190





「お嬢さん、もしよろしければダイアルの図鑑などあれば見てみたいのですが」

「図鑑ですか?構いませんよ、今お持ちしますね」


 いまだ晒されることのない、頭から足まで真っ白い人間の愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物の下にある素顔が見えたわけではないコニスだったが、被り物越しのせいか低くくぐもった声音の持ち主はきっと子供のように無邪気な笑顔をしているのが何となく読み取れて、くすくすとやわらかく笑うと期待に応えるべく本棚へと足を向けた。







† エンジェル島 5 †






 ソファに腰掛け、コニスに持ってきてもらったダイアルの図鑑を早速開いて眺めるクオンの横から上体を傾がせたゾロが同じように図鑑を覗き込む。それに気づいたクオンがよく見えるようにゾロの方に寄せれば、無言で押し返したゾロはクオンの被り物に側頭部を預けるようにして凭れかかり腕を組んで目を閉じた。別に読みたかったわけではないらしい。
 普段から鍛えて筋肉のついた体はそれなりの重さがあるが、この程度なら大して苦に思わないクオンは特段気にした様子もなくそのまま好きにさせた。
 図鑑を自分が見やすい位置に置き直す。そうしてふと、横目にゾロの横顔を見やった。寝るのなら膝を貸そうかと思い、しかしそのためにせっかく寝入ったところを起こすのは気が引ける。数秒悩んだ結果、どうせサンジが料理を作り終えたら目を覚ますのだからいいかとクオンは視線を図鑑の種類ごとに詳しく記載された解説文に戻した。

 ダイアルの扱いは簡単なものが多いため一般家庭にも浸透しているほど空島の文化に深く根付いたものであり、その種類も様々だ。
 コニスが教えてくれたものをはじめ、水や“雲”ですら取り込むことのできるものがある。さらに熱や受けた衝撃をたくわえるものも。


(随分と便利なものですが……それだけに、“武器”として転用される幅も広い)


 まさかすべてが平和的に使われるのみである、などと楽観的なことを元傭兵は思わない。仮に空の法律によって武器への転用が禁じられていたとしても、必ず反する者はいる。たとえば白海で遭遇した空の戦士とか。青海における海軍などにあたる治安部隊も保有していて当然だろう。
 空の住人と戦うことになれば苦戦は必定だ。できれば避けたいところではある。自分達は海賊な無法者ではあるが、空の平和を乱すつもりは今のところないし、まぁ大人しくしていれば大丈夫だろうとクオンは己の懸念をのんびり流した。スッと立ったフラグを残して。

 じっくり読み込みたいところだがまずは流し読みをと早いペースでページを繰っていたクオンだったが、キッチンに続く扉を開けて料理が盛られた皿を手に現れたサンジに気づくと図鑑から顔を上げた。


「さぁできたぞ!!“空島特産フルーツ添え スカイシーフード満福コース”だ!」

「んまほ~~~!!!」


 どーんとテーブルに並べられた料理の数々に、ルフィが歓喜の声を上げて飛びつく。スカイロブスターのぷりぷりとした身が割った殻の隙間から覗いて大変においしそうだが、食感はやはり青海のロブスターとは違うのだろう。他にも空魚らしきものや何か空の動物の肉らしきものもあって、食欲をそそる良い匂いが被り物越しにも届く。ぱかっと目を開けたゾロが姿勢を戻して料理に手を伸ばした。
 クオンはソファの端に身を寄せてゾロの肩を指で叩き自分に寄るよう促す。料理に頬袋をふくらませたゾロが素直にクオンに寄って、ひとり分あいた場所に恐縮しながらパガヤが腰掛けた。


クオンさんはお食べにならないのですか?」


 図鑑に再び目を落とし料理に手をつけないクオンに気づいたパガヤが首を傾げて問う。もしやお嫌いでしたかと続けて問われ、クオンは被り物の頬を指で掻いた。
 そうではない。好みはあるが大抵のものは食べられる。特にサンジの料理は絶品だと知っているのでとても口に合うだろう。お腹がいっぱいというわけでもない。特に減っているわけではないが、小食のクオンでも少しくらいは余裕があった。

