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クオンほどやわらかさはなく、けれど力が抜けてそれなりの弾力がある胸筋に、もう少し肉がつくともっと寝心地はよくなるだろうなと考えながらも文句は言わず寝そべり瞼を閉じていたハリーは、ふと己の小さな耳朶を叩く音を聞いてぱっと目を開けた。
「ハリー?」
顔を上げてきょろきょろと辺りを見回す相棒に、針がたたまれた小さな背中を撫でていた
クオンが訝しげに首を傾ける。だがハリーは
クオンを一瞥しただけで、じっと動きを止めて耳を澄ませた。
何かが、聞こえた。この耳に何かの“音”が。不思議そうな相棒の様子からして
クオンには聞こえなかった、何か。おそらくハリーにしか聞こえなかった、
クオンだけが聞いているのだろう“声”とも別のもの。
ざわざわと動物の本能が騒いでいる。気のせいではない。何だ、何かが─── 来る。
何かを呼び寄せるための人間の可聴領域を外れた音階を確かに聞いたハリーは、ぶわりと背中の針を逆立たせた。
† エンジェル島 10 †
素早く
クオンの右肩へと登り、肩の上で短い手足に力をこめて警戒もあらわに身を低くするハリーに、
クオンが弾かれたように視線を走らせた。ハリーがここまで警戒をしているのなら、確実に自分達に何かが迫っていると疑わなかった。
ハリーが胸元から離れるとほぼ同時に上体を起こして刀の柄に手をかけたゾロも鋭く辺りを見回す。2人と1匹が口を開かないまま重苦しい沈黙がその場に満ちて、それを逆撫でするように、ざざ、と波立つ音が全員の耳朶を打った。
「
クオン、ゾロ?ハリーも。どうしたのよあんた達、そんな怖い顔……」
身構える
クオン達に気づいたナミが怪訝そうに眉を寄せる。いつの間にか水着からTシャツへと着替えたナミが近づいてきて、瞬間メリー号が大きく揺れた。
「きゃっ!?何!?」
たたらを踏んで転倒を避けたナミが目を見開いた、そのとき。
メリー号の両側面に残る、折れた翼の根元を唐突に海から現れた巨大な甲殻類のハサミががっちりと掴むのを、立ち上がった
クオンとハリー、ゾロの3人は確かに見た。
再び大きく船が揺れる。帆を張っていないのにメリー号が後ろ向きに動き出した。近くの手すりにナミが慌てて掴まり、チョッパーが不穏な気配を敏感に察知して
クオンとゾロのもとへと猛ダッシュで飛んでくる。
「ちょっと待って!!何これ、何なの!?」
「アァアアアアアア!!!
クオン~~~!!!」
どう考えても良いことが起こりそうにない事態に、全員の顔が強張る。
クオンもまた被り物の下で鈍色の瞳に剣呑さを宿した。
いったいこの船に、自分達に、何が起こっているのか。自問すれど答えは出ない。ただ分かるのは、巨大なハサミの主がメリー号ごとどこかへ連れ去ろうとしていることだけだ。
ハサミに散る黒い斑点を認めた
クオンはそれに既視感を覚え、ふいにぐわりと視点が高くなって船体から下を見れば、そこにはこの白々海へ登ってくるときに運んできてくれたエビがいた。あれよりもずっと大きい体躯をしているエビの額には、GODの文字。鈍色が見開かれる。
「───、……成程」
小さく、低く、重く、凄絶な呟きを被り物の中にとかし、
クオンは一度目を閉じた。
瞼の裏で肩を震わせる女に、届かないと分かってはいても、大丈夫だと語りかけた。
確証はない。けれどきっと間違っていない。間違っていないから、あの父子はあんなにも苦しそうにしていたのだ。
彼女はきっとこの国の者として当然のことを、「国民の義務」を果たしたにすぎない。それを責めるつもりは微塵もなかった。だからどうか、自分を責めないでほしいと思う。
何度だって
クオンは頷いて口にする。それでいい、そうしなければならない。そして私は私の成すべきを為すのだ。
「どこかへ連れてく気だおれ達を!!おい!!全員船から飛び降りろ!!まだ間に合う!!」
「─── いいえ。全員待機、そのまま動かず大人しくしていてください」
血相を変えたゾロの指示を、抑揚が削がれ感情の窺えない声音が切り捨てた。決して大きくはない、けれど反論を許さない冷たい響きに全員の視線が雪色の人間へと注がれる。4対の眼差しを受けた
クオンは上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物を正面に向けて続けた。
「動き出してはどうしようもありません。それに、船を飛び降りることすらできないようにしてあるようで」
