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 雲でできたビーチに降ろされて礼を言い、定位置の右肩にのぼってきたハリーを撫でる。と、どこからか澄んだハープの優しい音色が耳朶をくすぐり、視線をめぐらせれば背の高い岩場ならぬ雲場に佇む女性を認めて目を瞬く。
 クオンに撫でられて気持ちよさそうに目を細めていたハリーも音の方を見ようとして、視界の端にクオンとゾロのすぐ近くまでやってきた動物が映りそちらに気を取られた。


「スー!!スー!!」


 ハリーよりは大きく、チョッパーよりは小さな、やわらかそうな大きい尻尾が特徴的な狐によく似た生き物に気づいたゾロが何だこりゃと声を上げる。つられてクオンが視線をおろせば、ゾロの足元で止まり、じゃれるようにちょいちょいと手を伸ばす小動物の愛らしさに思わず笑みがこぼれた。


「おや、可愛らしい」


 その、被り物越しにも伝わる優しい声音に、むっとしたハリーが無言でクオンの被り物を高速で回した。







† エンジェル島 2 †






 門で会った老婆同様背中に白い羽を生やした女性は、麦わらの一味を振り向くとやわらかな微笑みと共に「へそ!」と謎の挨拶を口にした。ゆるくふたつのおさげを揺らした彼女がハープを背負って雲から下りて近づいてくる。


「青海からいらしたんですか?スー、こっちへおいで」


 スーというらしい生き物は飼い主に応えてひと鳴きすると駆け寄っていく。ルフィが下から飛んできたことと女性にここに住んでいるのかと問うのを聞きながらクオンはぎゅるぎゅると回る被り物を指で止めた。
 じっとりと空島産の狐を見つめるハリーを左手にのせて右手で撫で回す。手の中で悶えるハリーの機嫌を取りつつルフィの問いに頷いた彼女を観察するクオンの静かな眼差しは、被り物に隠されて誰の目にも映らない。

 ここがスカイピアのエンジェルビーチだと教えてくれた彼女は、ルフィが両脇に抱える木の実に気づくと笑みをこぼし、飲みたいんですか?と優しく訊いた。
 ルフィからひとつの木の実を受け取った彼女曰く、コナッシュは上の皮が鉄のように硬く、噛んでもダメとのこと。取り出した果物ナイフを木の実の裏に刺せばさくりと刃が沈み、そのまま小さな円を描く。そこにストローを差して「はいどうぞ」とルフィに返した。


「私はコニス。何かお困りでしたら力にならせてください」


 雲ギツネのスーを抱き上げて撫でるコニスはそう言って微笑んだ。
 早速ストローに口をつけて吸い上げたルフィがコナッシュのジューシーさに歓声を上げ、ウソップが続いて飲みたがり、チョッパーが自分が持つ分もあけてくれとねだる。
 サンジが美女のコニスにポエム混じりに口説こうとするのをナミが「邪魔」のひと言で頬をつねって引き剥がし、コニスに知りたいことがたくさんあるのよと切り出す。それに、コニスは朗らかに何でも聞いてくださいと返した。


「……」


 クオンは被り物の下で鈍色の双眸を細めた。珍しいはずの青海人に対して警戒する様子ひとつなく、とても親切な、手放しで歓迎しているようにも見える、手練れには思えない隙だらけの住人。


(とっても既視感がありますねぇ)


 そういう町に、クオンは身を置いていた。ゆえに心から彼女を信用できるかと問われれば首を振るが、まぁ暫くは様子見でいいだろう。
 コニスの瞳は澄んでいる。何か企みがあるようには見えず、今はそれを信じることにした。来訪者で生計を立てている町も珍しくないのだから、空島もそうである可能性は十分にある。杞憂で終わればそれでいい。
 形の良い唇が笑みを描くと同時、警戒の糸がゆるんだことに気づいたのは、肩に乗るハリーと隣に佇むゾロのふたりだけ。


「……ん?」


 ザザザ、とふいに波が立てる微かな音が聞こえ、クオンとゾロは同時に音がした方を向いた。空の海の向こうから、何かが近づいてくる。
 ゾロが「おい、海から何か来るぞ」と仲間に知らせ、海を見やったコニスは「あ、父です」と近づいてくるものの正体を口にした。


