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 賑やかな宴をとうに終え、草木も眠る静寂に満ちた深夜。
 ナミとロビンは隅に張ったテントの中で横になり、男達はそれぞれ無造作に地面に転がって眠りについている。
 その中からひとり外れ、湖畔に出たクオンは生贄の祭壇を包むように湖に広がる深い霧の向こう側、白くけぶるゴーイング・メリー号を静かに見つめていた。コーン、コーン、と響く音を夜闇にとかす、小さな槌を振るう小柄な影を鈍色の瞳に映して。
 視線はメリー号へ向けたまま、おもむろに口を開いて右肩に乗る己の相棒へと囁く。


「……怒られると思いますか、ハリー」

「はーりぃ」

「そうでしょうね。私もきっと怒らせるだろうと分かっています」

「きゅあはり」

「ええ、それでも。こういうことは、できるだけ早くに決めておくべきでしょう?」


 雪色の狗は笑う。秀麗な面差しに翳りひとつなく、清々しいほどあっさりと己の処遇を決めながら。
 そうしてひらめかせた左の細い指に、一本の長い針を携えた。





† 黄金前夜祭 3 †






 尿意をもよおして起き出したウソップに同行を頼まれたもののすげなく一蹴したゾロは、暫く待っても戻ってこないことを訝り腰を上げた。
 ウソップは湖畔のすぐ傍、仲間達から然程離れていない場所にいた。なぜかその場で仰向けに倒れて寝ている姿にしょうがねぇ奴だなとため息がもれる。
 キャンプ地まで引きずってきゃいいだろと腰を屈めてウソップの足首に手を伸ばそうとした、その瞬間。


「────」


 唐突に、音もなく飛来した何かをゾロの左手が掴んで受けとめる。確実に己を狙って放たれたそれを見下ろせば微かな月光を鈍く反射する長い針が静かに見返して、ゾロの目が眇められた。
 よくよく見慣れた針が飛来した方向を見やる。深い闇に沈んだ木々の向こうに佇む獣の色をゾロは知っていた。

 ウソップをその場に残し、微かな風と葉がこすれる音だけを捉える耳の奥で流れる、調子外れで音程があべこべの旋律に誘われるまま足を進める。
 闇の向こうに殺気はない。敵意も。害意すら、何も。下手をすれば仲間の心臓を貫きかねなかった針を放った狗は、ただ静かに待っている。

 果たして、隆起した木の根をいくらか越え、キャンプ地より少し狭くひらけた場所にそれは立っていた。その姿が見えて目が合うと同時に足を止める。
 それは白い燕尾服をまとい、常に被っている被り物を外して人外じみた秀麗な顔を晒し、穏やかな鈍色の瞳をこちらに据えていた。その肩に狗の相棒はいない。


「こんばんは、ゾロ。手荒な呼び出しをして申し訳ございません」


 望み通りこの場に来てくれた男に、クオンはにっこりと笑って非礼を詫びた。右手を軽く掲げればゾロの手の内から針がすり抜けて白手袋に覆われた右の指の間におさまる。
 ゾロは何も言わない。固く唇を閉ざし、鋭いが剣呑ではない真っ直ぐな眼差しをクオンに向け、わざわざ自分をここに呼び出した狗の動向を窺っていた。クオンもまた、朗らかな笑顔を浮かべながら奇妙に凪いだ鈍色の瞳でゾロを見ている。
 互いに一定の距離をあけて佇み、剣士の手は腰に差した刀の柄に触れている。それに、クオンが満足そうに笑みを深めた。針を1本だけ握っていた右手をひらめかせてそれぞれ指の間に己の得物を挟む。


「うん、それでは始めましょう」


 どこか無邪気に紡がれたその言葉が─── 雪色の狗と剣士の、開戦の合図だった。
 白い姿が掻き消える。微かに地面を蹴る音が耳朶を打ったがゾロは動かなかった。
 クオンの戦闘スタイルは知っている。まともに相手をしようとすればじわじわと体力を削られるだろう。長引くほどに不利になる。
 ウイスキーピークで対峙したときにはそのはやさに追いつけなかったが、今なら何とか白い影は追えて、しかしこれはクオンの全力ではないことも知っていた。

