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 メリー号が渦の中心に向かって飛び出し、どう着水しても呑まれてしまう状況の中、それでもぶれないのがサンジである。


「さぁナミさん!!おれの胸の中に早く!!クオンじゃなくておれの胸に!!!」

「ムリ ヤダ クオン ゼッタイ ハナサナイ」


 死なば諸共、一蓮托生とばかりに腕に力をこめて放さず目を据わらせたナミがサンジをすげなく機械的に切り捨てる。対するクオンはナミの反応が面白いのか、微かに肩を震わせて宥めるように細い肩を撫でた。


「大丈夫ですよ、ナミ。私が何とかするまでもなく、どうにか・・・・なり・・ます・・ので」






† 突き上げる海流 3 †






 まるでクオンの言葉がスイッチになったかのように、唐突に海が凪いだ。大渦の中心に身を投げていたメリー号も危なげなく微かに波立てる海面に着水してその場に漂う。あ?とウソップが間の抜けた声を上げた。
 突然大渦が消えたことに、ルフィ達が困惑して船から身を乗り出して海面を見つめる。ナミもクオンの腕を引いて船べりに近づき、暗い海に無数の細かいあぶくが立っているのを見て冷や汗を流し呆然と口を開いた。


「……違う!…始まってるのよ…!!渦は海底から掻き消されただけ……!!」


 航海士のその言葉に、まさかと誰かがこぼす。そのまさかだ。この静寂は、大爆発の前兆。
 クオンは仲間に船体に掴まるよう言おうと口を開いて、しかし唐突に轟いた男の声に遮られた。


「待ぁてぇ~~~!!!」


 こんなときにいったい誰なのか。聞き覚えのない声がした方を振り返った一同は、そこに太い丸太で組まれた、船と言うよりはイカダと言うべき、しかし立派な海賊旗を掲げた海賊船を見た。
 クオンにはその海賊に覚えはなかったが、ルフィはあったようで訝しげに眉を寄せたかと思えばすぐに思い出し、傍にいたゾロを振り返ることなく呼んで示す。ゾロもまた視線を向け、ああと短く声を上げた。


「ゼハハハハハハハハハハハ!!!追いついたぞ麦わらのルフィ!!」


 大きなオールで漕いでいる男が船の左右にひとりずつ、うねる黒髪の巨躯を有した男が真っ直ぐにこちらを見据え、その男の後ろに控えるようにして、身の丈ほどもある砲身の銃を肩に担いだ男がひとり。クオンの瞳が剣呑さを帯びる。


「あれは…モックタウンにいた…!」


 クオンの腕にしがみついたままナミが言う。どうやら別行動しているときに遭遇した海賊のようだが、ナミの反応的に町で敵意を向けられたというわけではなさそうだ。
 ならば、なぜ今更追ってきたのだろうか。戦闘態勢を取るためにナミをそっと離して背に庇い、指の間に針を構えたクオンの疑問に答えるかのごとく、迫りくる海賊船の船長らしき男が締まりなく口角を上げて宣戦布告を叫ぶ。


「てめぇの1億・・の首をもらいにきた!!!観念しろやぁ!!!」

「……成程」


 どうやらルフィの懸賞金はアラバスタで予想していた通り跳ね上がったらしい。それはそうだろう。彼は王下七武海の一角を落としたのだ、そうならないはずがない。
 だがアラバスタを出て以降は新聞を得る機会はなく、懸賞金が上がったことを知らないルフィが「おれの首?1億って何だ」と首を傾げている。そんなルフィに、男は2枚の手配書を掲げると親切にも教えてくれた。


