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 鋭い気配を放つクオンの懸念は杞憂となり、ルフィの腕から咲いたロビンの手がウソップをしっかと抱え、ロビンの「OK!引き上げて!」という合図に従ってルフィとゾロがウソップを引き上げた。バフッと空の海から現れたウソップを見たクオンが安堵の息をつき、そしてつるりと言葉を滑らせる。


「まるで釣りのようですねぇ」


 ナイスフィッシュ、ではなくナイスヒューマンとでも言うべきでしょうか。そんなことを軽やかな口調で嘯いたクオンの肩の上で、それフラグ、とハリーが思って、


「何かついてきたぞォ!!!」

「いやああああ!!!」

「ウソップを食う気だ!!」


 空の海からガバァッと大きな波を立てて現れた巨大なタコと、平たい体躯を持ったこれまた大きなヘビと魚とウツボを混ぜたような奇妙な生き物の登場に、即刻フラグは回収された。






† 白海 2 †






 ウソップを狙って現れた巨大なタコが獲物を捕らえようと太い足を伸ばす。針を放つよりもゾロが飛び出していくのが速く、そちらはゾロに任せてクオンは横から狙ってくるヘビのような魚のようなウツボのような生き物へ針を放った。
 正確に目を針に貫かれてのけぞる奇妙な生き物が呻きを上げ─── しかし、それは唐突に響いた甲高い破裂音に掻き消された。

 パァン!!と響いた音に全員が目を瞠る。本来なら身がみっしりと詰まっているだろうタコの足は、ゾロに斬られて輪切りになるのではなく風船のように破れたのだ。プシュウ…と破裂音の余韻に紛れて微かに空気の抜ける音がクオンの耳朶を打つ。驚きに瞠っていた鈍色の瞳を細め、クオンはある程度のことを察した。
 成程、確かにここは空島であり、この空に生きるものは独自の進化を遂げているようだ。形の良い唇に深い笑みが浮かぶ。あんな生物がこの空では当たり前なのだ、そう思えば被り物に隠された目が輝くのも仕方がなかった。
 それはそれとして、まずは大変な恐怖体験をしたであろうウソップを宥めてやるとしよう。


「ウソップ、大丈夫ですか」


 ルフィ、ゾロ、サンジがそれぞれ空島の生き物を相手にしてくれている間に、ロビンの能力が解除されて空から降ってきたウソップを危なげなくクオンが横抱きに受けとめる。そっと甲板に横たえて様子を見れば、一見怪我の類はなさそうだが白目を剥き涙を流して茫然自失なウソップの開いた口からは文章にならないか細い呻きだけがこぼれ、ううんこれは重症ですねぇと憐れなウソップの頭をよしよしとクオンは撫でた。さすがのハリーも同情したようで、ウソップの胸元に飛び降りると小さな手でさする。


「うぇ、ひぐ……クオン……?」

「ええ、私ですよ。あなたが無事で何よりです」


 2人を繋いでいたロープをほどいてまとめ、ぶるぶると震えるウソップが傍らのクオンを見上げて僅かに正気を取り戻したかと思えば、ぶわりと涙をあふれさせて「クオン~~~!!!」と叫びクオンの腰に抱きついてきた。危うく巻き込まれそうになって間一髪逃れたハリーがきゅっ!と抗議の声を上げるも、それはウソップの濁った泣き声に押し流された。クオンが苦笑してしがみついているウソップの背中を軽く叩く。


「私とロープで繋いでいたのですから、そこまで怖くはなかったでしょう?」

「だっ、おま、も、おち、そら、うみ、お゛ぢる゛ッ」


 単語すら途切れ途切れに並べるウソップの言いたいことは、何となく察せた。確かにロープで繋いでいたから泳いでいる間は安心できていたのだろうが、空から落ちたことに気づいた瞬間、クオンも一緒に落ちるのかもしれないと思ったのだろう。最悪道連れで落ちたとしてもクオンならウソップごと生き延びることは難しくないのだが、錯乱している状態で諭してもきっと届かない。仲間を巻き込むことなく生還できた喜びと仲間ごと死ぬかもしれないと味わった恐怖に震えるウソップに、クオンは何も言わず泣きじゃくる子供を宥めるようにして頭を撫でた。

 さて、一方の奇妙な生き物達はルフィ達の敵ではなく、2匹はあっさりと沈められて空の海は静けさを取り戻した。
 風船みたいだったタコは一応生物なのだろう、動いていたし生物としての気配があった。雲の中に生物がいるなんてと驚くナミに、ロビンがやはりここは“雲”というより“海”と考えた方がよさそうねと言う。
 男達は平べったいヘビは何だ、ヒラメだ平べったいからな、これがヒラメか……とアホな、失礼、少々頭の足りない会話をしているがクオンはまるっとスルーした。あれが何というのか自分でも分からないのだから、まぁ空のヒラメでいいのかもしれないとどうでもいいことを考える。思考を放棄したともいう。


「うっ、う……クオン、ありが……ギャアアアアアアアア!!!

