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「さて。ルフィ、ナミ。冒険するにせよ逃げるにせよ、いずれは空島を降りなければなりませんのでその経路を確認しましょうか」


 ぎゃんぎゃん言い争っていた2人に被り物を被った顔を向け、クオンはぱちんと軽く両手を合わせて注意を向けさせる。と、ウソップが目を瞠って「そういやおれ達、この空島へ来ることに必死で、下に帰るなんて全然考えてなかった」呟き、クオンは改めてコニスに向かい合って問うた。


「私達が安全に青海へ戻れるルートを、あなた方は知っていますか?」


 被り物越しに発された声は低くくぐもり抑揚を削いで感情を窺わせない。けれど決して聞こえた通り冷たいものではないと既に知っているコニスは、固い表情のまま、しかし真っ直ぐな眼差しでクオンを見つめ、小刻みに震える手を握り締めて答えた。


「今となってはもう…安全とは言えませんが…青海へ下る道はあります」


 しかしそのためには一度下層の白海へ下り、遥か東─── “雲の果てクラウド・エンド”と呼ばれる場所へ行かなければなりません、と続けたコニスに、それは私達に教えても大丈夫なことで、教えたところでというものなのでしょうと、クオンは凪いだ鈍色の瞳を細めた。







† エンジェル島 9 †






「ですけど…やっぱり逃げることでさえおすすめはできません…空の海とはいえ広大ですし…」

「つまり、彼ら……あの隊長殿が言うに『“神の島アッパーヤード”の神官達』から逃れるすべはないと」


 表情を暗くして言いにくそうに言葉を紡ぐコニスの言わんとするところを掬い上げたクオンにコニスが無言のまま視線を逸らす。
 それはそれは、さて、どうしましょうかねぇ。被り物の下で思案するクオンの隣に立ったナミが「でも、それを言うならこの国のどこにいても同じことよ」と口を開いた。自分達をハメた国の住民を前に、あなた達が悪いわけじゃないと言外に言い聞かせるように悪感情の一切を見せずにからりと笑って。


「とにかく、ここにいちゃ2人に迷惑もかけるし、居場所がバレてる!船を出しましょう。コニス!おじさん!色々ありがとね」


 ナミの言う通りだ。いつまでもここに留まり続ける理由がない以上、無関係な2人を巻き込まないためにもすぐに離れるのが最善。ルフィは冒険したがっているからナミの説得に応じるかは分からないが、まあルフィのことだから素直に聞くとも思えないので、どうせならもう少し空島を楽しみたいクオンは成り行きに任せることにした。

 親切な父子に礼を言ってあっさりと背を向けるナミの背中をコニスが見つめ、そっとクオンの被り物へと滑り、ナミに腕を引かれるまま船に向かって歩き出そうとしたクオンは見えないと分かっていても被り物の下で微笑んでひらりと片手を振った。定位置の右肩に乗ったハリーも小さな手を振ってひと声鳴く。


「あ!!そうだおっさん、さっきのメシ一品残らず全部持ってっていいか?」

「ええ、もちろんどうぞ」


 船を出すことに異論はないらしいルフィがパガヤに了承を求め、彼はそれに快く頷いた。嬉しそうに笑ったルフィが「やったサンジ弁当箱!」とサンジに言い、サンジは「抜け目ねぇなぁ」とこぼしつつも自分の料理が求められたことが嬉しいのか紫煙を吐いた口元はゆるんでいる。


「おれもひとつ頼みが!おっさんエンジニアなんだろ?船の修理のための備品、少しだけ分けてもらえねぇか」


 機会を逃さずちゃっかりしているウソップにも、パガヤは「ええ、構いませんよ」と頷いて、ではもう一度うちへと3人を促す。私も行くべきでしょうかとクオンは船に戻るために海に足をつけながら思い、不安なのかがっちり腕を組んで離さないナミをちらと見下ろしてまぁいいかと思い直す。ルフィ達は何も気づいていないようだし、何事もなく戻ってくればよし、たとえあちらで何かあれば彼らが対処してくれるだろう。

 相変わらず不思議な感触の空の海を歩いていれば、ついてこないどころかどこかへ行こうとする3人に気づいたナミが振り返って眉を寄せ片手を腰に当てる。


「ちょっと、どこ行くの?」

「メシもらってくる。野郎ども、先に冒険準備を整えとけ!」

「ぬ!!」


 ルフィの朗らかな船長命令に、ナミの表情がいっそう険しくなる。対照的にクオンは唇をゆるめて被り物の中に小さな笑声をとかした。


「おやおや、あれでは素直に青海へ戻るつもりはないようですね」

「あいつ…!!完全に行く気でいるわ!ほんと怖いのよ!!」


 血の気が引いた顔で叫ぶナミがクオンの腕に抱きつくようにしながらたまたま近くにいたゾロを睨み、しかしゾロはそれを「知るかよ」と鋭く斬り捨てた。よしよしと毛を逆立てる猫を宥めるように頭を撫でるものの同意どころかフォローひとつしないクオンを一瞥してため息をつく。


