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 アラバスタで悪夢を見た日から、ずっと考えていた。
 記憶を取り戻すと決めたそのときに、ひとつの決意を固めていた。

 チョッパー曰く、失われた記憶を取り戻したとき、記憶がない間の事柄を忘れることは稀にあるという。
 たとえ忘れずとも、今の自分が大事にしているものが取り戻した記憶と価値観に押し潰されて些細なものとみなされ、仲間を仲間と認知できなくなったのだとしたら。
 麦わらの一味であるクオンとはまったく違う海軍本部准将“雪狗のクオン”は、何の躊躇いもなく海賊だからと麦わらの一味に刃を向けるかもしれない。

 今のクオンは麦わらの一味の全員を仲間として愛している。だから彼らに刃を向けるのが自分であることは何よりも許せない。叶うならばそんな己を殺したいと思うほど。けれどそれは難しいとも分かっている。だから自分以外の誰か─── クオンを殺せる者に頼みたかった。

 もしも自分が麦わらの一味に刃を向けたなら、そのとき確実に殺してもらえるように。




† 黄金前夜祭 4 †






 クオンは笑顔で仲間の剣士に告げる。もしもそのときが来たならば、どうかこの首を斬ってくれと。
 腕の一本、脚の一本ではダメだ。四肢すべてを斬り落とすまできっと止まらない。否、首だけでも残っていればこの口で敵の喉笛を噛みちぎらんとするに違いなかった。たとえ気絶させたとしても目を覚ませばどこまでも追ってくる。
 仲間への愛を忘れた獣は、己の心を乱すものを滅ぼすまで止まらない。だから殺すのが一番早くて確実で、被害が最小限で済む。

 頼むのならルフィかゾロだった。ナミやウソップ、チョッパーでは力不足で、サンジならば可能だろうが、彼は優しすぎる。かつての仲間の息の根を止めることはきっとできない。
 船長に頼むべきとも思ったが、考えに考えて結局ルフィは選択肢から外した。クオンが麦わらの一味に刃を向けたとしても、彼はきっと「なら何度でも止めてやる」と笑って殺してはくれない。
 けれど、ゾロならば。年若い集まりの麦わらの一味の重し役を兼ねる彼ならば、一味のこととなれば冷静に状況を見て決断を下せる彼ならば、きっと雪狗を殺してくれる。

 ゾロは強くなった。ウイスキーピークで対峙したときよりも比べものにならないほどに。鉄を斬れるようになり、クオンの疾さも追えるようになった。全力ではなかったとはいえ、こうして地面に押し倒されて完全に動きを封じられるとは思っていなかった。ここまで凄まじい速度で成長してきたさまをこの目で見てきたのだ、たとえ雪狗が相手だったとしても決して後れは取らない。
 たとえ今の自分がかつての自分に食い潰されたとしても、麦わらの一味への想いが欠片でも残っていれば動きが鈍くなるだろうから、討ち取るのは然程難しくないはずだ。


「私を殺せる技量があるのかどうか、あなたを試した非礼は心からお詫びします。けれどどうか、お願いします。私では雪狗を殺せない。だから、あなたにお願いしたい」


 クオンは夜の闇に慣れた鈍色の瞳で、真っ直ぐ逸らすことなく己を押し倒している剣士を見上げた。天上で雲に覆われた月がさらに厚い雲に隠されたか、影を落としたゾロの表情は目を凝らしてもよく見えない。


「もちろん、できることならあなたに私を殺させたくはないので、努力はいたします。あなた達への想いや今の私の気持ちを綴った日記のようなものも用意してありますし、ひとつひとつのことを事細かに覚えていられるように記憶に刻んでいます。ちゃんと、私を殺させるという意味を理解して、そうはさせないようにしていますから。けれど絶対はありませんので、一応念のためということであなたにこうして頼んで」

「本当に、意味分かって言ってんのか」


 つらつらと淀みなく吐き出されていたクオンの言葉が、低い唸りに遮られる。クオンはひとつ瞬いた。
 白い肢体を跨いで地面に膝をつき、細い腰の辺りに馬乗りになった男の表情は読めない。けれど妖刀の柄を握り締める手に力が入ったのを、ぎしりと鈍く鳴った音と男の腕に浮いた血管から察した。
 ず、と妖刀が地面から引き抜かれ、土を払って鞘に納まる。そのとき、天を覆う雲が幾分か薄くなり、僅かな月の光が2人に降り注いでその姿をつまびらかにした。あらわになった男の顔に息を呑む。


「……ゾ、ロ?」


 表情の一切を消したゾロが静かに見下ろしている。苛立たしげでもない、唇の端を歪めて笑うでもない、内心が凄まじく荒れ狂っているからこその、すべてが混ざり合った無の表情。
 そして恐ろしいほどに凪いだゾロの目はしかし、身が竦むほど重苦しく、不穏な激情の炎が奥底で揺れているのを、クオンは確かに見た。燃える眼光に見据えられて背筋が寒くなる。何か言葉を紡ごうとしても唇は空気を食むだけで、首を絞められたように喉がきゅっと締まり、回転の早いはずの脳が軋んで真っ白になった。