「……そうね。大型の空魚達が、口を開けて追ってくるわ」
被り物についた虚ろな目の先を追ったロビンが固い声音で同意し、空魚の群れを振り返った一同が絶句する。
クオンやゾロなら何とかなっても、ナミや能力者であるチョッパーとロビンには厳しいのは明らかだ。
メリー号を運ぶエビを倒したとて同じこと。別の何かがやってきて結局はメリー号を連れ去るだろう。
「『天の裁き』か……追手を出すんじゃなく、おれ達を呼び寄せようってわけだな」
横着なヤローだ、と顔を歪めて悪態をつくゾロの言葉に、「じゃあまたあの島へ!?」と背筋を寒くしたナミが真っ青になる。ナミが考えた通り、このエビが“
神の島”へ向かっているのは間違いない。
「─── はは」
ふいに。小さな笑声が、響いた。
助けを乞うようにルフィ達の名を叫ぼうとしたナミが音を立てて固まる。首を軋ませて振り返れば、そこには白い燕尾服姿の、愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物をした、雪色の獣が立っていた。
真っ直ぐに背筋を伸ばし、左手を右肘にあて、右手の指を被り物の口元に添えて、それは笑っている。被り物越しでも判るほどに低く、重く、凄絶に、冴え冴えと、酷薄に、冷徹に。体感温度が数度下がって寒さを覚えるほど冷たく張り詰めた空気が獣から放たれていた。
雪色の狗がわらう。鋭い鋼の気配を隠しもせず。誰もが見惚れるほどの白皙の美貌に形ばかりの笑みを描いて。
「あちらがどうしても私達に来てほしいと招待してくれているのです。ならば応えてあげましょうとも。なに、少々手荒な真似は許して差し上げます」
エビに捕まっていても、大型の空魚が取り巻いていても、おそらくはひとりで何とかできるだろう狗は、傲慢に腕を組んでそう言い放った。寛容な言葉とは裏腹に放たれる冷たい気配に、絶対に嫌味だ、とナミは確信して、物騒でしかない仲間に目を眇めた。
「ねぇ、
クオン」
「はい、何でしょう」
「あんた、実はブチ切れてるでしょう」
「…………」
しかもマジギレのガチギレだ、間違いない。ここまで激昂しているさまを見ればこちらが冷静になってしまうというもので、すんと感情を落ち着けたナミの指摘に、
クオンは無言を返した。
被り物の下で瞬きひとつ。呼吸を1回分止め、次いで長く息を吐き出して深く吸い、数度深呼吸を繰り返して荒れる内心をなだめていく。ナミに簡単に見抜かれるほど昂っていたようだ。
いけない、いけない。まだ気が早すぎる。己を諫め、意識して少しずつ物騒な気配をおさめていく。おさめているだけで、一切ゆるんではいないが。
「…………失礼しました。怖がらせてしまいましたね」
「いいわよ、逆に冷静になったし」
言葉通りナミの心静かな答えに頷きを返し、
クオンは腰を屈めると
クオンの放つ冷気に動物の本能で怯えて一歩後退っていたチョッパーと視線を合わせると謝意をこめて帽子を撫でた。帽子越しに感じるいつもの優しい手つきにチョッパーがほっと息を吐き出すのを見て目許をゆるめる。そのままひょいと抱き上げれば、視線が高くなり既に遠いビーチを振り返ったチョッパーがルフィ達は大丈夫かなと心配そうに呟いた。
「私達が連れ去られたのは分かっているでしょうから、お嬢さん方から話を聞いて“
神の島”まで追ってくるはずです」
そうそうすんなり簡単に合流できるとは思っていないが、これを口にしてわざわざチョッパーの不安を煽る必要はあるまいと言葉を切る。それに、大丈夫ではないのは自分達の方もだ。これから“神の島”へ運ばれ、そこでのんびり穏やかにルフィ達を待てるとは思えない。
「ルフィ達は私達を決して見捨てはしませんから、彼らを待っている間に自分達ができることをしましょうね」
「うん、分かった」
当然のことを当然のように言い、そして疑いひとつなく当然のように頷くチョッパーに笑みをこぼして、
クオンは素知らぬ顔でこちらの会話を聞いているロビンを被り物越しに一瞥した。ロビンはじっと流れていく船の外を眺めるだけで
クオンの視線には気づかない。視線を戻した
クオンの耳を、ふいに“声”が強く貫いた。
─── シャンドラの灯を、ともせ
(……ええ、それも、私のなすべきこと)
“声”は“神の島”に近づくほど強くなっている。重く訴えかけてくる、紛うことなき魂の叫びを聞きとめ、
クオンは律儀に胸の内でこたえた。
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