「おめぇの首にゃ1億ベリーの賞金が懸かってるんだよ!!そして“海賊狩りのゾロ”!!てめぇにゃ6千万ベリーだ!!!」

「おや。ゾロにも懸賞金がついたのですね」


 思わず警戒も忘れて感心の声を上げたクオンが振り向けば、ゾロがにやりと笑って見返してきた。双眼鏡を覗いたウソップが確かめ、慌ててサンジがウソップにまとわりつきおれのもあるだろ!?と訊くが、ウソップは「ねえ」と一刀両断した。確かサンジが相手にしたのはボン・クレーだったはずで、あのオカマはちゃっかりきっちり生き延びたあとでアラバスタを共に脱出し、囮となってヒナ率いる海軍を相手にしてくれたから、サンジの功績は残念ながら明るみにはならなかったのだろう。
 しかし、ゾロにだけ懸賞金がついているのを見るに、おそらくあのMr.1が名が知れ渡っていた男だったのが察せた。サンジはゾロの手配書があるのに自分の分がないことが悔しそうだが、まぁ航海を続けていればそのうち彼の分も出回ることになるだろう。

 懸賞金が1億まで上がったことに喜ぶルフィと、6千万かと不満の声をこぼしつつもへらへらとして喜びが隠しきれないゾロを眺め、そういえば私の分はないのですねと内心呟く。ないのが不満なのではなくて、海軍は“雪狗のクオン”を血眼になって捜しているとクロコダイルが言っていたから、元海兵が海賊になったと知れば当然のように賞金が懸けられると考えていたのだが。


(海軍の不祥事をできるだけ表に出したくなかった?それともまだ自分の手元に取り戻せると思っているのか)


 それならば随分となめられたものだとクオンは目を眇め、しかし違うなと己の考えを否定した。
 明確な根拠はない。けれど直感が断言している。─── 誰かの意図が介入している、と。
 もし生かして捕らえたいのならば「ALIVE ONLY」で手配書を発行すればいい。前例はあると聞いたことがあるからその手段は間違いなく使えるはずだ。なのに手配書そのものを発行していないのであれば、そうとしか考えられない。


「おいおめぇら!!よそ見するな!!!」


 闖入者に気を取られていた麦わらの一味をマシラが鋭く咎める。それに誰もがはっとして現状を思い出した。そうだ、上がった懸賞金に浮かれている場合でも、ましてやあの海賊に構っている場合ではなかった。
 クオンは針をしまうと船の手すりから身を乗り出して海面を見た。メリー号の周りが、僅かに盛り上がっている。


「─── 全員船体にしがみつくか船室へ!!!来ます!!!」


 緊迫した声で指示を飛ばし、全員がそれに従ってそれぞれ船にしがみつく。能力を使ってもよかったが、吹き飛ばされたあとに何が起こるか分からないためできるだけ温存しておきたい。クオンは素早く視線を走らせて目的の人物を視界に入れた。


「ゾロ!!!」

「あ?」

「私をよろしくお願いします!」


 言うが早いか、クオンは一足飛びで船体にしがみついているゾロの懐へと飛び込んだ。うお!?と驚いたゾロがクオンを受けとめて腰に腕を回す。クオンの肩の上で「よろしく!」とでも言うようにハリーがきゅ!と鳴いて短い前足を上げ、何かを言おうと口を開いたゾロはしかし、無言で白い痩躯を抱く腕に力をこめただけだった。
 クオンはしっかり抱き込んでくれている腕の中で体を反転させて甲板を見やり、全員がそれぞれ安全を確保しているのを見て安堵の息をつく。
 次いで鈍色の瞳を強い意志で輝かせた。もし万が一、このまま噴き上がる海流に乗れなかったときは。うまく乗れたとしても、途中で落ちることになったときは。たとえ四肢が砕けたとしても、メリー号も仲間も、絶対にバラバラにはさせない。唯一の懸念点である自分の身はゾロに任せたのだからこれも心配は不要だ。

 クオンの覚悟を悟りながらも、悟ったからこそ何も言えないゾロが痩躯をさらに引き寄せてぴたりと自分の身と重ねた。
 伝わってくる男の鼓動は少しばかり早く、力強い。皮膚の下で脈打つ血潮にあたためられた体のぬくもりは、こんな状況にそぐわないひどい安心感をクオンにもたらした。それに思わずゆるみそうになった気を引き締めた、そのときだ。

 海が、盛り上がって。


 ズドォ…ン!!!


