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エビに放り投げられるようにして宙を泳いだメリー号が空の海に着水し、浜に十分に近づいた途端、真っ先に飛び出して行ったのは当然のようにルフィだった。それにウソップとチョッパーが続くのを見て、青海と同じように浅瀬があるらしいと悟る。
「あれが空島…!では私も」
「お前は待て」
ルフィ達と同様飛び出していきかけた
クオンは、がっちり掴んだ手を引っ張られてゾロに引き止められた。うっと小さく呻いてたたらを踏む。何をするのだと言わんばかりに勢いよく振り向けば、「船を泊めるから待ってろ」と言われて手が離れた。
確かに空の海といえど青海同様多少の波はあるからゾロの言う通りまずは錨を下ろして帆もたたむべきだ。未知の光景を前に興奮してすっかり失念していた。
「では、私は帆をたたみますね」
慣れた体温が離れた右手を無意識に握りしめ、錨のある方へと向かうゾロに背を向けて
クオンも動き出した。
† エンジェル島 1 †
白い雲でできた島。目立つのはたった今のぼってきたものと同様の帯状の雲で、島の端にそれぞれ架けられているということはあれを辿れば別の島に着くのかもしれない。
浜は砂ではなく雲でできている。背の高い緑はあちこちに生えているが土の色は見えず、何とも不思議な光景だ。雲の合間から見える場所には建物が並び、東屋にはふたつの大きな白いイスが据えられている。明らかに人のいる気配がそこかしこにした。
帆をたたみ、空島に上がってきた影響でちぎれたロープはあとで補修しようと決めた
クオンは、ふと辺りを見渡しナミとロビンがいないことに気づいた。気配を探れば女部屋にいるようで、おそらく着替えているのだろう。
地面がフカフカ雲だ!!と騒ぐルフィ達をちょっと羨ましそうに見つめる
クオンの耳に、「ジョ~~~!!!」という奇妙な鳴き声が届く。
「おっと、あなたの存在を忘れていました」
「ジョジョ!ジョ!ジョアァ~~~!!!」
鎖で甲板に縛られたサウスバードが眦を吊り上げて何やら怒鳴る。いい加減放せとでも言いたいのだろう。大変に元気があってよろしい。
クオンはサウスバードの足につけられた枷を外した。
「ジョッ!」
瞬間、よくもこんな目に遭わせてくれたなとサウスバードの太い嘴が向けられ、
クオンは慌てることなく片手で嘴の先端を掴んで止めた。思ったほど勢いのない嘴は当たったとしても大して痛くはなかっただろうが、わざわざ受けてやる義理もない。
「人は住んでいるようですし、植物が生えているなら食べ物にも然程困ることはないでしょう。ここまでお付き合いくださりありがとうございました」
丁寧に礼を言いながらも嘴のつつく攻撃を容易く流して阻む
クオンを悔しそうに見上げるサウスバードだったが、ふいに船室から出てきたナミに気づいて腹いせの標的を変え襲いかかるために翼を広げ、にやりと笑った瞬間─── 鳥の細い首を白手袋に覆われた手がわし掴んだ。
細い指に力がこもり、みぢりと首の骨が軋む音を聞いたサウスバードがざっと血の気を引かせて青褪める。
「あなたには本当に感謝しているのですよ。ですから、ねぇ。……私が優しいうちにここを離れることをお勧めいたします」
被り物越しに発された穏やかなはずの声音は感情が削がれ抑揚を欠いて冷たくサウスバードの耳朶を叩く。羽毛を貫いて地肌を刺すような圧は、選択を間違えれば実体をもって己を貫くだろうという確信を抱かせた。
言外に仲間に手を出すなと脅され獣の序列を叩き込まれ、手が離れて自由になったはずの嘴を開いたままガタガタと震えはじめた鳥を見下ろしていた
クオンは無言で鳥の首から手を離した。
「ジョッ……!ジョァジョ~~~!!!」
脱兎のごとくという諺を体現するかのようにサウスバードが脇目も振らずに逃げ出す。それを同情の眼差しで見送るハリーを肩に乗せた
クオンはサウスバードから興味を失くした様子で辺りを見回して首を傾げた。
「おや?ゾロ、サンジはどちらに?」
「間抜け面さらしてはしゃぎながら飛び込んでいった」
3回転ジャンプでなと呆れも隠さず錨を下ろしたゾロが言い、それはぜひとも見たかったですねぇと既に雲の浜辺に辿り着いてルフィ達と楽しそうに騒いでいるサンジを眺める。
「
クオン、錨は?」
「ゾロが刺してくれましたよ」
「例の…フカフカの雲がこの島の基盤らしい」
水着に着替えて前方甲板に上がってきたナミに2人が答える。
ナミ同様着替えを済ませたロビンが船室から出てきてナミを見上げ「ねぇ、スカイピアって…」と問えば、察したナミは笑みを浮かべて「ええ…ルフィの見つけた地図にあった名前よ!」と古びた地図を掲げた。
「あのときは正直、こんな空の世界想像もつかなかったけど……」
言って、ナミは甲板から空の海へと飛び降りた。ざぶっと水しぶきが上がり、こらえきれない笑みをこぼすと「体感しちゃったもの!疑いようがないわ!!」と楽しそうに弾んだ声で言うやすぐにルフィ達のもとへと走っていく。
じっとそれを見ていた
