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 それは突然のことだった。
 船を出してから3時間後、予定していたよりも早い時間。チョッパーと共にぼろぼろの乗り物らしきものを矯めつ眇めつしていたクオンは、隣に並ぶ船から上がった焦燥のにじんだ声を聞きとめて顔を上げた。上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物が空を向く。愛嬌があるようで妙に間の抜けた被り物の下、鈍色の瞳がにわかに鋭さを増す。

 慌ただしく両隣の船─── マシラとショウジョウ、そして彼らのクルーが動き始めた。黒い潜水スーツをまとったクルーが次々海へと飛び込み、マシラがショウジョウに「いけるか!?」と訊く。雄叫びを上げて応えたショウジョウがスタンドマイクを構えた。

 無言で前方甲板へと駆け上がったクオンは、すぐそこに迫る厚い雲の塊を認めて目を細める。地獄の入口のようにぱっくりと口を開いた雲の中は闇に包まれて何も見えない。成程、あれが先日の突然の“夜”の原因だったのか。


「あれが…積帝雲…!」


 唖然としたナミの呟きが、猿山連合軍の騒がしさに掻き消されることなく耳朶を叩いた。






† 突き上げる海流 2 †






 マシラとショウジョウ達の緊迫感が伝わったのだろう、何だ何だとメリー号も騒がしくなり、予想より早く積帝雲が現れたとナミが仲間を振り返って教える。まだ海流の位置も判っていないのに、と繋いだ声には不安がにじんでいた。
 ここで麦わらの一味にできることは何もない。海流を探ってくれている彼らを信じるしかないのだ。それでも何かあればすかさず動けるようにクオンは油断なく視線を走らせた。

 誰もが緊張の糸を張り詰めさせる。無意識か燕尾服の裾を掴んできたナミを一瞥し、たとえ何が来ようとも航海士としてこの場から逃げ出すことはできないナミの背をぽんと叩く。決して顔色が良いとは言えない顔をはっと上げたナミに頷けば、被り物越しに目を合わせたナミもまた、唇を引き結ぶと浅く、だが確かに頷きを返した。
 意志に満ちた真っ直ぐな眼差しが波間に向けられ、それでも燕尾服を握り締める手を、クオンは好きにさせる。

 その間も状況は止まらず、ショウジョウが己の声をマイクで増幅させた音波を放ち、その反射音を探知した彼らのクルーが続々と海面に顔を出して報告する。


「反射音確認!12時の方角、大型の海流を発見!!」

「8時の方角、巨大生物を探知!海王類と思われます!」

「10時の方角に海流に逆らう波を確認!!巨大な渦潮ではないかと!!」

「それだ!!船を10時の方角に向けろ!!爆発の兆候だ!!渦潮をとらえろ!退くなよ!!」


 マシラの指示通りに船を動かしたのとほぼ同時、唐突に波が高くなるのを認め、クオンはナミの腰に腕を回して引き寄せた。


「きゃっ!?」

「しっかり掴まってください」


 ゴゴオォオン、と鈍い音を立てて船が大きく揺れる。それでも体勢を崩すことなく真っ直ぐ佇み進路を見つめるクオンの腰に抱きつくようにして腕を回したナミは、今の状況も忘れて「腰ほっそ……」と思わず呟いた。だが波が急に高くなったことで慌てる仲間の声に我に返ってかぶりを振る。男にしては細すぎるクオンの肢体に気を取られている場合ではない。


「ナミ、“記録指針ログポース”を」

「うん!」


 能力を使って倒れることなくナミを支えるクオンに従って左腕を掲げる。ガラス玉の中に収まる“記録指針”の指針を見れば、確かにそれは目の前の積帝雲を指していた。


「……!ずっとあの雲を指してる!!」

「では、あれで間違いなさそうですね」


 被り物越しにこぼれるクオンの声は低くくぐもって感情を窺わせない。それでもその声音は隠しきれない高揚に彩られ、ナミはクオンにしがみついたまま大きく頷いた。


「風の向きもバッチリ!!積帝雲は渦潮の中心に向かってるわ!!」

「おい何だ渦って!?そんなもんどこにあるんだ!?」


 荒れ狂う波間から覗く渦潮を見逃さなかったナミが叫び、ルフィと共に前方甲板へ上がってきたウソップが目を凝らすが、ここからではまだよく見えない。だがじきに見えてくるだろう。