 腹の奥底に響く重い音と共に、空へと噴き上がった。
 痺れるような震動に空気が震える。海から空へ、まるで一本の柱のように貫く海流をメリー号は垂直に走っていく。
 とりあえず海流に吹き飛ばされることはまぬがれた。短く息をついたクオンを抱えたままゾロが前方甲板の方へと器用にのぼり、足元にある手すりに落ち着いて空を見上げる。クオンもまた片腕で抱き上げられたまま厚い雲の向こうを見晴るかすように目を細めた。

 これで空まで行けると歓喜に沸くルフィが羊の船首に座って「行けぇメリ~~~!!」と拳を突き上げる。
 ルフィの希望通りこのまま雲を突っ切って行ければ最高ではあるが、そう簡単にいくものだろうか。クオンは念のため能力でメリー号の状態を確かめ、船底が海流から僅かに浮く様子を感知してやはりかと目許を歪ませた。


「ちょっと待った…!そううまい話でもなさそうだぞ」


 クオンと同じく、船べりから身を乗り出して船底を見たサンジが顔色を変えて船体が浮き始めてると声を上げる。このままでは弾き飛ばされて空から真っ逆さまだ。目の前に迫る危機にルフィ達もまた顔色を変えるが、彼らは振り落とされないよう船体にしがみつくので精一杯。
 ならばあとは自分の役目だと、クオンは右手を上げた。メリー号を“突き上げる海流ノックアップストリーム”に引き寄せて安定させなければ。


「─── 引力シンパ


 オン、と言いさし、クオンはふと動きを止めた。掲げた右手の指の間を、潮風が通り過ぎていく。
 風が吹いている。海から空へ、海流に沿うように、風が。


クオン?」


 能力を使おうとして動きを止めたクオンをゾロが訝しげに呼ぶ。クオンは応えなかった。ただ、その被り物の下、煌めく鈍色の瞳を真っ直ぐ空へと向けたまま身じろぎひとつしない。
 理性が早く能力を使えとせっついている。分かっている。そうしようとしている。けれど何かが、クオンの意思にブレーキをかけていた。


『─── 待って』


 “声”が、聞こえた。


『運んでみせる。飛んでみせる。連れて行ってあげる。だから』


 ゆらり、クオンの鈍色が揺らぐ。耳朶を通らない、頭に直接響く“声”が、確固たる意志を持ってクオンに語りかけてきた。


『信じて。ぼくを─── ぼくたちを』


 クオンは被り物の下で鈍色をひらめかせた。
 視界の端で先程大渦に呑まれた大型海王類が噴き上がる海流から弾き飛ばされて落ちていく。海底にあったのだろう船の残骸や生き物たちもことごとく同じように落ちていき、間もなくこの船もそうなるのだと思わせた。
 しかし、メリー号を信じろと“声”は言う。ぼくたちを、仲間を、この海を越える航海士を、信じろと。
 ああ、ならば、そうしない道理がどこにある。鈍色を拭う鋼が一瞬覗き、しかしそれは被り物をしているため誰の目にもとまらない。


「─── ナミ!!」

「ええ、クオン!!」


 唐突な呼号に、しかしナミは即座に応えた。噴き上がる海流と風をその身に受けた航海士の瞳が鮮烈な光を宿していた。
 互いに問答はなく。指示もなく。視線すら交わさず、己の意思をこめて名を呼び合っただけ。それだけで通じ合った2人は頷き合うことすらせず、けれど確かに互いの意思を疑うことはなかった。


「帆を張って!!今すぐ!!」


 突然のナミの指示に、真っ先に動いたのはクオンだった。ゾロの腕から素早く降りてヤードへと一足飛びで向かう。


「これはよ!ただの水柱なんかじゃない!立ち昇る“海流”なの!」


 意味が分からず困惑する仲間に丁寧且つ手短に説明するナミの声を背に、クオンは無駄のない動きで帆を張った。
 地熱と蒸気の爆発によって生まれた上昇気流である下からの風を受けて煽られた船がまた僅かに浮いたが、クオンは慌てず、また能力を使うこともしなかった。
 帆がしっかり張れたことを確認し、ナミの傍に降り立って彼女に白手袋に覆われた手を差し出す。勝気な瞳がクオンを見て笑みを深め、白い手を掴んでぐっと背筋を伸ばしたナミは、不安の欠片もない、自信に満ちた美しい面差しを仲間に向けて宣言した。