「うるっせぇな今度は何だウソップ!!!」


 ようやく正気を取り戻しそうになったところで突然絶叫したウソップにサンジの怒号が飛ぶ。クオンの腰から離した手をズボンに突っ込んだかと思えば、「ズボンの中に……!なんかいた……」と1匹の魚らしき生物を取り出した。そのままがくんと力なくくずおれて空島コワイ空島コワイと震えるウソップに、ロビンが同情の眼差しを向けて厄日ねと呟く。クオンはそっと頷いてぴちぴちと甲板で跳ねる魚を手に立ち上がった。


「もしかして、これが“空魚”というものでしょうか」

「ノーランドの日誌にあった“奇妙な魚”ね。おそらく海底のないこの空の海に対して生き残るためにいろんな形で進化を遂げたんだと思うわ」

「ロビンの言う通りでしょう。私の知る魚と比べて随分と薄く、そして軽い」


 興味深そうに空魚を覗き込むロビンによく見えるよう掲げ、よくよく観察してみる。鱗は羽毛のようで、横に広がる口は肉食じみた牙を並べている。内臓はどうなっているのだろうと魚の腹に指を当てるがやわらかい感触が返ってきてよく分からない。
 と、横からぬっと伸びてきた手が空魚を掴んで攫っていくのにクオンは目を瞬かせはしたが抵抗しなかった。食べてみたいとサンジのもとへ一直線なルフィに微笑ましい笑みが浮かぶ。


「それで、風船になったり平たくなったりか?」

「より軽くなるためね…地上の海の水より浮力が弱いのよ、ここは」

「そのあたりのことはあとでウソップに聞きましょうか」


 ゾロの疑問にロビンが答え、言外に先程の恐怖体験を思い出させようと鬼畜なことをクオンはさらりとのたまう。なに、立ち直りの早いウソップのことだ、少しおだてて乗せれば震える口は滑らかに言葉を紡いでくれることだろう。クオンはにっこり笑顔でウソップのことを信じていた。今すぐ叩き起こして訊かないだけ優しいなとハリーは思ったが何も言わない。


「ソテーにしてみた」

「こりゃうめぇ!!」

「まだ検証中でしょ!?」

「可食で毒の類はなし、と」


 ルフィに頼まれてきっちり料理したサンジと己の欲望に素直すぎる船長を怒鳴るナミの横でクオンはひとり頷く。
 怒るナミも何のその、いいから食ってみろとナミに皿を押しつけたルフィは、先程倒した、男達曰く「ヒラメ」を次の食料と定めてあのでけぇのも食ってみようと駆け出し、言われるままソテーを口にしたナミの顔がぱっと輝く。


「あっ!ほんとおいし~~!初めての食感!ほらクオンも!」

「おや、ありがとうございます」


 あまり腹は減っていないが、ひと口くらいなら問題なく入る。クオンは被り物を外すとナミが差し出したフォークに顔を寄せて口の中へ迎え、まるで空気を噛むようでいてしっかりと感触のある不思議な食感に目を瞬かせた。しかし味は最高だ。シンプルな味付けだろうに腕の良いコックの手にかかればたとえ得体の知れない生き物でも絶品になるのだと改めて知ってクオンの唇がやわくほころぶ。おいしいですね、と心からの称賛を紡げばまともにクオンの秀麗な笑みを目にしてしまったサンジが胸元を押さえて膝をついた。いつものことである。

 被り物を再び被ったクオンは空魚のソテーに舌鼓を打つナミを眺め、ふいに訝しげに眉を寄せると軽く肩を回した。何だろう、言葉にできない違和感が空に着いてからずっとまとわりついている。能力を使った反動というわけではなさそうだが。


クオン、どうした」


 軽く首を傾けるクオンに目敏く気づいたゾロに声をかけられて振り向く。相変わらずよく見ているゾロに今更驚きもしない。クオンはゾロのもとへ寄って白手袋に覆われた手を開閉させた。