クオン、もう大丈夫よ。ありがとう」


 そっと身を離しながらナミが言い、クオンは振り向かないまま少しの沈黙を挟んで能力を解除した。途端に上下左右に揺れる船に足を取られたナミがたたらを踏むが、それでもしっかりと己の足で立って先を見据える。クオンは反動で引き攣ったように痛む右手を数度開閉して痛みを散らした。


「どうやら今回当たりのようだぞ兄弟!」

「ああ、爆発の規模も申し分なさそうだ!!」


 荒れ狂う波の大きさで爆発の規模が推測できたのだろう、マシラとショウジョウも昂る感情を隠さず言葉を交わし、それを聞いたルフィが「行けるのか!?」と問うて、すかさず「ああ、行ける!!」と返したマシラの船から鉤がついたロープが飛んできて2つの船を繋いだ。それに訝る間もなくマシラが言う。


「渦の軌道に連れていく!!」

「……そしたら!?どうしたらいいの!?」

「流れに乗れ!!逆らわずに中心まで行きゃなるようになる!!!」

「この大渦の!!?」


 ナミの疑問に簡潔に答えたマシラの船に牽引されてメリー号が巨大な渦潮の軌道へと乗る。ロープが外れたかと思えばマシラの船が大急ぎで軌道を離れていくのを見送り、クオンは「呑み込まれるなんて聞いてないわよぉ!!」と叫んだナミが腕に抱きついてきたのを動じることなく受けとめた。それどころか慣れた手つきでよしよしとオレンジの濡れた髪を撫でて囁く。


「まぁ、この渦の中心から空に向かって噴き上がる海流に乗れということなので、呑まれることはないかと。……たぶん」


 爆発が起こる前に呑まれてしまう可能性がゼロではないので被り物の中に消える程度の声音で付け足すが、渦潮の立てる音に掻き消されて誰の耳にも届かない。右肩に乗っていたハリーが目の上に短い前足でひさしをつくって渦潮を眺め、はりゃぁ~とひと鳴きした。
 さて、あとはマシラが言った通りなるようにしかならない。手遊びにナミの髪をいじるクオンには特に緊張感というものはなかった。自然災害を前に人間ができることなど限られている。ならばどうこう騒ぐだけ無駄だ。元よりここに突っ込んでいくのが空島へ至る唯一のルートなのだから仕方がない。


「う~ん……ナミ、髪伸ばしてみませんか?どうにも物足りない感が…」

「でしょうねぇ!!!でも今はそんなこと言ってられる状況!?」


 ナミの襟足を撫でて少し不満げな声をこぼすクオンの腕に抱きついたままナミが叫ぶ。誰と比べているのかは考えるまでもなく分かるが、本当にこの元執事には緊張感というものがまるでない。まだ空島へ行くぞと諸手を挙げて歓喜の声を上げているルフィの方がましだとすら思う。……いや、あれもあれでどうなの。空島に行くまでに死にそうだというのに。


「こう…せめて腰まであると良い感じに…」

「まだ言うか!!伸ばしたらクオンも手入れ手伝ってくれるんでしょうね!?大変なのよ髪長いと維持するの!」

「ええ、それはもちろん」


 被り物越しの声がぱっと弾んだのが判ってしまって、ナミはむぐりと唇を閉ざした。妙に愛嬌があるようで間の抜けた被り物の下にある秀麗な顔が嬉しそうにほころんだのは気のせいではないだろう。ナミの髪質的に伸ばしたらふんわりとしそうですねぇと僅かに癖のある襟足をくすぐられ、白手袋に覆われた指の優しさにため息をつく。そこまで言うなら伸ばしてもいいのかもしれない、なんて思ってしまったナミもまた、その瞬間だけは命の危険を忘れた。
 ――― 目の前で大型海王類が渦潮に呑み込まれて沈むさまを、見るまでは。


