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 夜空を覆う雲越しに降り注ぐ月光が重なる2つの影を浮かび上がらせる。地面に押し倒した白い女に馬乗りになった緑髪の男が女の形の良い唇に噛みつこうとして─── 触れる寸前、一本の指が間に入った。


「……お前がおれに向ける“愛”は、おれが欲しいやつじゃねぇ」


 何度もたこができてはそのたびに潰れて固くなった剣士の親指をクオンの唇に押しつけて自分のものが触れないようにしながら、ゾロは瞬きもできずに固まるクオンを睨みつけた。





† 黄金前夜祭 5 †






「お前にも分かりやすく言ってやろうか、クオン


 聡明なくせに何も知らないから理解ができていないクオンに、まるで子供に言い聞かせるようにしてゾロは言う。


「おれァお前に恋をしてる」


 その外見からとても似合わない甘ったるい単語を、欲と熱で物騒に燃える眼差しとあまりに冷静な真顔で紡がれて、クオンはゾロの親指が触れる唇をもごつかせて「こい」と無意識に繰り返した。そうだとゾロが続ける。


「お前の“愛”だけじゃ足りねぇんだ。許されるだけじゃ意味がねぇ。おれと同じくらい、お前もおれに許されたいと思われねぇとおれが欲しいものは得られない」


 分かるか、なぁ、分かれよ。睨み据える男の真っ直ぐな目が、言外にひどく強く訴えてくる。
 おれはお前に恋をしているからお前もおれに恋をしてほしいと、そう願われているのだと、回らない頭でもそれだけは理解できた。

 ─── 恋とは、何だろう。ふいにクオンは思う。
 クオンがゾロに向ける“愛”とは違うもの。ゾロがクオンに抱くもの。ただ許されるだけでは足りないもの。激情と欲と熱の嵐。まるでハリケーンのように心に襲いかかって、この心臓を貫いて魂にまで届かせるほどの強い想い。それが恋なのだろうか。


(ああ、そういえば)


 唐突に思い至る。


(私は、物語の中ですら、恋を知らない)


 その単語は知っていても、恋がどのようなものであるのか、記憶が欠落して以降知る機会が一切なかった。
 滅びた傭兵達の蔵書は武器や兵法の指南書など仕事に必要なものばかりで、物語の本はあっても基本冒険譚や民話だった。それしか読んでこなかったから、恋愛物語を読もうとも思わなかった。
 ウイスキーピークで子供達のために買った絵本は分かりやすく簡略化されて恋について詳しく載っているはずもない。飢えて貧しい町を調えることに注力して奔走していたクオンにそんな話題を向ける者はほとんどおらず、ゆえに恋とは何か、なんて、考えたことなど本当に一度たりともなかったのだ。

 つぅ、と唇をゾロの親指がなぞる。クオンが恋を知ってゾロに応えない限り、この男は一生自分のそれをここに重ねることはないのだろうと確信させるような仕草だ。
 至近距離にあったゾロの顔が僅かに離れ、左に動いたかと思えば肩口に緑の頭が落ちる。ちり、と三連ピアスが微かな音を立てた。はぁぁと吐き出された深いため息が耳朶を掠めてくすぐったい。


クオン、あんまりおれを煽ってくれるな。おれはお前を大切にしてぇんだ。恋ってもんをしてからずっと、おれは行儀よくできていただろ。これからもそのつもりだ。だからそれを、台無しにしてくれるな」


 恋心を吐露してから、箍が外れたようにゾロは饒舌に語る。何も知らないまっさらな心に色を落とし込んで己が抱くものを教え込んでいく。ゾロがひと言ひと言発するたびに、分かれよと言外に言い聞かせられていく。
 地面に押し倒されて体を固定され、絡んだ素手の指は強く押さえつけられている。逃げられない─── 逃がすつもりがないのだ。獲物に気づかれないよう囲い込んで、自分と同じところへ落ちてくるのを今か今かと待っていた男は、バレたからには早く落ちてこいと開き直って追撃の手をゆるめない。


「いい機会だ、恨み言を言わせろ。お前はおれがいるのにあっちへふらふらこっちへふらふら、何か気に入ったらその良すぎるツラと愛想をあちこちに振り撒くわとんでもねぇ無茶はするわ、見ているおれの身にもなれ。寛容でいたいと思ってるのは本当だが、それも限度がある」


 ぎちり、絡んだ指に力がこめられて少し痛い。


「分かるか、おれァどうしようもなくお前に惚れてるんだ。だから─── おれの恋を思い知れ、浮気者」


 そして早く、おれを許せよ。

 今まで聞いたことがない、あまりに烈しく甘い声音が耳朶を通って脳へ駆け抜ける。頭の中に直接叩き込まれるようだった。
 男の燃え盛る嵐のような激情に搦め取られ、溺れるような恋情に呑み込まれて呼吸すら危うい。心の深い場所、最奥で息づく魂まで貫く熱と欲がクオンの意識を千々に乱していた。


「……すぐにおれを意識しろ、なんて言うつもりはねぇ」


 何も言えず沈黙して横たわるクオンに言いたいことを言い終えたゾロが小さく息を吐いて上体を起こす。薄い雲を通して降り注ぐ月の光が男の顔を照らした。殊勝な言葉とは裏腹の、不敵な笑みがクオンを見下ろす。


