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 老騎士ことガン・フォールが己の相棒と共に去り、空の海には静寂が戻った。振り出しに戻ったとも言う。
 何はともあれ、ここでじっとしているわけにもいくまい。“記録指針ログポース”の指針はまだ上を指しているのだから、とにかくさらに上へ行く道を探さねば。
 くるりと辺りを見渡し、一面の真っ白い雲を眺めたクオンは被り物の顎に指を当てて数秒悩み、


「よ」

「行かせるか」


 し、と言い切る前に船べりに跳び乗ろうとした白い肢体の襟首を剣士の武骨な手が掴んで引きとめた。首が締まってうぎゅっと呻いたクオンの首に腕を回して引き寄せ、後ろでルフィを中心に何やら騒いでいるルフィ、ナミ、ウソップの3人を半眼で振り返る。


「おい、クオンが勝手に飛び出していく前にどこかへ船を進めるぞ」


 海を駆けるすべを持つクオンだ。たとえ空の海であろうと質量がある以上駆けることはできる。というわけでひとっ走りしてこようとしたのだが、しっかり見通されきっちり止められがっしり首に回った腕に拘束されては大人しくするしかない。
 過保護ですねぇと思いながらも無理やり拘束を解いてまで飛び出していくつもりのないクオンは、本当にどうにもならなくなるまでは望み通り大人しくしておこうと決めてゾロに凭れた。







† 白海 4 †






「はいクオン、復唱して。『私は仲間の許しがあるまでは決して単独行動を致しません』」

「『ワタシハナカマノユルシガアルマデハケッシテタンドクコウドウヲイタシマセン』」

「いい、ゾロ。少なくとも人のいる島に着くまではしっかり捕まえときなさい」

「言われなくとも」

「おやおやおやおや」


 しかつめらしく顔を見合わせるナミとゾロの間でクオンが声を上げるが、2人は当然のように黙殺した。そこまで信用がないのですか、悲しいですねぇとしくしく泣き真似をするがやっぱり無視された。別の意味で絶対の信用を積み重ねてきた自業自得である。肩に乗ったハリーにも半眼で見られ、色々と心当たりがありすぎるクオンはそれ以上何も言えないままナミが船首の方へと向かっていくのを見送る。

 まぁ、次の目的地はチョッパーが流れた雲の合間から見つけた滝のような雲と決まって船も進めているし、先程の戦士が現れるような緊急事態に陥るまではのんびりしておこう。首に回った腕は離れたが、その代わりに絶対離さないという固い意志に満ちた手にがっちり握られた己の右手を何となしに軽く揺らす。
 すっかり慣れた男の体温と手の感触が伝わる。男の手の平の方が自分よりも大きいからすっぽりと覆われて包まれているが、それでは何となく物足りないような気がして右手をまごつかせれば、もごもごと微かに手を動かすクオンをゾロが胡乱げに見下ろした。


「……何してんだ」

「うーん。ゾロ、少しだけ力を抜いていただけます?」


 被り物越しに伝わる声はくぐもって抑揚を削ぎ感情を窺わせない。だが自由を求めているわけではないと何となく悟ったゾロが手の力をゆるめ、それでも離れはしないことに文句のひとつもなく、クオンは白手袋に覆われた指を伸ばしてにゅっと男の指の間から出した。剣士の手の甲を細い指が撫で、猫を模した被り物が満足げに頷く。嬉しそうに秀麗な顔がほころぶのはゾロの目に映らなかったが、容易に想像ができるほどクオンのまとう空気がやわくゆるんだ。


「♪ ♪♬ ♪♩♪ ♫♪」


 ほわほわと花を散らすクオンが上機嫌に鼻歌をうたう。調子外れで音程があべこべの旋律は被り物を通ってくぐもり、ともすれば仲間達が交わす会話に紛れて聞こえないほど小さな名もなき曲がクオンの感情を紡ぐのを、ゾロは静かに聴いていた。

 やがて、滝のような雲を目指すメリー号の眼前に大きな雲が立ちはだかり、クオンは被り物の下でぱちくりと目を瞬かせて鼻歌を終える。


(あれは……?)


 空の海に浮かんでいるのだから雲は雲なのだろうが、クオンの感覚は“否”と言っていた。あれには固体としての質量がある。普通の雲とは違う、確かなものが。
 その感覚が間違っていないと示すように、ぐるぐる腕を回して「触ったら分かるだろ」と言ったルフィが勢いよく腕を伸ばし、だがその腕はパフン、と軽い音を立てて弾かれた。途端、己の腕が弾かれたことに驚いていたルフィの目が輝き、止める間もなく飛び出して目の前の雲に飛び乗る。


「見ろ!!乗れた!!沈まねえぞ!ふかふかする!綿みたいだ!!」


 何だこりゃ何だこりゃ、楽しすぎだ~と驚きつつ心底楽しそうに笑い声を上げてトランポリンのように跳ねて沈んで跳ねてを繰り返すルフィに、ウソップとチョッパー、そしてクオンの瞳もまたきらきらと輝いた。


「ゾロ!ゾロ!!雲が!!跳ねて!ふかふか!!!」

「落ち着け」


 がっちり指を絡めて繋がれた手を強く握って引き、逆の手でルフィを指差すクオンの語彙力が瞬間的に底辺まで落ちる。いつもの賢しげな様子など皆無な、まさしく幼い子供のような反応だ。ウソップとチョッパーが飛び出していくのを見て自分も続きたいとばかりに駆け出そうとしてゾロに引き止められるさまは、テンション爆上がりして飛び出そうとしている犬とリードを引っ張って留めている飼い主を彷彿とさせる。
 全身から行きたいオーラ全開でゾロを見上げるクオンの肩の上で、相棒が行きたいと言っているのだから行かせてやれとハリーが鳴く。被り物をしているから見えないはずなのに、秀麗な顔をあどけなくきらきらと輝かせているのが透けて見えたクオンにゾロは小さくため息をついて許した。


