188





 “ダイアル”の詳しい説明は実物を交えてあとで教えてもらうことにして、まずウェイバーに関しては乗ってみた方が早いというパガヤの提案により、真っ先に手を上げたのはルフィだった。
 ウェイバーの足元にあるスイッチのようなもの─── ハンドルを挟んで2つ並んだペダルの内、右がアクセル、左がブレーキだという。


「アクセル?これか?踏めばいいんだな、これを」


 ウェイバーに乗り空の海に船首を向けたルフィがそう言って指示通りペダルを踏むと、ボン!と風が低く唸る音がして、一人用の乗り物は海水のような雲を巻き上げ飛び出していった。


「うぅわわあ、おお!?」


 ハンドルをしっかと握り締め、慣れない乗り物に半ば悲鳴を上げながら海を駆けるルフィだが、その操縦は傍から見てとても危うい。
 船首が左右にぶれて蛇行するウェイバーを何とか制御しようと踏ん張っているルフィを眺めていたクオンは、ふむと被り物の顎に指を当てた。


「あれではすぐに振り落とされるのではないでしょうか」


 その言葉通り、数秒後ルフィはものの見事にこの上ない大転倒を見せて空中へと放り出された。







† エンジェル島 3 †






 空の海に能力者が落ちればどうなるか。その結果を既に知っているクオンは、ルフィが真っ逆さまに落ちていくのを見た瞬間には飛び出していた。「あっ、クオン!」と慌てて止めようとするナミの制止を無視して能力を使い荒く波紋を立てて空の海を駆けていく。
 青海のときほどスムーズに駆けれるようになるまでもう少しの慣れが必要ですねと僅かにブーツの底が沈みかける感触を覚えながらルフィの落下地点に辿り着けば、助けに来てくれた久遠に破顔したルフィと目が合った。


クオン!」

「はい、慌てずそのまま落ちてきてください」


 広げた腕の中に落ちてきたルフィがクオンの首に腕を回して抱きついてくる。足は細い腰に回り、胸元に顔をうずめるルフィの尻と背中に手を回して支えたクオンはしかし、能力の加減を誤ったようで片足を空の海に沈めてぐらりと体勢を崩した。


「あ、と、っと」

「うわわわわ!落ちる!!」

「落ちません、落としません。そのまま動かずに」


 先程メリー号から降りたときは無様に海に沈んでしまったが、一度失敗をしていたため要領は分かっている。ぎゅうといっそう強く抱きつくルフィに優しく声をかけ、足首まで沈みかけた足を無理やり引き抜いた勢いでそのまま大きく跳び上がった。
 くるりと1回転した肢体が体勢を整えて再び海面に足をつける。同時にステップを刻むように数度後ろに跳ねて再び大きく跳ぶと、後方2回宙返り、空中でビーチの方に体の正面を向け、ルフィを抱えたまま海面に片手をついて前方3回ひねり、ついでに側方宙返りからのバク転と流れるように完璧な技を決め、雲のビーチに両足を揃えてすとんときれいに着地を決めた。
 ナミ、サンジ、ウソップがそれぞれ10点の得点札を掲げ、コニスとパガヤが大きく拍手をして歓声を上げる。


「すごいです!!あんな大技を海の上で軽々と決めるなんて!!体重を感じさせない動きがとっても綺麗でした!!」

「本当に素晴らしい!!最初はバランスを崩して海に落ちるかと思ったところからの復帰、そして鮮やかな回転技は驚く暇もなく目を奪われましたすみません!!」


 興奮冷めやらぬ様子で目を輝かせる2人の後ろでロビンとチョッパーが惜しみない拍手をしている。ありがとうございますと向けられる称賛を受け取ったクオンが右手を軽く上げればその手に向かって勢いよくウェイバーが戻ってきて、従順な獣を褒めるようにハンドルを軽く叩いた。