 実はクオン用にそれぞれの料理を少量盛った皿がすぐ傍に置かれている。それにだけはルフィも手を伸ばさないのはサンジの脚技による躾の賜物だが、他人に素顔を晒すことに抵抗のあるクオンの手は図鑑に添えられたままだ。サンジもクオンの気持ちが分かるから用意はしても何も言わず、しかしパガヤに問われたクオンのフォローも入れず成り行きを見守っている。

 パガヤはクオンにこそ食べてほしいと言っていたから気にしているようで、喜んでもらいたいと思っているのは容易に読み取れた。純粋な心遣いはありがたく、疑いようもない善性を向けられその思いを無下にできず断ることができずにいるクオンは困ったように視線をうろつかせたのち、問いを無視することもできずに口を開いた。


「……これを、取れない事情がございまして」


 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物に触れながら低くくぐもった声でそう言えば、ぱちりと同時に瞬いた父子ははっとしてまたもや同時に両手で顔を覆った。


「見てません!見ません!!大丈夫です決して見ないと約束します!」

「お気遣いが足らずすみません!!あっ、そうですコニスさん我々は別室に移動した方が」

「そうですね父上!でもお仲間の皆様は大丈夫なのでしょうか、それも難しいようなら今すぐ他の部屋を整えますので少しお待ちを」

「待て待て待て待て待ってください、お待ちくださいそこまでしていただかなくとも大丈夫です、いや本当に」


 顔を覆ったままわたわたと立ち上がろうとする2人を慌てて素を覗かせながらクオンが能力を使ってソファに留める。浮かしかけた体を再びソファに沈ませた2人が顔を手で覆ったまま「しかし……」と声を揃え、このままでは気遣いゆえの押し問答になりそうな気配を敏感に察知して、会ったばかりだというのにここまで親切にしてくれる2人にこれ以上我を通しては失礼だと自分を諫めたクオンは躊躇いなく被り物を外して懐にしまった。


「いただきます」


 両手を合わせて紡がれたその声音が男にしては耳当たりの良い涼やかで高めの音だったことに驚き、パガヤとコニスは思わず手を離して目を開き声の主を見た。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、あまりに美しい、人外じみた秀麗な面差し。中性的なそれは絶美と評してなお足りず、間違いなく人生でふたつと見たことのない、思わず呼吸を忘れるほどのものだった。陽の光を受けて自ら光を放つ星のように煌めく短い雪色の髪が白くなめらかな肌をさらりと撫でる。髪と同色の柳眉は前髪の隙間から覗き、伏せられていた長い睫毛に縁取られた瞼が開いて、全身真っ白い中際立つ、灰よりもさらに濃く深い鈍色の双眸が優しくたわんで向けられた。
 白手袋に覆われた長い指に握られたフォークが皿に盛られた料理を刺して口元に運ぶ。淡く色づいた形の良い唇がそっと動いて口の中のものを咀嚼し、抜けるように白い色をした喉がこくりと動いて飲み下されるのを、まるで見てはいけないものを見てしまっているような気分に陥りながら瞬くことも忘れて2人は見入った。


「ふふ、とても、おいしい」


 ふにゃり、とろけた笑みが暴力そのものの破壊力をもってパガヤとコニス、ついでにサンジの心臓を貫いて3人をその場に沈めた。流れ弾を食らったウソップが「くっ…!顔が良い…!」と胸元を握り締めて呻き、口元に手を当てたロビンが「あらやだ可愛い」と思わずといった風情で言葉を漏らす。
 蠱惑に濡れれば命を差し出すことさえ厭わない瞳をいとけなく細めたクオンの言葉は、これが嘘だというのならこの世のすべてが信じられなくなるほど否応なく真実だとその場の全員の頭に叩き込まれた。
 胸を押さえて床に転がるサンジがとうとう「クソ……可愛い……」と泣きながら白旗を挙げる。もうクオンなら男だの何だの関係ないと開き直った瞬間だった。