「おれァどっちでもいい。おれに当たるな」


 何を言っても自分の味方をしてくれそうにない剣士にぎりりと歯を食いしばったナミの目が次いで人型化して船べりにしがみついたチョッパーに向く。あんたは私の味方よねぇ…?と穏やかに同意を求めるようでいて、視線は鋭く語尾は低くして凄み、間違いなくおどしにかかるナミに「おどすな」とゾロがすかさず呆れを隠さずに咎めた。続けて「分かってんだろ?ルフィを説得できねぇんじゃ全員でデモ起こそうが聞きゃしねぇ」ともっともなことを言われ、子供のように頬を膨らませたナミがクオンを見上げる。クオンはにっこりと被り物の下で笑った。


「諦めましょう、ナミ」

クオン~~~!!!」

「大丈夫ですよ、な」

「んとかされたくないから逃げるのよ!!もう!!」


 いつもの口癖を紡ごうとして遮られたクオンが苦笑して無言で歩を進める。「いいわよ、じゃ私行かない」とへそを曲げて拗ねたことを言うナミに「あァそうしろ」と返すゾロはもう既に返事すら面倒くさそうだ。
 ロビンがおろしてくれた縄梯子にゾロが手をかけてのぼり、クオンはナミを横抱きにして一足飛びで甲板へと降り立つ。慣れた手つきで優しくおろせば礼を言われ、ふと「クオン」と甲板に上がってきたゾロに呼ばれてそちらへ顔を向けた。


「膝貸せ。あいつらが戻ってくるまで寝る」

「ええ、構いませんよ」


 膝枕の要求を頷きひとつで了承したクオンが甲板に腰を下ろして足を伸ばせば、当然のように緑色の頭が太ももに乗る。存外にやわらかな短い髪を撫でてじんわりと伝わる自分より少し高い体温に唇をほころばせた。
 ナミは自分達の身が危ういと分かっているのにのんびりとした戦闘員2人をじと目で見やり、先程のゾロの発言が聞き捨てならなかったのか、「そうしろってあんた、私追手に殺されるじゃない!!」と詰め寄ってくる。しかしゾロは相変わらず面倒くさそうに、もはや一度閉じた瞼を開けることもせず「ああ…じゃ、そうしろ」と言葉を落とすと話をぶった切るようにして健康的な寝息を立てはじめた。おやすみ3秒、大変に寝つきが良い。

 今にも地団駄を踏みそうなほど眦を吊り上げたナミは、今の船の中で唯一味方になってくれそうなロビンを勢いよく振り返った。


「ロビン!!2人でルフィを倒さない!?」

「無理よ」


 しかし彼女は無情にもあっさりばっさり即答した。がくりと肩を落とすナミは少しだけ可哀想だが、好奇心旺盛で冒険大好きな少年心満載な男を船長にしている時点で諦めた方がいい。
 ゾロの胸元へ飛び降りて寝そべるハリーの背中を撫でたクオンは、瞬間鈍色の瞳を煌めかせるとついとビーチの方へと視線を滑らせた。
 木々が広がる雑木林の中に、ひとつ、知った気配がある。これはおそらくあのホワイトベレー隊の隊長だろう。ルフィ達に敵わず部下を率いて撤退したはずだが、ひとりこっそり戻ってきたようだ。かといって何かを仕掛けてくる様子はなく、ただ様子を窺っているだけ。ならばこちらから何をする必要もないかとクオンは放置し、それよりもと空を振り仰いで真っ白い空を茫と眺める。


(“声”が……する)


 この空に来てから─── あの、ひたすらに訴えてくる“声”を聞いてから、クオンの耳に絶え間なく響くものがあった。
 シャンドラの灯を、と痛切に訴える“声”はこの白々海に来てからいっそう強くなっている。シャンドラとは何か、灯とはそのままの意味なのか、浮かぶ疑問を明らかにしてくれるものは何もないが、その叫びはこの胸にしかと刻まれていた。
 そして同時に、もうひとつ聞こえるものがある。こちらはいまだ判然としない。しかしともすれば痛切な“声”よりもさらに強いその“声”を、クオンは確かに聞いていた。何を言っているのか、何を伝えたいのか、何も判らない、けれど無視できないそれ。
 もう少し意識を集中させればまだ聞こえるものがありそうだが、今クオンの頭に直接叩き込まれている大きなものはこの2つ。自分以外には聞こえていないのだろう“声”に耳を澄ませるが、どうにも厚い膜を隔てているように不明瞭だ。


(……空島から青海へ戻る前に、この“声”が明らかになればいいのですが)


 そう内心呟き、鋼が差した鈍色を瞬いたクオンは、細く長い息をゆっくりと吐いた。







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