「コニスさんへそ!!」

「ええ、へそ父上!!」

「イヤ何言ってんだおめぇら!」

「やはり『へそ』は空島特有の挨拶なのでしょうか」


 父子の会話にツッコミを入れるルフィと真面目に考えるクオンをよそに、コニスの父親はこちらへ一直線に海の上を走ってくる。波間から見えるのは、小型の船のような、スキーのような一人用の乗り物─── その形状にも見覚えのあるクオンが口を開くよりも先に、コニスが“ウェイバー”と乗り物の名を告げた。やはりそうか。


「はいすみません、止まりますよ」


 そう声をかけて男がビーチにウェイバーで乗り上げる。パスン、と軽く空気が弾けるような音を立ててウェイバーは、――― 止まらなかった。


「あ」


 操作を誤ったか、つるんと小さな船体が滑り、ハンドルから手を離すこともできずにコントロールを失いウェイバーごとビーチを縦断していく男を見てクオンは咄嗟に左手を翳した。


待てステイ


 短い言葉に従い、あわや木にぶつかりそうになった男とウェイバーが空中で止まる。即座に能力を解けば「え!?」と驚きの声を上げた男がぼふりと雲のビーチに倒れ、ウェイバーはその場にこてんと倒れた。


「なんと…今のは…?」

「大丈夫ですか、お怪我は?」

「あ、怪我はありませんすみません」


 何が起こったのか分からない様子の男に駆け寄り、白手袋に覆われた手を差し出す。男は忙しなく目をしばたたかせてクオンを見上げた。上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物を被った人物の声は低くくぐもり抑揚を欠いて感情を窺わせないが、言葉通りこちらを案じているのは何となく読み取れた。


「今のは…あなたが?」


 クオンの手を取り不思議そうに首を傾ける男へ、クオンはええと隠すことなく頷く。それはそれはありがとうございますすみませんと恐縮しきりな男の口癖を何となく察しながらも口にはせず立ち上がらせてお気になさらずと被り物の下で微笑んだ。
 横に倒れたウェイバーを立たせる男の目は笑みに細まり、黒いひげに覆われた口元は見えないが柔和な雰囲気はどこかコニスに似ている。口調も丁寧で、コニスの父というのも納得だ。


「お友達ですか、コニスさん」

「ええ。今知り合ったんです父上。青海からいらしたそうで」

「そうですか、それは色々戸惑うことばかりでしょう。ここは白々海ですみません」


 ルフィ達を見回した男は己の名をパガヤと名乗り、コニス同様警戒した様子もなく親切心もあらわに背中に背負ったカゴからロブスターによく似た生き物を出して見せた。


「そうだ、ちょうどいい。今漁に出ていたのですが、白々海きっての美味中の美味!スカイロブスターなど獲れましてね。ウチにいらっしゃいませんか。“空の幸”をご馳走しましょう」


 特に私を助けてくださったあなたに食べていただきたい、とにっこり笑いかけてくるパガヤに、クオンは微かに首を傾けて曖昧に返した。そして、どう見ても本心しか述べていないパガヤのあまりの裏のなさに毒気が抜かれるとはこのことかと苦笑する。もっとも、そう口にすれば「お前が言うな」と仲間から総ツッコミされただろうが。

 食事をご馳走すると聞けば喜色もあらわにルフィが行く行く!!と一も二もなく声を上げ、未知なる空島料理となれば料理人として興味津々に目を輝かせたサンジも笑顔で手伝いを申し出た。


「その前に聞いていい?これ・・、どんな仕組みなの?」


 早速家まで案内をしようとしたパガヤにウェイバーを矯めつ眇めつしていたナミが声をかける。
 海を自在に泳いでいた乗り物にはハンドルはあっても風を受ける帆はなく、かといって自転車のように漕いで動力を確保しているわけでもない。足元には何かスイッチのようなものが2つ備わっていて、おそらくこのどちらかを踏めば進むのだろうが、だとしてもやはり動かすための動力は何なのだろうか。
 ナミの傍らでクオンも疑問に思っていれば、ぱちりとひとつ瞬いたコニスが口を開いた。


「まあ、“ダイアル”をご存じないのですか?」

「「ダイアル???」」


 その聞き慣れない単語に、ナミとクオンは揃って首を傾げた。







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