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 メリー号が木々の向こうに隠れて見えなくなっていくのをゾロの頭に腕を置きながら眺めていたクオンは、ふと、そういえば船番としてメリー号に残してきたチョッパーが実は一番危険ではなかろうかと気づいた。
 この森には確かに“神”の直属の部下である神官が多数うろついているのだろうが、メリー号をあの祭壇へわざわざ運んできたのだから神官が真っ先に向かうのはメリー号だと容易に考えられる。


(……しかしまあ、チョッパーも医者といえど戦うすべは持っていますし、もしものときはあの空の騎士殿を呼べば何とかなるでしょうから、ここは任せましょう)


 白海にて老騎士から預かったホイッスルはメリー号のメインマストにかけてある。吹く権利は主な戦闘員であるクオン含むルフィ達にはないがチョッパーにはあるため、少々の心配を胸に抱きつつも内心呟いた通り彼に任せることにする。それに、チョッパーも立派な海賊なのだから、いつまでも過保護ではいけないだろう。
 それでもやはり早めに戻ってあげようと、絶賛過保護にされ中のクオンはゾロに抱えられたまま見えなくなったメリー号を思った。






† 神の島 3 †






 メリー号が完全に見えなくなった辺りでゾロに降ろされ、周囲を見渡したクオンはこてりと首を傾ける。


「それにしても、この森はあまりに巨大ですね。少々異質に思えるほど」


 木々のひとつひとつが軽く樹齢数百年はありそうなこの森にあったあの祭壇は、考古学者たるロビンの見解では壁画を見るに1000年は経っているらしい。ということはあの祭壇と森はほぼ同時期にできたもので、しかし祭壇というものは森の奥深く、それも建てた時点で相当な年月が経過している神聖な場所にあるものであり、どうにも違和感が残る。とはいえクオンはきちんとした知識と経験を持った学者でも何でもないので、こうも巨大では誤差と言われればそうかと納得するしかない。

 暫く適当に進んでいたが風景は然程変わらず、祭壇があるのならば人が住んでいた痕跡があるはずなのにそれもどこにもないことにロビンが訝しげに首を傾げた頃。
 ふと巨大樹の根に潰された井戸を見つけたハリーがきゅあ!と鋭く鳴いて短い右手で示した。井戸があるということはこの辺に村があったのだろうかと辺りを見渡すクオンだが、既に木々に呑み込まれたのか視界には映らない。


「これは……」

「ロビン?」

「少し調べてみるわ」


 巨大樹の根に口の半分以上を塞がれ下敷きになった井戸へ、ロビンが真剣な面持ちで近寄って膝をつく。バッグから何やら試験管や試薬を取り出した彼女が簡易分析キットで井戸やその周囲を調べるのを眺め、傍らの樹をついと見上げた。


「高いところから周りを見てみましょうか」

「あ、なら私も運んで!」

「ええ、構いませんよ。行きましょう」


 ナミを横抱きにし、幹を数度蹴って軽やかに駆け上がると太い枝へ爪先を下ろす。地上を見下ろせばゾロとロビンが米粒ほどの大きさで、少し高すぎたかと思いはしたが、一番近い枝がここだったのだから仕方がない。
 ナミを降ろし、早速バッグから双眼鏡を取り出して遠くを眺めるのを彼女に任せ、クオンは裸眼の視界が届く近場を見渡した。しかし周囲はやはり巨大な樹に埋め尽くされて呑み込まれ、何の痕跡も見当たらない。文明も何もかもが、井戸のように巨大樹に押し潰されて消えてしまったのだろうか。


 ─── シャンドラの、灯を


 けれど、この“声”は消えていない。絶え間なくクオンに訴えかける悲痛な願い。それは1000年も前の、木々に潰された文明の残滓なのだろうか。分からない。今のクオンには、まだ何も分からなかった。
 どれだけ周囲を見渡しても何も得られるものはなく。ふむと被り物の顎に指を当てたクオンは白い瞼を下ろした。耳に届く“声”に意識を集中させる。
 シャンドラの灯をともせ。そしてもうひとつ、明瞭な音なき“声”。それらの大きな“声”に紛れた、この島に満ちた別のいくつもの“声”。小さな、あまりに小さなかそけき連なりに耳を澄ませる。


 ─── は……

 ─── おれ達は…


 ここにいる─── ノーランド


 ざぁ、と、ふいに視界がひらけた。目の前に広がるのは森だ。樹齢数十年はくだらない深い森。鬱蒼と生い茂る、けれどどこか神聖さを帯びた、彼らの住まうこの地。神を名乗る侵略者に荒らされていく彼らの故郷。
 “声”が聞こえる。どこからともなく、訴えてくるものがある。心からの叫びを上げる戦士が、そこにいる。

 シャンドラの灯をともせ。どうか伝えてくれ、おれ達は─── ここにいるのだと。

 約束をしたんだ。友と。親友と。再びを、再会を。必ずと。だから。だから。


「ああ─── ならば叶えよう」


 戦士を見つめる鋼の瞳を虚ろに、雪色の狗は低く返す。
 それはなすべきことだった。聞いて、伝えて、届けてやろうと諾した願いだった。
 けれどそれが、己の唯一へ向けた願いなら。たとえどれだけの時が過ぎても褪せぬ想いがあるのなら。

 違えぬ約定はここに。絶対の誓いをお前達に。この我が名をもって叶えよう。

 一本一本が星のように煌めく雪色の髪を微かに揺らし、虚ろな鋼の瞳を細め、この世のものとは思えないほどに美しい秀麗な面差しから表情を消して、そのすべてを被り物の下に隠したそれ・・は告げた。

 傍らの航海士はまとう空気が一変した白い人間に気づかない。彼女は双眼鏡に映るものを信じられない思いで見つめて絶句し、己の頭に浮かんだ可能性に気を取られていた。地上の2人もまた、遥か上方にいる2人の様子に気づけるはずもなく。被り物越しに発された低くくぐもった声を聞いたのは、右肩に乗った相棒のハリネズミだけだった。


「……神の住む島……アッパーヤード……」

「いいえ、ナミ。違います。ここはそんな名ではありません」


 呆然とした呟きに、思惟を取り戻したクオンは烈しく煌めく鈍色の瞳をナミが双眼鏡越しに見つめる先へ据え、見えぬものを見透かすようにして冷たい声音で返す。ともすれば吐き捨てるようにも聞こえるそれはまざまざとクオンの心情を表していた。
 そうして、クオンは小さく眉間にしわを寄せた。唇の端が歪む。
 どうして考えつかなかったのだろう。青海にいるとき、そして空島へ来て、この島に着いても尚。事ここに至るまで、その可能性が欠片も脳裏をよぎることはなかったのだ。
 ナミが目にしたものを知らずとも、既に答えはそこにあった。幻視した森が、“声”が、教えてくれたからだ。
 神の住む島、などと。それが彼らにとってどれだけの屈辱であり侮辱であろうか。


「ねぇ、クオン。この島……まさか」


 双眼鏡を顔から離し、振り向いたナミに顔を向けることなくクオンは「ええ」と短く返す。即答の肯定を受けて息を呑んだナミは固い表情のまま深い巨大樹の森の奥を振り向き、ぐっと瞳に力をこめるとクオンを見上げた。


「行きましょう、クオン


 双眼鏡をバッグにしまってこちらへ両腕を伸ばしてくるナミを見下ろして、雪色の狗は人としての顔に微かな笑みを描くとしかと頷いた。







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