「ギャオオオァァオオォ!!オ゛ォアアァア!!!」


 渦潮に体を取られて身動きができないのだろう、長い胴体をくねらせ必死にもがいて逃れようとするが、断末魔のごとき濁った呻きを最後に渦巻く海面に沈んでいった。確かにそこに生き物がいた証明であるあぶくもまた瞬く間もなく渦に掻き消され、残されたのは次の獲物を引きずり込まんとする大渦の口だけ。
 自分達も同様にああなるのだと思わせられる光景に、ナミ、ウソップ、チョッパーが恐怖に塗り潰されて目を見開き絶句する。クオンは腕にしがみついているナミが震えてるのを感じながらおやおやあれでは助からないでしょうねぇとやはりのんびり思うだけだった。


「じゃあおめぇら!!あとは自力で何とか頑張れよぉ!!!」

「ああ!送ってくれてありがとうな~~~!!!」

「待て~~~!!!」


 大渦から逃れたマシラとショウジョウ達に礼を言ってルフィが手を振り、その後ろでウソップが絶叫する。


「も!!勘弁じでぐれぇ!恐ぇっつうんだよ!!帰らせてくれコノヤロー!!即死じゃねぇかこんなもん!!!」

「あ゛ァあああああああ~~~!!!」

「こんな大渦の話なんて聞いてないわよ!!詐欺よ詐欺~~~!!!」


 身も世もなくウソップが泣き叫び、チョッパーがつられて叫び、ナミが真っ青な顔でがくがくとクオンを揺らして、己の危険も察したらしいサウスバードが逃げようにも鎖で繋がれているため逃げられず濁った叫びを上げる。
 その様子を眺めたクオンがしみじみとひと言。


「成程これが阿鼻叫喚」

「感心してんじゃないわよバカァ!!!!」


 眦を吊り上げたナミが怒り任せに横に叩いた被り物がくるくると回る。恐慌状態で腕と言わず全身にしがみついてきたナミの背中を撫でながらクオンは被り物の回転を止めてくれたハリーに礼を言った。
 なんてことをしているうちに積帝雲の下へといざなわれ、辺りはすっかり“夜”だ。同時並行でどんどん渦へと吸い寄せられていく。


「引き返そうルフィ!!今ならまだ間に合う!見りゃ分かるだろ!?この渦だけで十分死んじまうんだよ!!」


 恐怖に身を震わせながらウソップがルフィに説得を試みる。空島なんて夢のまた夢だ、と言葉を重ねたが、おっとそれは逆効果とクオンが思った通り、夢のまた夢……と静かに反復したルフィは、ウソップとナミの思いと相反して、振り返ったその顔をきらきらと子供のように輝かせていた。


「“夢のまた夢の島”!!こんな大冒険、逃したら一生後悔すんぞ!!」

「ふふ、ルフィが楽しそうで何よりです」

「もういやこいつらぁ~~~……」


 クオンにしがみついたままナミが涙を流して呻く。
 緊張どころか楽しそうに顔を輝かせて一歩も引く気が皆無な船長、そのノリをしっかりと受けとめ肯定するクオン。他に止めてくれそうな仲間もおらず、チョッパーすらルフィの言葉に目を輝かせて、ナミとウソップの2人は別の意味で心が折れてしまった。
 つまりは行くしかないのである。しかしそう諦めと覚悟を決める間もなく事態はどんどん進んでいく。


「ほら、おめぇらが無駄な抵抗してる間に…」


 それまで彼らを黙って眺めていたゾロがおもむろに船の外を指差し、ウソップがその先を辿って、


「大渦に呑まれる」


 メリー号が大渦の中心へと身を投げたのを、見た。






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