183





 バチン、と目の奥が弾けて、クオンは己の思惟を取り戻した。倒れ込みそうになっていた体勢を慌てて立て直す。
 眼前には転がる3人の男達。船から高く跳び上がり、こちらにバズーカの先を向ける。躊躇いなく引き金に指がかかるのを認めたクオンが鈍色の瞳で戦士を見据え、脚に力をこめて一瞬で間合いを詰めようとした、そのとき。


「そこまでだァ!!!」


 空の彼方から大きな鳥に乗ってものすごいスピードで迫った闖入者が、その勢いを殺すことなく槍の先を戦士に突き込んだ。しかし戦士はその不意打ちの攻撃を盾で防ぎ、そのまま空の海へと落下する。
 すぐさま上がって追撃を仕掛けてくるかと思ったが、分が悪いと思ったのかそれとも相手をする気がなくなったのか、こちらに向けられていた敵意が離れていく気配を正確に追ったクオンは被り物の中に小さなため息をとかした。







† 白海 3 †






 突然現れ窮地を救ってくれたのは、“空の騎士”と名乗る老人だった。長く白いひげをたくわえた顔はお世辞にもふくよかとは言えず、痩身を甲冑に包んでいる。携えた槍は円錐型で、刺突に特化したそれはランスと言った方が分かりやすいだろう。

 突然襲いかかってきた戦士が去り、老人が警戒を解く。すると即座にナミが3人がかりでやられちゃうなんてと船長含む戦闘員3人に厳しい言葉を浴びせ、次いではっとクオンを仰ぎ見た。


クオン、あんたさっき突然座り込んじゃったでしょ。いったいどうしたのよ。あいつが何かしたの?」

「大丈夫ですよ、ナミ。少し……“声”に意識を奪われてしまったようで」

「“声”?」


 訝しげに復唱するナミに何と説明をすればいいのか少し悩む。そういえば“耳”がいいことはゾロ以外に話していなかったことに今更気づいて、しかし隠すほどでもないが気づいたら身についていた力なので詳しい説明は難しく、手短に済ませることにした。


「お喋りな方の“声”は、よく耳に入るものでしょう?」


 説明になっているようでなっていないそれに、ナミがますます訝しげに首を傾げる。明らかに様子がおかしかったから問い詰めたいが、当のクオンにそれ以上語る気がないと察して眉間のしわを深めた。


「……害は、ないのよね?」


 重要なことだけを尋ねるナミにクオンはええと頷く。先程のように突然意識に割り込まれると困るが、二度とあんなふうにはならないだろうという確信があった。大丈夫だ、思い出せてはいないが、覚えた。理屈ではなく感覚がそう言っている。


「ところで空の騎士殿。危ないところをお助けいただき、ありがとうございました」

「助けてくれてありがとう」

「うむ、よい。やむを得ん。これはサービスだ」


 ナミから意識を外して老人に礼を述べれば、チョッパーもクオンに続いて素直に頭を下げる。それに老人は鷹揚に頷いた。

 戦闘に長けているはずなのに襲いかかってきた戦士ひとりになすすべなく転がされた3人の顔は当然だが明るくない。いやまったく不甲斐ないとサンジがため息をつき、ルフィは寝転んだまま体がうまく動かないとこぼして、努めてゆっくりと呼吸を繰り返すゾロを見下ろしたクオンはああと納得の声を上げた。