「お前を相手にするんだ。元より長期戦のつもりで───」


 言いさし、ふいにゾロは言葉を止めた。浮かべていた笑みも消して何かを確かめるように組み敷いた女をじぃと見つめる。上体を僅かに逸らして自分の影の中にいたクオンをおぼろな月の光にさらし、瞬きひとつ。
 男の顔が、喜色に輝いた。 


「─── ハハ、どうやら脈はあるみてぇだな」


 ゾロの口からこぼれ落ちた歓喜にまみれた声を浴びても、クオンは白皙の美貌を真っ赤に染め上げたまま何の反応もできずにいた。
 雪色の髪がかかる耳も瑞々しいリンゴのように赤く、その色は細い首にまで伝っている。見開かれた鈍色は自身でも理解できない感情で濡れていて、形の良い唇は薄く開いて赤い舌を覗かせ男を誘っているようだった。

 顔が熱い。否、顔だけではない。耳も首も胸も腹も、指を絡めた手も、どこもかしこも熱くてたまらない。は、と小さく吐き出された呼気もまた熱をはらんでいた。
 熱は脳を侵してふやけさせ思考能力を奪い、熱を冷まさなければと遠いところで思うのに、ゾロと触れる箇所から絶えず熱が注ぎこまれて一向に冷める様子がない。
 自分の体だというのにどうしようもなく、とにかく自分を取り戻したくてどうにかしてほしい一心で助けを求めて今まさにこの状況に陥らせている男を見上げるが、それが男の庇護欲と加虐心を煽るのだとは知る由もない。

 今までどれだけ接触を深めても一度たりとて染まることなどなかった秀麗な顔にゾロが喉を鳴らして笑う。赤く染まり熱を帯びた頬を武骨な手で撫でられて思わず肩が揺れたが、ゾロは気にせず己の手をクオンの頬に押しつける。熱を冷ましたいクオンに、新たな熱を注ぎ込んでいく。魂まで焦げつくような熱を。


「あんまり可愛い顔をするなよ、クオン。おれを煽るだけだ」

「──────、~~~~~~ッ!!!


 限界だった。常の冷静さなどどこにもなく、ただただ衝動に突き動かされるままクオンは悪魔の実の能力を発動した。斥力アンチ─── 密着していたクオンの上から弾かれ、突然不可視の力に引き離されたことに驚いたゾロが「ぅおっ!?」と声を上げる。
 指を絡めていた手も離れ、自由になったクオンはすぐさま跳ね起きるとゾロを睨んだ。が、如何せん真っ赤な顔と涙目では迫力など欠片もなく、何とか転倒は避けたゾロと目が合った途端に眦と眉が下がったので睨んだと言っていいのか難しいところだ。


「ゾ……ゾロ、の」


 細い肩を震わせて荒く短い呼吸を繰り返すクオンが掠れた声を発する。はくはくと喘ぐように唇を何度も開閉して、ぐっと引き結び、聡明なはずのクオンはとっくにショートした思考回路から勢いだけで引き出した言葉を投げつけた。


「ゾロの、すけべ!!!」


 最後の一音が届いたそのときには、白い痩躯はゾロの視界から消え失せていた。






 目にもとまらぬ疾さで逃げ出したクオンは、頭を冷静にする間もなく麦わらの一味のキャンプ地へ辿り着き、落ち着きなく辺りを見回して眠りこけるチョッパーを抱きかかえるとナミとロビンが眠るテントの近くに身を寄せた。
 膝を抱えて蹲る。心臓がとんでもない速さで早鐘を打って荒い呼吸はいまだおさまらず、全身を駆け巡る熱は冷めそうにない。ぐるぐるぐるぐる、目が回る。ハリーが傍にいないことにも気づけなかった。


「恋……恋…?ゾロが、私に……?私の愛とは…違う……恋…?」


 呆然と言葉を落とすクオンの腕の中でチョッパーはすやすやぐうぐう夢の中、当分起きそうにない。
 あれは何だったのだろう。私はただ約束をしてほしかっただけなのに。怒られるかもしれないとは思ったけれど、何でああなったのだろう。顔が熱い。唇が熱い。胎が熱い。右手が熱い。ゾロと触れた場所が、そうでない場所も、全部熱い。心臓の鼓動も早くて痛いくらいだ。これは何。─── 恋って、何。
 分からない、何も分からない。思考がまとまらない。何をどう考えたらいいのかも分からない。


「むりです」


 チョッパーの帽子に熱い頬を押しつけたクオンは、唐突にすんと表情を消した。困惑と混乱と動揺の極みに陥り、判断が早すぎるがゆえにこの瞬間すべてを後回しにしようと決めた。今の状態では何も考えられないし一睡もできない、一度無理やりにでも寝てリセットしないとダメだ。


「もうむり……とりあえずあしたかんがえます……」


 もはや半べそですべてを明日以降の自分に託し、右手をひらめかせて麻酔針を手にしたクオンは空島での朝焼けも諦め、躊躇うことなく自分の首に刺すと意識を落とした。







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