「何となく、違和感が」

「……痛いのか」

「いえ、痛みは何も。ただ、こう……うまく動かせないような、体が凝ってほぐれていないような……」

「ああ、言われてみれば」


 おれもそんな気がすると言いながらゾロも首をほぐすように回す。
 クオンは意識してゆっくりと息を吸い、吐く。これはもしかしたら空島へ来た影響なのかもしれない。考えてみればここは雲の上、空気が薄い。体に変調が出て当然だ。慣れるまで待つしかないが、もう暫くかかるだろう。


「お───いみんな!!」


 ふいにチョッパーの明るい声が聞こえて振り返る。メリー号の側面に残った、折れた翼の根元に座りチョッパーが双眼鏡を覗いていた。
 しかしみんなを呼んだというのにチョッパーは船、人、と言いはしたもののそれ以降ろくな言葉を紡がず双眼鏡から目を離さない。まとう空気が固くなり、その小さな体が強張るさまを認めたクオンは被り物の下で目許に険をにじませた。
 わぁ!!!と悲鳴のような声を上げて双眼鏡を落としたチョッパーにクオンがすぐさま駆け寄る。


「どうしました、チョッパー。私達以外の船を見たのですか?」

「いや…うん、いたんだけど…船はもう・・いなくて!!」


 傍に寄ったクオンの燕尾服を握り締め、慌てて己が見たものを報告するために紡がれる言葉は要領を得ない。クオンはチョッパーの背中を優しく撫でて「落ち着いて、見たものを教えてください」と宥めるが、あまり効果はないようだった。


「そこから牛が四角く雲を走ってこっちに来るから、大変だ~~~!!!」


 身振り手振りの説明はやはり意味がよく分からない。がくがくとクオンを揺さぶって緊急事態だと伝えようとするチョッパーに、分かんねぇ落ち着けとゾロの鋭い声が飛ぶ。
 クオンは素早く視線を走らせた。船はいた、だがもういない、雲を走って、こっちに来る、牛。牛が何かは判らないが油断ならないものがメリー号に迫っていると分かれば十分だ。クオンの鈍色の瞳に、確かにこちらへ一直線に向かってくる何者かが映った。


「─── 総員警戒!!」


 被り物越しに発された短く剣呑な警報に、全員が表情を引き締める。クオンはチョッパーを抱き上げて甲板へ下り、戦闘態勢を取るルフィ、ゾロ、サンジの3人の後ろに立つと彼らと自分以外を後ろに下がらせた。
 距離があっても届く、確実にこちらへ向けられた殺気と同質の敵意がクオンの警鐘を掻き鳴らす。敵の姿を認めたサンジが誰かが雲の上を走ってくると報せ、クオンは針を構えると鈍色の瞳を剣呑にひらめかせた。


「おい、止まれ!何の用だ!!」


 海面を跳び上がりメリー号へと肉薄した、チョッパー曰く牛を模したような仮面の敵はサンジの制止と問いにただひと言返す。


「排除する」


 低い男の声が耳朶を打つ。仮面にあけられた目の部分から覗くのは濁りひとつない敵意に満ちた男の眼差し。左手には長い盾を携え、右手にはバズーカのような武器。足元には珍しい形状をした、強いて言うならスケート靴のようなもの。あれで空の海を自在に駆けているのだろう。鍛えられ引き締まった肉体に無駄はなく、まさしく戦うためのもの。まるで戦士だとクオンは思い、何があっても対応できるよう神経を研ぎ澄ませ─── 刹那、何かの“声”が頭を貫いた。


『───、――』

(なに)

『─────……、―――』

(なにをいいたい)


 判然としない“声”がクオンの思惟を奪う。目の前ではルフィ達が敵と相対してなすすべなく倒されているのが確かにこの目に映っているのに、クオンの意識はここではないどこかへ導かれて肉体はぴくりとも動かなかった。
 白い痩躯が傾いで膝をつく。誰かが自分を呼ぶ声がしたが、それは耳を通り過ぎて音の残滓すら残らない。愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物の下、鈍色がゆらゆらと揺れて鋼が覗いた。肩の上で被り物に縋りつく相棒の声すら、遠く聞こえない。


『────』

(だれだ)


 “声”が、聞こえない。届かない。誰かの、何かの“声”がひたすらに訴えるのに、この肉体は認識しない。
 違う。聞こえるはずだ。届くはずだ。既に聞き方を知っているはずだ。なのに聞こえないのは、分からないのは、それを忘れてしまっているからだ。
 ─── 思い出せ。忘れるな。こじ開けろ。閉じられていた機能を、開け。


(おしえろ)


 何を言いたい。何を伝えたい。聞いてやろう。伝えてやろう。届けてやろう。だから、――― 教えろ。


『─── 灯を』


 シャンドラの、灯を―――。







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