 鋭い気配が肉迫する。瞬間抜刀して横薙ぎに振るえば、硬い針と刀がぶつかり合って火花が散った。甲高い音が響く。火花に照らされた雪色の髪が星のようにきらきらと煌めいて揺れるさまを、形の良い唇の端が笑みに歪むのを、ゾロは見逃さなかった。
 火花が消えると同時、白い狗も闇にその色をとかす。その場に動かず待っても針は放たれなかった。そして確信する。この戦いにおいて、針が飛んでくることは絶対にない。

 右手に挟んだ針を刃物のようにして携え、白い軌跡を残して舞い踊るように斬りかかってくる狗を都度弾き飛ばす。火花は二度は散らず、確かにかち合ったはずの互いの得物はしかし、髪ひと筋分の隙間をあけて留められていることに剣士は三合打ち合って気づいた。びしり、こめかみに青筋が浮く。

 腹の奥底から湧き上がるもの。ふつふつと煮え滾るもの。これは怒りだ。
 奇襲じみた針を向けられたことではない。何の説明もなく戦いが始まったことでもない。針を飛ばさず、音を出して他の仲間に気づかれないよう能力を使われたことでも、つまりは明らかに本気ではなく手を抜かれていることでもない。
 ─── 自身を削る反動があると分かっていて躊躇いなく悪魔の実の能力を使っていることが、腹立たしくてたまらない。


(またごちゃごちゃ考えているお前の気が済むのなら、いくらでも付き合ってやるけどな)


 それで美しい肢体を損なうことは、許容できるはずもない。


(次で決める)


 刀を握る手に力をこめ、まさしく魔獣のように凶暴な光で目を爛々と輝かせたゾロは喉の奥で短く唸った。
 ウイスキーピークで対峙したときは刀を三本使ったが、今抜いているのは妖刀一本だけだ。己の得物を慣れない使い方で振るう狗には、これで十分すぎる。
 ゾロの怒りと研ぎ澄まされた気配に応えるように、妖刀もまた常の笑いを潜めて雪色の狗の影を刀身に映した。

 狗が瞬きする間もなく間合いを詰める。目に映る姿を認め、振りかぶられた右手に、本来の狗の得物である刀の姿を幻視した。
 迫る針の刀を鬼徹で受ける。剣戟は響かない。火花も散らない。その白い姿が掻き消える─── その寸前、針の刀を搦め捕るように手首を返して鬼徹を振り上げた。豪剣を扱うゾロがまさかそうするとは予想だにしていなかったようで、虚を衝かれた狗の指から針の刀はいとも簡単に弾き飛ばされた。
 キィン、と微かな硬質の音が耳朶を打つ。瞠られた鈍色にゾロの苛烈に燃える瞳の刃が叩き込まれ、その圧に刹那動きを止めた隙を逃さず、鬼徹を握る手とは逆の腕を伸ばして胸倉を掴んだ。


「───ッ!」


 痩身を力任せに地面に引き倒す。能力を使って受け身を取ることもできず背中をしたたか打ちつけて息を詰めた白い肢体に馬乗りになって、ゾロは鬼徹を振り上げた。はっと見開かれた鈍色に、妖刀の切っ先が映る。

 ドッ─── と、刃が地面に沈んだ。
 倒れた自分の首のすぐ横に突き立てられた妖刀を一瞥することもなく、クオンはただ真っ直ぐにゾロを見上げて、ふいに唇にやわい笑みを刷いた。


「お見事」


 それは心からの称賛だった。奇妙に凪いだ鈍色がいつものぬくもりを宿して細められ、唐突に始まった戦闘の終わりを告げる。しかしゾロは静かにクオンを見下ろしたまま動かない。鬼徹から手を離さないまま、おもむろに口を開いた。


「気は済んだか」

「ええ、確信が持てました。やはりあなたしかいません、ゾロ」


 嬉しそうに微笑みながらクオンは真っ直ぐにゾロを見上げた。夢見る少女のように秀麗な顔をうっとりとさせ、甘くたわんだ鈍色の瞳に剣士を映す。白手袋越しに伸ばされた手が細い首の横にある刀身を撫でた。


「ゾロ、お願いがあるのです。大変なわがままだとは承知していますが、あなたにしか頼めない」

「……何だ」


 鈍色を期待に輝かせるクオンを見下ろして、ゾロが短く問う。
 クオンは笑みを深めた。これこそが幸福であるとでもいうように、あふれる愛を囁くように、弾む声音で言葉を綴る。



「私を殺してください」



 わがままはすべて叶えてもらえると疑わない、子供のようながんぜない笑顔だった。







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