「それも当然でしょう。ここは遥か空の上、空気が薄いせいです。私も先程から不調を感じてはいました。慣れるまで待つしかありません」


 事実クオンは意識して呼吸を整えていたから、ここに来てすぐと比べてはだいぶましだ。あの戦士と戦闘になっても負けはしなかっただろう。


「おぬしら青海人か?」

「何それ?…そうだ、あなたは誰?」


 おもむろに老人が口を開き、ナミが聞き慣れない言葉に首を傾げて問い返す。老人は気を悪くしたふうもなく答えた。


「我輩、“空の騎士”である。青海人とは雲下に住む者の総称だ。――― つまり、青い海からのぼってきたのか」


 老人の問いに、ルフィがうんそうだと素直に頷く。ならば仕方あるまい、と返した老人は続けてつらつらと語る。
 ここは雲の下に広がる青い海、“青海”から7000m上空の“白海”。さらにこの上層にある“白々海”に至っては1万mにも及ぶ。通常の青海人では体がもつまい、と当然の事実を口にするが、通常の青海人じゃあないんですよねぇとクオンが内心で呟いた通り、上体を起こしたルフィは「おっし!!段々慣れてきた」とのたまい、長く息を吐いて呼吸を整えるゾロは「そうだな、さっきよりだいぶ楽になった」と同意して、イヤイヤイヤイヤと老人がありえないと言わんばかりに驚愕混じりにツッコミを入れる。


「ご安心を空の騎士殿。彼らが大丈夫だと言うのなら大丈夫ですので」


 被り物越しの低くくぐもった声は抑揚を欠いて感情を窺わせない。それでもあっさりきっぱり断言する響きは伝わったようで、老人は返す言葉をなくしたようだった。

 さて、この空の上に住み青海人についても多少は知っているらしい老人には訊きたいことがたくさんある。
 まずは何を訊くべきか。やはり近くの空島への行き方を優先したいところだが、質問攻めの気配を察した老人は前方甲板の手すりに腰掛けて中央甲板に集まる麦わらの一味を見下ろし、質問は山ほどあるだろうが、まずはビジネスの話をしようじゃないかと切り出した。

 曰く、老人はフリーの傭兵であり、ここは危険の多い海。空の戦いを知らない者ならば先程のようなゲリラに狙われ空魚のエサになるのがオチだ、と。
 確かに、あの戦士はすぐに撤退してくれたが再び現れないとも限らないし、別の戦士が襲いかかってきたとしても何も不思議はない。さらにはあの巨大なタコや平べったいヘビのような奇妙な生き物も蠢く海だ。もっと言えば運良く人のいる島に辿り着いたとしても当然文化や常識が違うだろうし、そのせいで現地民と軋轢を生むのは避けたい。空島に関する知識がほとんどない麦わらの一味は圧倒的に不利な状況と言えた。
 そこで、老人は提案を口にする。


「1ホイッスル500万エクストルで、助けてやろう」


 厳かな老人の交渉に、しかし麦わらの一味の反応は鈍かった。誰もが沈黙する中で、唯一何となく察したクオンは被り物の下で眉を下げる。そうだった、文化が違えば通貨が違うのも当然である。


「失礼、ご老人。無知で申し訳ありませんが、エクストルというのは空島の通貨で間違いありませんか?」


 丁寧に手を挙げて質問するクオンに、老人の顔が何を言っているのかと訝しげなものになる。それと同じ表情をクオン以外の仲間もして、互いの怪訝と困惑に割って入ったのはやはりクオンだった。


「私達は“突き上げる海流ノックアップストリーム”に乗ってここまでのぼってきました。なので何も分からないのです。……察するに、他にも空の海へ来る方法があったようですが」


 青海人との空島の通貨を用いての交渉は、この場にいる青海人が多少空島について知っていることを前提としていなければ成立しない。つまりはここに来るまでに知っていて当然の知識であり、それを得られるルート─── 空島へ至る別の方法が他にあると考えられた。むしろそちらが正規ルートなのかもしれない。あんな生か死か、一発限りのギャンブル的な方法が正規ルートであってたまるかというのがクオンの正直な感想である。
 クオンの言葉に老人は目を見開き、「おぬしら……」と呆然と呟く。


「ハイウエストの頂からではなく、あのバケモノ・・・・海流・・に乗ってここへ!!? ……まだそんな度胸の持ち主がおったか…」


 感嘆と驚愕を隠さない老人が身を乗り出す。過去にも“突き上げる海流”を利用して空島へやって来る者がいたのだろうが、「まだ」と言うからにはもう長い間使われることのなかった方法だったのだろう。さて、自分達より前にこの方法で空島へ来た者達はいったいどんな者達なのか、少しだけ気になったがそれは今問うほど優先すべき疑問ではない。
 普通のルートではなかったことにナミが泣き、「着いたからいいじゃねぇか」と言ったルフィの胸倉を掴んで「死ぬ思いだったじゃないのよ!」と揺さぶる。じっくり情報を集めてればもっと安全に、と言葉を重ねようとしたナミの言葉を遮るように老人が言葉を差し込む。