「─── やめた」


 ひと言、薄い唇を動かして男は淡々と声を落とす。それは確かに何かの宣言だった。
 ゾロは目を逸らすこともできず固まるクオンの右手を取り、白手袋を外して、細く白い指の間に己のそれを通して絡めた手を地面に押しつけた。腰を膝で挟んで固定し、逃げられないよう白い肢体を縫いとめる行動には男の欲望もこめられていたが、それを真っ向からぶつけられている当人はよく分かっていない。

 重なる手から伝わる、自分より少し高い体温に少しだけ強張りが解けた。しかし、代わりにゾロから発される不穏な気配に言いようのない不安に似たものが胸を満たす。
 やめた、とは、いったい何をやめるのだろうか。互いの手は指を絡めて重なっているのにまるで大海に突き落とされたような心地がして、クオン水面みなもに浮かぶ一本の藁に縋りつくようにして男の手を握り締めた。その藁が、己を呑み込む嵐の渦だとは気づきもせず。
 柳眉を情けなく寄せて見上げるクオンを見据え、その胸を満たす不安を払い、代わりに嵐へ叩き落とすためにゾロが宣言する。


「お前を囲い込むのに時間をかけるのは、もうやめだ」


 何を言われたのか、クオンには理解できなかった。
 言われた言葉の意味は分かる。けれど自分を囲い込むとはどういうことか、その意図が分からない。
 困惑するクオンの頬を武骨な指が滑る。重なった手とは逆の、たこができては潰れて固くなった剣士の手だ。
 王女曰くなめらかでつるつるでもちもちの頬を片手で包み、優しくこめかみへ撫で上げてさらさらの雪色の髪を梳く。今までにされたことのない手の動きにクオンは再び固まった。それに気づきながらも気にとめず、身を屈め至近距離に顔を寄せてゾロは続ける。


「少しずつ慣らして囲うつもりだった。お前がおれの傍にいるのが当たり前になるように。おれが触れるのが当たり前になるように。何かあれば真っ先におれを頼るように。たとえどれだけ“浮気”をしようが、必ずおれのところに戻ってくるように。……うまくいってただろ?」


 ─── この男は、誰だろう。
 重なった片手は地面に縫いとめられ、腰は膝に挟まれて動けないまま、クオンは鼻先が触れ合うほど近くにある男の顔を凝視する。逸らすことを許さない男の強い眼差しは、どこに隠していたのかと驚愕するほどの激情と欲に燃えていた。

 そんな目で見られたことなんて、一度もない─── そう思って、否、とすぐさま否定する。
 この目を知っている。なぜならつい最近ぶつけられたばかりだ。また“浮気”をしたクオンに、お前に対して寛容でありたいと言ったゾロはこんな目をしていた。じくり、左手の親指の付け根が疼く。


「なァクオン、おれァ行儀よく“待て”ができてたとは思わねぇか。お前のやることなすこと許し続けて、頭から食っちまっても文句言われねぇことだって、お前にその気がねぇのを知ってるから我慢してきて、けど諦める気もさらさらねぇから囲い込んでおれんとこに落ちてくるのを待った」


 おれは気が長ぇからな、と男が笑って嘯く。獰猛な気配を隠しもせず、唇の端を笑みに歪め、今にも弾けそうな欲をこめた眼差しで組み敷いた獲物を燃える嵐に放り込む。


「その結果が、得られた成果が、……惚れた女を殺す権利か」


 低く唸り、地を這うような声音で吐き捨てる。
 本当に意味が分かって言っているのかと、ゾロは訊いた。
 確実に手に入れるために、本人に気づかれないよう慎重に囲い込んできた惚れた女を自分の手で殺せと言っているのと同じだと、ただ呆然とゾロを見つめることしかできないクオンは気づかない。


「─── 分かった」


 ふいにすっと表情を消し、あるいはすべてを呑み下して、指を絡めた手にゾロは力をこめた。ぎらぎらと激しく燃える目でクオンを射抜き、わがままなクオンの願いを承諾する。


「望み通り、記憶を取り戻したお前が一味を抜けたら殺してやる。他の…おれ以外の誰かのところに行かせるくらいなら、その首だけでもおれがもらう」


 それはあまりに強烈な悋気だった。意識が吹っ飛ぶかと思うほどの凄まじい感情の奔流だった。
 本当に、いったいその身のどこに隠していたのかと驚嘆して二の句が継げない。二の句どころか、態度を豹変させたゾロの名を呼んで以降、いまだひと言すら発せていないのだが。

 己のわがままの了承が得られたことでゆっくりとクオンの意識が戻ってくる。叩きつけられていた言葉の数々を咀嚼して、呑み込んで、理解しようとしてうまくいかず、どう受けとめればいいのか分からない。ゾロがクオンに抱く感情、それが何かが分からない。