「楽しかった~!なぁクオンもう1回やってくれよ!」

「そうですねぇ、そうしてあげたいのは山々ですが、ちょっと後ろの鬼の圧がやばいのでやめておきましょう」


 抱きついたままきらきらとした眼差しで期待いっぱいに見上げてくるルフィの頭を麦わら帽子越しに撫でるクオンの背後では鬼、もといゾロがものすごい形相で腕を組んで佇んでいる。
 白々しく全力で気づかないふりを貫くクオンの肩越しにゾロを見たルフィが「おお、ゾロすっげー顔してる」と少し驚いたように呟いた。やっぱりか。そろそろとさりげなく足を動かして逃げようとするクオンだったが、「おーいルフィ、こっち来い」「おう!」とウソップに呼ばれたルフィがすぐさま離れていきひとり残された。遅れて続こうとしたその白い背に、男の低い声がかかる。


クオン、手ぇ出せ」

「はい」


 さすがに言い訳のしようもないとクオンが素直に右手を差し出せば、目を離した瞬間駆けていく雪色の狗を捕まえておくためにリードを握りしめるがごとくゾロの武骨な手が重なる。指も絡んでがっちり握られ、触れ合った箇所からじんわりと染み入るように伝わってくるゾロの体温に思わず形の良い唇がほころんだ。

 能力を使いはしたが、それはルフィを助けるためのものだったのにと抗議することはできる。けれどゾロと手を繋ぐと何だか心がほわほわして頬が締まりなくゆるみ、浮かんだ不満も文句もすべてきれいに吹き飛んで、ゾロならいいかと甘んじて受け入れられた。クオンが不自然な動きをしていないか挙動のひとつひとつをつぶさに観察する男がこうすることで少しでも安心できるのなら彼の意に沿おう。

 ちなみにハリーはクオンがルフィを助けに行った時点でロビンの肩の上に避難していた。動きを制限されているのに上機嫌な様子の相棒とクオンがバランスを崩して海に落ちかけた瞬間血相を変えて海に飛び込みかけた剣士を交互に見やって肩をすくめる様子は、ロビンの静かな瞳だけが捉えていた。


「それにしても、ウェイバーというものは扱いが難しいのですね」


 ルフィが初心者だからとしても完全にウェイバーに振り回されていた光景を思い出しながらクオンが呟けば、パガヤがはっとして「初心者にアレをお貸ししてすみません!」と謝った。


「ウェイバーの船体は、動力を十分に活かすためとても軽く作られているのです。小さな波にさえ舵を取られてしまうので、波を予測できるくらい海を知っていなければならなくてすみません!!」


 恐縮しきりに眦を下げて説明するパガヤに、成程それはルフィには無理ですねとクオンが返す。確かに、ウェイバーを引き寄せたときは思った以上に軽かった。お陰で能力を然程使わず反動も軽微に済んだことを思い出す。
 ウェイバーの操作が難しいと知っておれも乗ってみたいのにとショックを受けるチョッパーに、コニスが自分も子供の頃から練習して乗れたのが最近なのだと教える。訓練すれば10年ほど、と補足したパガヤに「長ぇよ!!ものすげぇ根気いるぞ!!」とウソップがツッコんだ。


「成程。それならば……」


 麦わらの一味の中では彼女・・しか乗りこなせないでしょう。クオンがそう続けるより早く、海の方から届いた「おーい!!」と軽やかな女の声が耳朶を打った。訝しげに振り向いたウソップが視界に映った仲間の姿に目を剥いて驚愕する。


「サイコー♡」

「乗っとる!!!!」

「流石はナミ、素晴らしい」


 そこには、訓練が10年ほど必要なウェイバーをまったくの初心者であるはずのナミが苦も無く乗りこなしている姿があった。
 クオンに視線が集まっている隙にナミがウェイバーをこそこそと持ち出していたのは知ってて見逃していたクオンは心からの称賛と共に拍手をしようとして、右手がゾロと繋がっていることを思い出した。指を絡めた手を見下ろして、ゾロを見上げて、まぁいいかとゾロの手の甲をぱちぱちと軽く叩く。ゾロはなされるがまま文句ひとつ言わず好きにさせた。