クオンが、ぐるりと首を回して手すりに腰かけるゾロを振り返ったかと思えば唐突に腕を掴んで引っ張った。
「ゾロ!私達も早く行きましょう、私も行きたいです!みんなと一緒に遊んでみたい!!」
「待て待て分かったから待てブーツくらい脱がせろ!!」
「私が運んで行きますから!!」
「またあんときみてぇに抱えられてたまるか!!!」
「ふふ、仲が良いのね2人とも」
そろそろ強行突破も辞さない構えの
クオンと、男の矜持その他諸々ゆえに抱っこだけは断固拒否の固い意志でもって何とか宥めてブーツに手をかけるゾロにロビンが微笑ましそうに声をかける。途端穏やかとは言えない眼差しが剣士から飛んできたが、青海で向けられたものより幾分か険が拭われているのは、先程ウソップを助けるために協力を惜しまなかったからだろう。
浜辺ではしゃぐ若者達を眩しそうに見つめ、吹く風に艶やかな黒髪を遊ばせてロビンは口を開く。
「航海や上陸が……冒険だなんて、考えたことなかった」
それは2人に語りかけるようでいて、こぼれた心の欠片で紡がれたひとり言だった。
訝しげに眉を上げたゾロと鈍色の瞳を瞬かせる
クオンを置いて彼女もまた船を降りていく。その真っ直ぐ伸びた背中がどこか楽しそうな色を浮かべているのが分かって、
クオンはやわらかく目を細めると静かな笑みを刷いた。
「行くぞ
クオン」
ブーツを脱いだゾロに言われ、待ってましたと目を輝かせた
クオンがゾロの両腕を掴む。そのまま共に倒れ込むように手すりを越えて海面へと身を投げればゾロがぎょっと目を剥き、その驚いた顔に笑声をこぼした
クオンは慌てて空中で抱き寄せようとするゾロに大丈夫ですよと安心させるために囁いた。
「能力を使えば空の海といえど私にとっては地面と同じ───
ぉあっ?」
ざぶーん
クオンが立てたフラグは最速記録で回収された。もはやお約束である。
クオンは確かに悪魔の実の能力を発動はしたが、青海と空の海は勝手が違ったようでいつもの能力加減では海面に立つことはかなわず、まずは足を沈め、たたらを踏むこともできずにバランスを崩して背中からゾロ諸共海に沈んだ。
ひとりちゃっかり
クオンの肩から飛び降りて難を逃れたハリーがぷかぷかと浮きながら白と黒の脚が仲良く空の海に呑み込まれていくのを見送る。
「
クオン、てめぇな……」
「あっはっはっはっはっはっは」
浅瀬なのが幸いし、全身ずぶ濡れではあるが2人とも溺れることはなく。海に全身がつかって脱力した
クオンの腕を掴んで支え、覆い被さるような体勢でゾロはこめかみに青筋を立てて低く唸った。それに
クオンは被り物越しにも伝わるはしゃいだ笑いを返して意に介さず、細い肩を震わせ楽しそうに笑うだけだ。
「いいじゃないですか、ゾロだって実ははしゃいでいるのでしょう?」
そうでなければこうも簡単に振り回されてはいまい。
どれだけ平静を保とうとしても心は浮き立って当然だ、見るもの聞くものすべてが自分の知識外の存在で、それに動じるなというのは不可能だと断言していい。たとえどれだけ年齢を重ね経験を積んだとしても、未知なる冒険には心が躍るものだろう。
「……そうだな」
静かな声音で同意したゾロが雲でできたやわらかい海底に座り込む
クオンの膝裏に腕を伸ばして左腕で抱え上げる。
クオンは慌てずゾロの首に腕を回して落ちないようしがみついた。
「否定はしねぇ」
言って、口の端を吊り上げたゾロが
クオンを抱えたまま歩を進める。どうやら仲間のもとまで運んでくれるらしい。
クオンは遠慮なく甘えることにした。
海底の雲を踏みしめ、本当に雲か?これが、と分かっていても心底訝しげなゾロの体をハリーが駆けのぼる。腰辺りから
クオンの膝に移って、濡れた膝の感触に眉を寄せて不満げに鳴けば、言いたいことを察した
クオンは苦笑すると左手を軽く掲げた。パチン、と指を鳴らして軽い音を響かせる。
「─── あ?」
空の海に落ちて全身を濡らした2人の体が瞬時に乾く。否、器用にも水分だけが自分達の体から引き離されたのだと気づいたゾロが
クオンを見やれば、
クオンは自分が使った能力の結果に満足そうに頷いていた。
「多少の湿り気は残りますが、この程度ならすぐに乾くでしょう。ああ、起点がゾロ含めた私なので反動はさしたるものではありませんよ」
ゾロが気にした懸念を先んじて潰す
クオンは、続けてそっと、三連ピアスが揺れる耳に「約束したでしょう」と囁く。だからその言葉に嘘はないと判じたゾロは小さなため息をついて開きかけた口を閉ざした。
安定感抜群の腕におさまりながら、まどろむように目を細めた
クオンは頭を男の肩にすりつけた。しかし秀麗な顔を覆い隠す被り物が直接伝わってくるはずの体温を阻み、小さな不満が湧く。
賑やかにはしゃぐ仲間のいる浜辺はもう目の前だ。早く彼らと合流して輪に入りたかったはずなのに、抱えられ密着した部分から伝わる男の自分より高い体温が間を置かず離れると思えば何だか名残惜しいような気もして、すっかり癖になっている自分を自覚した。
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