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「何やってんのよ!あいつったらも───!!!」


 約束の時間を過ぎても戻ってこないルフィに痺れを切らし、腰に手を当てたナミが怒りと焦燥がない交ぜになった声で叫ぶ。


「朝よもう朝!!約束の時間から46分オーバー!海流に乗れなくなるわよ!?大体帰りは金塊持ってるんだから重くて遅くなるでしょ!?そういう計算できてないのよあいつの頭では!!」


 苛々と言葉を並べるナミにハナっから時間の計算なんてしてねぇと思うぞとウソップが返し、「ああ100%な」とサンジがある種の絶対の信頼を元に同意する。クオンもその点は大変に同意だった。口にはしないが。


「なぁクオン。ルフィ、町でやられちゃったのかな」

「さて、どうでしょう。ルフィが負けるとは思っていませんが……予想外に戦いが長引いたのか、戻ってくる途中で何か興味を引かれるものを見つけてしまったのか」


 膝の上に座るチョッパーの帽子に被り物の顎を置いてクオンがのんびりと答える。チョッパーの疑問が耳に入ったのだろう、ナミがクオンとチョッパーを振り返り「負けたら時間に間に合っても許さないわ」と拳を握って眦を吊り上げ、どうなんだよお前はとゾロが呆れた様子でツッコミを入れる。そんな2人に小さな笑みを被り物の中にとかし、周囲に気をめぐらせていたクオンは知った気配を感じて視線を滑らせた。






† 突き上げる海流 1 †






 ルフィが遅れた原因がヘラクレスというカブトムシの捕獲に夢中になっていたことのようで、自慢げに高々と掲げられたカブトムシにゾロ、ナミ、ウソップが「何しとったんじゃ───!!!」と盛大にツッコみ、クオンは被り物の下で彼らしいと苦笑した。だが怪我をした様子はなく、しっかり金塊を取り戻しているところを見るに戦い自体は然程苦戦しなかったのだろう。

 鶏を模したメリー号、通称“ゴーイング・メリー号フライングモデル”に飛べそ~~~!!と目を輝かせるルフィの後ろで、ナミは「私あれ見ると不安になるわけよ…」とため息をつき、まぁそうだなと同意したゾロが「鶏よりハトの方がまだ飛べそうだ」と続けて「それ以前の問題でしょ!バカね!!」とナミが眦を吊り上げた。


「まあ、本人は大変に意欲的のようですし、何とかなるでしょう」

「確かに空島に行きたいって言い出したのはルフィだけど……」


 被り物越しに低くくぐもった声でクオンに言われ、もうひとつため息をついたナミが半眼でルフィを見やる。『任せといて!』という気合いに満ちた“声”はクオン以外の誰の耳に入ることなく流れ、クオンとナミの会話にすれ違いが生じていることを知る者はいない。ただ言葉にできない違和感を覚えたゾロがクオンを一瞥し、次いでメリー号を見て、しかし口を開くことはなかった。


「さぁ船を出すぞ!準備はいいか野郎共!!」

「アイアイサ~~~!!」

「ウォ~~~ホ~~~!!」


 何はともあれ、時間がない。マシラの号令に猿山連合軍が応え、クオン達麦わらの一味も急いで船に乗った。ひとり陸に残ったルフィが背負っていた金塊をクリケットに渡して何やら話しているが、クオンは2人の邪魔をせず出航準備を進めた。
 船の強化の礼にと実にあっさり「ヘラクレスやるよ!」と譲るルフィに猿山連合軍が驚愕と歓喜にざわつき、何となく希少価値のある虫なのだと察したクオンはそれでも虫にあまり興味がないので首を傾けて隣にいるゾロに問う。


「ヘラクレスとは、あんなに喜べるものなのですか?」

「おれは興味ねぇ」

「あなたは刀にしか興味なさそうですしね」

「……そうでもねぇ」


 短く返したゾロを見上げ、男の真っ直ぐな眼差しと鈍色の視線がかち合う。被り物越しではあるが、気のせいではなかった。逆方向に首を傾けたクオンが疑問符を浮かべているのは分かっているはずの男はそれ以上何も言わずに視線を前に戻す。クオンは少し考え、そういえばお酒も好きでしたねと合点がいって両手を軽く叩いた。ひとり満足げなクオンの右肩の上に乗ったハリネズミがくわりと欠伸をこぼす。
 そのとき、クリケットの号令が轟いた。


「猿山連合軍!!ヘマやらかすんじゃねぇぞ!!たとえ何が起きようと!!こいつらのために全力を尽くせ!!!」


 その言葉に、どこか嬉しそうにルフィが笑みを浮かべ、「よし!行こう!!」と船に飛び乗る。
 クオンは錨を上げるのをゾロに任せて手早く帆を張った。メリー号のもとに歩いてきたクリケットがルフィを見上げて声をかけているのが聞こえ、被り物の下で笑みを深める。

 クリケットは言う。黄金郷も空島も、過去誰一人“無い”と証明できた者はいない。“無い”ことが証明できないのならば理論上は“ある”。だがそれをバカげた理屈だと人は笑うだろうとクリケットも分かっていて、それでも「結構じゃねぇか!!」と笑い飛ばした。