 ……いいや、分かっている。本人がクオンを「惚れた女」と称した。つまりはそういうことだ。いわゆる恋愛感情の類だと、知識として知っている。しかし知っているだけで実感が伴わないから完全に理解が及ばず、何と言葉を返したらいいのか分からない。
 なぜならクオンは、激しくもやわらかく、ひたすらに甘くて優しい“愛”しか知らないのだ。記憶をすべて失くし、生まれたての赤ん坊のようだったクオンに与えられてきたのはそれだけだった。


「なァ、クオン


 低く、重く、いっそ残酷なほどに優しく、腹の奥底で渦巻く欲と熱を叩きつけながら男は惚れた女に囁いた。


「お前の願いは極力叶えてやる。わがままも許す。どうしようもねぇお前の“浮気”も、好きにすればいい」


 絡んだ男の指が熱い。自分の少し低い体温と混ざり合ってなお、じわじわと火傷するような熱が心臓へと浸食してくる。


「だからお前も、おれを許せよ」


 ─── ああ、


「記憶を全部取り戻して、それでもまだおれ達の仲間でいるなら、……おれがお前の唯一であることを許せ」


 ─── 溺れそうだ。
 燃え盛る嵐の中、濁流のように襲いくる波に呑まれて呼吸がうまくできない。


「……ゆる、す…?」


 何度も何度も空気を食み、小さな喘ぎをこぼして震える唇を何とか動かして音にする。掠れた声はあまりに頼りなく、情けなく、そして惑いの色に濡れていた。
 クオンにとっての唯一 ─── それはビビだ。彼女はクオンの唯一の“友”になる。その席は他にない。
 仲間としてではダメなのか。ダメなのだろう。仲間としてではなく、“友”でもない、たったひとつのもの。それを明け渡せとゾロは言う。クオンの知らない席を用意しろと迫っている。


「何を…許せば…?」


 真っ白になった頭にはいまだまともな思考能力は戻らず、深く考えることなくクオンは鈍色の瞳を揺らし、道に迷い寄る辺をなくした子供のような顔で問うた。
 ゾロは目を細め、上体を起こすとクオンの頬を武骨な手で撫でた。太い親指が薄く開いた唇をなぞる。


「ここに触れる許しを」


 次いで、男の指が首を滑り、心臓を掠めて、腹の上へ。へそよりも少し下の位置にある女性特有の器官を、薄い腹の上から親指で強く押した。


「─── ここに押し入る許しを、おれだけによこせ」


 ジャケットとウェストコート、さらにシャツにも遮られているのに、指圧と共に伝わる熱がカッと内臓を灼く。心臓が痛いほどに跳ね、ぞわぞわと頭から爪先まで全身に得体の知れない震えが駆け抜けて、どこかへ真っ逆さまに落ちていく感覚に陥ったクオンは無意識に左手を伸ばして腹の上に置かれたままのゾロの手を掴んだ。


「嫌か、クオン


 静かに問われ、大きく首を振る。嫌ではない。嫌悪感なんてまったくない。けれど、でも、叩きつけられる想いが強すぎて、どう受けとめればいいのかが分からない。自身の内から湧き上がってくるものも分からなくて、どうしたらいいのかが分からない。
 ただでさえ回らない思考がぐちゃぐちゃだ。何一つ考えがまとまらない。何から考えたらいいのかも分からない。こんなふうになったことなど今まで一度たりともなくて、暴走した感情で涙もにじんできた。何でこんなことになっているのか、それすらも考えることができなかった。
 何もかもが覚束ない自分が怖くて地面に縫いとめられた手を握る。絡めた指に力をこめて剣士の手の甲に爪を立てた。腹の上にあるゾロの手首を掴む左手に、引き剥がすのではなく縋りつくために力をこめる。


「い、嫌では、ありません。あなたに触れられることを厭うはずがない。でも、今あなたに触れられると何も分からなくなる。けれど、あなたが離れていくことの方が怖い」


 自分が何を言っているのかも分からないままクオンは落ち着きなく言葉を重ねる。それが惚れた女を前にした男の理性をどれほど簡単に砕いてしまうかなんて、まったく気づきもせず。
 それでも男は耐えた。獣の衝動に突き動かされるのを鋼の理性で堪えた。たとえ目の前にあるのが据え膳そのものだとしても、まだ、食らいつく許しを得ていない。
 だというのに、女は頑強な意志で耐える男を濡れた鈍色の瞳で見つめてさらに言い募る。


「ゾロ、私は、あなたが望むことを許したい。あなたが望むのなら、唇も胎も、あなたの好きなようにして構わない。だって私は、それを許せるくらいには、……あなたを、愛して、いるのです」


 けれど、その“愛”は─── 仲間としてのものだ。大事に大切に愛してくれる仲間へ相応のものを返したいという許容と献身でしかない。
 それはゾロが欲しているものではない。ただただ受け身に、鏡のように似て非なるものを返されたいわけじゃない。
 けれどクオンはそれしか返せない。なぜならそれしか知らないから。生きているものはすべて、自分が知っているものしか返せないから。

 そんなことは分かりきっているというのに、ぎりぎりのところで堪えて細く張り詰めさせていた理性の糸を引きちぎられた男は、おぼろな月明かりだけが頼りの深い森の中、この世の何よりも美しい女の影と己のそれを合わせた。







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