「これは……これは、ダメです!いけません!そんな美しいものを簡単に晒してはいけません!!美しくて格好良くて可愛いなんてひと粒で何度おいしいつもりです!?何か欲しいものはありませんか!?」

「見てしまってすみません私達が気遣わせてしまったばかりにすみませんとりあえずスカイロブスターをあと10匹ほど獲ってきますのですみません!!」


 感動と心配が極まって逆ギレしつつ貢ごうとするコニスと恐縮しきりにおいしいと言ってもらえたスカイロブスターをさらに貢ごうとするパガヤの2人に、クオンは慣れた様子で笑うと「そこに座って、私達とお話していただけるだけで十分です」と言ってソファに留めた。それでもそわそわそわそわと落ち着きなく体を揺らしてちらちらクオンを窺う2人を、ビビと過ごしてきた時間で培った塩から神までファンサが幅広いクオンはいたずらげな笑みときれいなウインクひとつ飛ばして容赦なく沈めた。濁った喘鳴と共にソファにくずおれ呼吸すら危うい2人に素知らぬふりで料理を口に運ぶ。

 己の顔面の良さを自覚していて安売りしたわけではない、しかし使えるものは惜しむことなく使うクオンの相変わらずのたちの悪さに口元を歪めたゾロが半眼で見やるが、当の本人は飄々としたもので。
 ゾロの視線に気づき、何か問題でも?と言わんばかりににっこりと笑ったクオンは、ふと鈍色を瞬かせるとおかしげに微笑んだ。左の白手袋を外し、素手を伸ばしてゾロの頬についたソースを拭う。唇の端に爪の先まで手入れが施された指が触れた。


「ふふ、子供のようですね」

「……そりゃてめぇもだったろ」

「その節は大変にお世話になりました」


 どうぞ今後ともよろしくお願いいたしますね、と言葉遊び然と続けて笑ったクオンが指についたソースを舐め取って「ソースだけでパンが食べれますね…」と真顔で呟く。小さなパンひとつで腹がふくれる小食のクオンがそんなことをすれば食育に余年のないコックによる栄養の偏り云々といった説教をされそうなので実行することはないが。
 手袋を付け直して再び自分用の皿に盛られた料理を口に運ぶ。おいしい。なんと表現していいか分からない食感のスカイロブスターが口の中でとけて胃に落ちていった。空魚の肉も同様で、それぞれの料理の味付けは異なるのに口の中で喧嘩しないというのはいったいどういうことだろう。料理の心得があるはずのクオンでもただおいしいということしか分からない。まぁでもおいしいからいいか!クオンは思考を放棄して舌鼓を打つことに集中した。


「うまそうだな」


 もきゅもきゅと口を動かしていたクオンはゾロを見て瞬きひとつ。ちらと自分の皿を見下ろすが口の中のものが最後のひと口だった。
 食べてみたかったのだろうか。おいしそうに食べているひとを見ると食べてみたくなるものだというからゾロもそれなのだろう。そう考えて口の中のものを飲み込み、テーブルに置かれた皿に視線を走らせて同じものを見つけたクオンは身を乗り出して手に持ったフォークで刺した。


「はい、どうぞ」


 親切心しかない微笑みと共にフォークの先をゾロの口元に寄せる。ゾロは目を眇め、しかし何も言わずにクオンの手首を掴むと大きく口を開いて迎え入れた。もぎゅっと噛んでごぎゅっと飲み込むゾロにクオンは首を傾けると下から覗き込むようにして問う。


「おいしかったですか?」

「ああ」

「そうでしょう、サンジの料理は世界一ですからね」


 我がことのようにどやぁと誇らしげに胸を張るクオンに、しっかり聞いていたらしいサンジが頬を赤くして「褒めてもデザートは空のフルーツパフェしか出ねぇぞ!」と叫ぶ。
 デザートが出ると知ってクオンが秀麗な顔をますます無邪気にほころばせる。その横顔を一瞥し、ゾロは気づかれないよう静かに細く長いため息をついた。







  top