「それでこそ!!“ロマン”だ!!!」


 誰に笑われようと果てしない夢を追い求める。真実無かろうがあろうが構わず、心のままに。それをロマンと彼は言い、クオンはそれは良いと微笑んだ。

 最後に取り戻してくれた金塊の礼を深い感情を乗せて紡ぎ、空から落ちてくるんじゃねぇぞと背中を押してくれたクリケットにルフィは歯を見せて笑う。
 マシラとショウジョウの船を追い、風を捉えたメリー号もまた陸から離れた。見送ってくれるクリケットにそれぞれ感謝と激励と希望と忠告を麦わらの一味が述べ、おっさん無茶すんなという忠告にはクリケットは「余計なお世話だぁ!!」と素早く切り返した。

 徐々に陸にいるクリケットの姿が小さくなる。それでも彼はそこから動かない。メリー号が見えなくなるまでそこにいるのだろう。クオンは遠い彼の姿に背を向けて、これから往く空を輝く鈍色の瞳で見上げた。






 心は逸るが、目的の海流が発生するだろう地点に到達するまでに4時間ほどかかると言われ、ずっと気を張っているのも疲れると各々好きに過ごすことにした。
 マシラとショウジョウに先導されて船は順調に進み、天候は航海士であるナミが見張ってくれている。
 クオンは中央甲板で床に腰掛けモックタウンでもらった小説を読んでいたが、然程厚くない小説はすぐに読み終えた。サンジが料理をすると言っていたからそちらを手伝おうかと腰を上げかけたところでチョッパーに声をかけられる。


「なぁクオン、これってもう動かねぇのかな」


 そう言って、ルフィ達がサルベージで持ち帰ってきたものの甲板の端に放置されていたガラクタの山の中からチョッパーが指したのは、ぼろぼろに壊れた乗り物らしきものだ。
 持ち上げてみれひどく軽い。湾曲した底と、小舟の床板の下に至るほど柄の長いハンドル。軽く触れてみれば左右に動いたが、車輪がないのでどういうふうに連動しているのかが判らない。気になるのは両側面につけられた大きく短い筒で、覗き込めば何かがはめ込まれているのが見えた。


「……火拳殿が乗っていた小型船の類のようにも見えますが、動力源は何なのでしょうか」


 クオンがうーんと首を傾げ、右肩に乗ったハリーとチョッパーも同じように首を傾げる。見つけた時点でこの状態なので、悪魔の実の能力が動力源だったとしたら、変換機は既に壊れてなくなっているのかもしれない。だとすれば直しようがなかった。
 筒の中にある何かも汚れていてよく分からない。取り出すには解体する必要がありそうだが、一度解体してしまえば元に戻すことは不可能だろう。さすがのクオンでもお手上げだ。
 だが、知識が豊富なロビンでもこれを見ても何の反応もしなかった。ということは、おそらくこれは空の乗り物なのでは─── そう考えたとき、クオンの脳裏に閃くものがあった。


「『スキーのような一人乗りの船』、『ウェイバー』……」


 それは、ノーランドの航海日誌に書かれていた文言。クオンの直感は、これ・・そう・・だと言っている。確かに見た目は「スキーのような一人乗りの船」に相違ないが、果たして。
 それともうひとつ。直近で似たような文章を読んだ覚えがあるクオンは傍らに置いていた小説を開いてページをめくった。海賊王ゴールド・ロジャーの船員から聞いた話をまとめた冒険譚。この本にある空島に関する記述は少ない。だが確かにその中に。クオンはあるページで手を止めた。


『空島特有の乗り物は扱いが難しい。特に一人用のあれはすぐ波に舵を取られる。あいつも勇んで乗ってみたがすぐに振り飛ばされて海に沈んだ。ざまぁ。指差して笑ってたらウェイウェイだっけか、そいつが勢いよくおれに突っ込んできたのは解せない。あと結局そのバーウェイだったかに乗ってあのアホを拾いに行く羽目になったのがおれなのも解せない』


 相変わらずいち船員が船長に抱くには不遜な態度は一貫しているので流し、よくある胡散臭い三文小説の文章と類稀なる正直者であるノーランドが記した航海日誌の文章の奇妙な符合に目を細める。正反対な性質をしているはずなのに、これではまるで、楽しみはしても決して真に受けることはなかった冒険譚が事実のような───。


(いえ、結論を出すにはまだ早い)


 クオンは内心で首を振って小説を閉じた。可能性は捨てきれないが、筆者がたまたまウェイバーという乗り物を何かのタイミングで知って組み込んだのかもしれない。
 小説に記述された空島に関する文章はまだあるが、それが果たして事実なのか、確かめる良い機会でもある。嘘八百の三文小説であるなら必ずどこかに矛盾が生じるだろう。そういえば、小説の中に空へ至る方法は書かれていなかったが、「死ぬかと思った」と感想が綴られていたから、もしかしたらこれから死ぬような目に遭うのかもしれない。いや、“突き上げる海流ノックアップストリーム”に乗って空へ行くので間違いなくこれから死ぬような目に遭うのだが。

 顔も知らない筆者を頭に思い描き、クオンはウェイバーというのかもしれない乗り物を不思議そうに見つめるチョッパーを見下ろして、何はともあれまずは空島なる場所へ辿り着いてからだと、知らず浮かんでいた笑みを引き締めた。






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