「相手が風と海なら航海・・してみせる!! ――― この船の“航海士”は誰!!?」


 その答えを知らぬ者は、誰一人としてこの船には乗っていない。


「んナミさんですっっっ!!!」


 目を♡にさせてナミに惚れ直したサンジが即答し、ナミの言う通りに動くよう男達に鋭く声を飛ばす。オオ!!と応えが重なり、ナミは仲間から空へと視線を滑らせた。


「右舷から風を受けて、舵はとり舵!船体を海流に合わせて!!」

『イエッサー!!!』


 弾かれたように仲間達が動き出す。クオンもまた、ナミの手を離すと航海士の指示に従うべく白い燕尾服の尾を翻した。
 その最中にもどんどん船体が浮き上がり、海流から離れようとする。チョッパーが焦燥の声を上げ、「落ちる───!落ちるぞナミ何とかしろぉ!!」と悲鳴が響いて、やることを終えたクオンは前方甲板の手すりに音もなく足をつけた。ひょいと手すりにしがみつくナミを上から覗き込む。


「何とかしてあげましょうか?ナミ」


 少しだけ意地の悪い響きをまとわせた、悪戯小僧がにんまりと笑うような声音が被り物を通して低くくぐもってナミの耳朶を打つ。しかし素の声と宿る感情を何一つ取りこぼすことなくナミは受け取り、かつてその提案を受けたルフィがすかさず返した言葉と同じものを、不敵に笑って返した。


「いらない!!クオンは見てて!!」


 クオンの表情は被り物に覆われて見えない。けれど笑っているのが判る。それでいい、それでこそ、と言うように心を弾ませているのが、己が定めた「良いもの」が期待通りの返しをしたことを喜んでいるのが、手に取るように判った。
 メリー号がついに海流から船底を離す。悲鳴がいっそう大きく轟いて、けれどナミは焦ることなく「ううん、いける!!」と強い眼差しで空を睨んだ。積み重ねた知識が、知識を活かして得た経験が、経験に裏打ちされた自信が、航海士という自負が、空へこの船を運べると確信しているのだから。


「え!!?飛んだぁ~~~!!!」


 ――― 果たして、メリー号は空を飛んだ。
 海流が起こす風に乗り、落ちることも噴き上がる海流に叩きつけられることもなく、真っ直ぐ垂直に空へ向かって飛んでいく。


「流石はナミ、素晴らしい」


 ナミという「良いもの」の輝きを目にして上機嫌に秀麗な顔をほころばせ心からの賛辞を紡いだクオンは、すぐ傍までのぼってきたゾロをちらと見やり、しかしすぐに空へと視線を戻した。
 現在鶏仕様な羊の船首へルフィが腕を伸ばして巻きつき、すげぇ船が空を飛んだ!!!と興奮もあらわに叫ぶ。へぇ、と隣から笑みがにじんだ感嘆の声がこぼれたのを聞きとめ、クオンはひとり、我がことのようにふふんと胸を張る。ナミさん素敵だー♡と叫ぶサンジに心から同意した。その通り、うちの航海士は世界で一番すごいのだ。


「この風と海流さえ掴めば、どこまででも昇っていけるわ!!」


 航海士の宣言通り、この船は空島へ至るまで止まりはしない。真っ直ぐ、なにものにも邪魔をされることなく船は往く。
 あの雲の上には、いったい何があるのだろう。何が待ち受けているのだろう。クオンの胸が未知なる冒険を前に高鳴った。


「楽しみですね、ゾロ」


 浮き立つ心のまま、クオンは船体を掴んで体を支えるゾロのあいている手を握り締めて囁く。ゾロは振り返ることはしなかったが、クオンのひとり言じみた囁きを聞き逃さず、握られた手を握り返して、そうだなと短く言葉を落とした。






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