「1人でも船員クルーを欠いたか?」

「いや、全員で来た」


 答えたルフィを見やり、老人は「他のルートではそうはいかん」と言う。100人で空を目指し、何人かが到達する、誰かが生き残る、そういう賭けだと。


「─── だが、“突き上げる海流ノックアップストリーム”は全員・・死ぬ・・全員・・到達・・するか、それだけだ」


 老人は記憶を掘り返すように、どこか遠くを見つめながら続ける。


「0か100の賭けができる者達はそうはおらん。近年では特にな。度胸と実力を備える、なかなかの航海者達と見受けた」


 一同を見回す老人の眼差しと言葉には心からの感心や称賛といったものがこめられていて、それを聞くや瞬時に復活したウソップが得意げな顔でつらつらとほらを並べてナミに頬をつねられたのはいつものこととして流す。


「1ホイッスルとは、一度この笛を吹き鳴らすこと」


 言い、老人は甲板にひとつの笛を落とした。紐が結わえられたそれがカランと小さく高い音を立てる。


「さすれば我輩、天よりおぬしらを助けに参上する!本来はそれで空の通貨、500万エクストルちょうだいするが、1ホイッスルおぬしらにプレゼントしよう」


 成程、つまりは先程のように危険な状態に陥った際には駆けつけてくれるということだ。あの戦士を追い払ってくれたのをサービスにしてくれた上、もう一度無償で助けてくれるとは、先行投資だとしても随分太っ腹なことだ。500万エクストルがベリー換算でどれほどなのかは分からないが。そう考えたクオンがベリーでの支払いが可能なのか問うよりも早く、老人が静かに立ち上がって背を向ける。


「その笛でいつでも我輩を呼ぶがよい!!」


 今にも去っていこうとする老人をナミが「待って!名前もまだ…」と引き止め、老騎士は振り返って己の名を告げる。


「我が名は“空の騎士”ガン・フォール!!そして相棒ピエール!」


 ピエ~~~!と呼応するように鳴く鳥は、老騎士曰く鳥にして“ウマウマの実”を食べた能力者らしい。つまりは翼を持った馬になる、と。その言葉通り背中に大きな翼を有した鳥は馬の形状をあらわにし、そうして目の前には─── 何とも珍妙で微妙でオカシな生き物が現れた。
 翼を有した馬はペガサスと言えるが、全身斑点模様の馬面な生き物のたてがみは固そうで、馬特有の尻尾もどこか翼の形状を残している。シルエットだけならば確かにペガサスですねと内心呟いたクオンはそっと肩の上で微妙そうな顔をしているハリーに囁いた。


「……ハリーは何の実も食べてはいけませんよ」

「いぇっはりゅ」


 びしっときれいな敬礼をしたハリーが固い意思に満ちたひと鳴きを上げる。
 老騎士は「勇者達に幸運あれ!」と声高に言って相棒と共に去っていき、その姿がさらに上空の雲の合間に消えていった頃。おもむろにロビンが口を開いた。


「……結局、何も教えてくれなかったわ」

「……そうだ……ホント……何も」


 呆然とするウソップの呟きにクオンは被り物の下で苦笑した。確かに、彼と話したことでいくらかの情報は読み取れたが、あの襲撃してきた戦士は何なのか、ここからどの方角へ行けば人のいる場所に着けるのか、文化圏の違う空島において最低限気をつけるべきことなど、訊きたいことは山ほどあったのだが重要なことほど何も分からないままだ。


「さて…これからどうしましょうか」


 どこを見ても真っ白い空の海を眺め、被り物越しに落とされた困ったような呟きは、しかしどこか楽しげな響きをしていたことを、ハリーは正確に読み取って小さく肩をすくめた。






  top