 自在に雲の海をウェイバーで泳ぐナミを見てパガヤが「すごいですね、信じられません…!」と驚嘆し、「んナミさん君がサイコー♡♡」といつものようにサンジが♡を飛ばし、ルフィはあんなに難しかったのに何で乗れるんだ!?と愕然としている。
 確かにコツがいると言いながらも、ナミは実に楽しそうにウェイバーを操っていた。それに嫉妬したのはルフィで、おっさん家に行くから早く降りろだのアホだのやんや文句を飛ばすルフィの頭に呆れた様子でサンジが軽く踵を落とす。まぁ気持ちは分からないでもない、とクオンは被り物の下で苦笑した。そりゃあ、乗れたらあんなに楽しそうなのに、一度乗って自分には無理だと痛感したルフィは悔しいだろう。
 ルフィの悔しさに満ちた子供丸出しの罵倒も何のその、先行ってて!と軽く流したナミはもう少しウェイバーで遊んでもいいかとパガヤに訊き、パガヤは目許をほころばせて「ええどうぞ、気をつけてください」と快く頷いた。


「それでは皆さん、我が家へご案内いたします」


 促され、楽しそうにウェイバーに乗るナミをじっとりと見つめるルフィを置いて一同は先導するパガヤのあとに続いた。ビーチから上へのびる大きな階段をのぼっていく。
 ゾロと並んで歩きながら定位置の右肩に戻ってきたハリーを撫でるクオンはちらとナミを振り向き、ゾロの横顔を見上げると繋いだ手を軽く引いて意識を向けさせた。


「私もあとでチャレンジしてみましょうか。もし海に落ちたら助けてくださいね」

「落ちたらな」


 なにせクオンは海の上を自在に駆けることができるので、ウェイバーから振り落とされたとしても別段問題はない。「いやぁ難しいですね」とほけほけ笑いながらウェイバーを押して海から歩いて戻ってくる様子が容易に想像できたゾロの半眼と短い返事に、助けられるのも一興だがそれをわざとさせるのはどうだろうかと真面目に考えたクオンだった。
 と、ふと脳裏にある考えがよぎる。被り物の下の秀麗な顔を輝かせてくいくいくいくいと小刻みに繋いだ手を揺らした。


「そうだゾロ、お願いがあるのです」

「何だ」

「サルベージするときに、海の中を見たのでしょう?私も見てみたいと思いまして」

「…………溺れないように抱えとけって言いてぇのか」

「ええ!」


 躊躇いなく遠慮もなく期待たっぷりににっこり笑う顔が見えたゾロは頭を抱えた。被り物越しでも判る、この声は断られるとは微塵も思っていない。求めているのは「Yes or はい」のみで、実質ひとつの選択肢が返されることを疑っていない。

 誰がこいつをここまで甘やかしたのか。まぁおれだな。自覚がありすぎる剣士は内心ひとり頷いた。
 そういえば自分達がサルベージしているときも伝声管から聞こえてきた声は興味津々な様子だったことを思い出し、秀麗な顔があどけなくゆるんで嬉しそうにほころぶのならやぶさかではないゾロは、ここで断れば大層なショックを受けしおしおと肩を落とすんだろうなと考えて返事を決めた。つまりは、目の前に用意された唯一の選択肢を選ぶということで。


「空島を下りて、どっかの島に着いてからな」

「……!ええ、ええ、もちろん!約束ですよ、ゾロ!」


 クオンは望み通りの答えを聞いて嬉しそうに笑い、被り物越しでも高く弾んだ声音で念を押す。ああと頷いたゾロは決して約束を違えはしない。目を細めてクオンを見下ろすゾロは面倒そうでも億劫げでもないから、本音は嫌がっているというわけでもない。まあそもそもとして、この男は嫌なら嫌そうな反応を隠しもしないからそれが読み取れない時点で了承も同然だった。

 クオンは海の中を見たことがない。記憶を失くす前は落ちたことが一度や二度はあったのかもしれないが、今のクオンにその記憶はない。
 海の中は、どんな色をしているのだろう。海から見る空はどんな輝きを放っているのか。青い海にたゆたう生きものはどんなものがいるのか。たとえ深く暗い海の底を見たとしても、弛緩した肢体を抱えてくれる男がいるのならば悪いものになるはずがない。

 ゾロに甘やかされている事実をクオンは自覚している。どこまで許してくれるのだろうかと思いながらも、こうやってどこまでも許されるからつい調子に乗ってしまう。けれどこの男は、それでもきっと許してくれるという根拠のない確信があった。
 ふふ、と小さな笑みを被り物の中にとかしたクオンは絡めた指に力をこめ、いつか必ず叶えられる約束に鈍色の瞳を甘くゆるめた。







  top