
森へ向かって力強く歩を進める船長の背に「探索組」の仲間が続き、
クオンもまたそれを追って殿を務める。
早鐘を打つ心臓をさりげなく押さえる。白手袋越しにも伝わる鼓動は強く大きく、ともすれば誰かに聞かれそうだった。それは危険と隣り合わせの冒険に高鳴っているのか、それとも。
「ハリー、楽しみですね」
そう言って微笑みを浮かべ優しくくすぐってくる
クオンの指が僅かに熱を帯びていることに気づきながら、被り物越しに低くくぐもり抑揚を削いだ声音がどこか上の空であることにも気づきながら、しかしハリーはそれらを指摘することなく同意するように短く鳴いた。
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