「ちゃんとあとで戻ってこい、いいな」

「もちろん!やった!!ゾロ愛してますよ!!!」


 手が離れた瞬間、残像ひとつ残さずその場から掻き消えたクオンはルフィ達が跳ねる雲の上に姿を現し、そのままぽふんと雲の上に落ちた。全身を包み込むようなふかふかとした感触とほどよい弾力、太陽が近いせいか干したての布団のようにあたたかく、大変に気持ちがいい。このまま眠れたら最高だろう。


「成程……これは……いい…………」


 しみじみと噛み締めるようにして呟き、同じようにふかふかな雲に下りたハリーも驚きをにじんだ声で鳴いた。


クオン!ハリー!すっげ~~~な~~~これ!!!」

「おもしれ~~~!!」

「寝そべると気持ち良いな!!」


 跳ねるルフィ、ウソップ、チョッパーの言葉に大きく頷き、雲の上に座り込んで足の下にある雲を軽く叩く。ふかふかとした雲は僅かに沈み、手を離せばすぐに元の形状を取り戻した。
 クリケットに聞いた話を思い出す。空島がある積帝雲は高く積み上げられ気流を生まず、雲の化石とも言われる。成程、確かに固体となっているこの雲は“化石”と称してもいいのかもしれない。
 しかしそうなると、この雲が浮かんでいる場所を船が通ることは難しいだろう。拳ではやわらかくて砕けなかった。だが、もしかしたら刀でなら斬れるのかもしれない。試してみるのもありだが、ざっと見る限り大きな雲はあちこちにあって、そのすべてを斬るのは骨が折れそうだ。それに、無理やり突破してこの景観を損ねるのはもったいない。最終手段として考えておこう。
 ふかふかな雲の上、ぽんぽん跳ねながら都度体勢を変えて楽しみつつ真面目に考えるクオンは、もう一度高く跳ぶと伸ばした足から雲の上に着地して足元の雲を踏みしめ、湧き上がるままの笑みで形の良い唇を彩った。


「ねぇ、クオン!上から船の通れるルートを探して!」

「分かりました」


 船の上からナミの指示が飛び、即座に答えたクオンは、


「おい!!ルフィ!あっちに何かあるぜ」

「何だ何だ」

「あっ、待ってください2人とも!チョッパー、行きましょう」

「コラー!!!」


 あっさりウソップの言葉につられて背を向けナミに怒られた。当然である。
 まるでドッグランに解き放たれた犬のようにテンション高く気の向くまま行動するクオンに頭を抱えるナミだが、ああも楽しそうにされては仕方がないとつい許してしまう。クオン!!と呼べばはっとしたように振り返り進んだ分だけ戻ってくるせいでもあった。
 ついうっかり、とうなじに手をやるのは一見飄々としているように見えるが、あれはたぶん自分のテンションの高さが少し恥ずかしくなったのだろう。はにかむクオンの顔が見えた気がしたナミは、そんな可愛い顔しても許されると思ったらその通りよ!!!もう!!!と内心で唸った。たぶんそろそろ声に出る。

 気を取り直し、遊んでんじゃないわよという航海士の一声でルフィ、ウソップ、チョッパーが船に戻り、案内を任されたクオンは雲の上を歩きながらメリー号を先導した。
 船のスピードはゆっくりなので雲にぶつかっても大したダメージにはならないが、ぶつかってからの復帰が面倒だ。細かく指示を出して慎重に船を進めさせ、メリー号で交わされるナミとルフィの会話を聞いた。


「門?」

「ああ!あの滝みたいなやつの下に、でっけぇ門があった」


 メリー号と並走し、雲と雲の隙間をひょいと跳び越えたクオンにもその“門”は見えていた。まだ遠目だが、何やら大きな看板が掲げられているのも見える。口で説明するよりも見た方が早いだろうと、ここ抜けたら分かるさと言うルフィにクオンも同意しておいた。


「次は左ですよ」

「いや右だったろ」

「左ね」


 クオンの逆の方向を指示するウソップを切り捨てナミが言われた通りの方向に顔を向ける。船はゆっくりと確実に先へと進み、あとは真っ直ぐ行けばいいところまで来てクオンはふかふかの雲からメリー号へと飛び降りた。
 腕を組んで佇んでいたゾロのもとに寄って右手を差し出せば、微かに目を細めたゾロがその手を取って指を絡める。自分の意思でリード、もといゾロに繋がれに戻ってきた雪色の狗は誰がどう見ても上機嫌な様子でにぎにぎと絡めた指で剣士の手を握りしめた。秀麗な顔を覆い隠す愛嬌があるようで間の抜けた被り物を見下ろし、ゾロが短く問う。


「楽しかったか」

「ええ、とっても!」


 弾む声で返したクオンにそりゃよかったなと返したゾロの僅かに上がった口角を見たハリーの、ふふんはりはりきゅっきゅぃはりぃと内心に落とした呟きは誰に拾われることもなく沈んでいく。今相棒が良ければそれでいいと態度で示し、ハリーは己を甘やかしてくすぐる指に遠慮なく頭をすりつけた。





 ※特別意訳:ハリー「順調に囲い込んでるなぁこいつ」






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