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「おいクオン、それ飲む前にこれ食え」


 チョッパーの前に降ろされ、治療を大人しく受けたクオンが痛み止めを飲もうとしたときにサンジからそう声がかかり、差し出された皿に載っていたのは小さなパンケーキが2枚。焼き立てのパンケーキには溶けかけた小さなバターがちょこんとのり、つやつやのハチミツがたっぷりかけられて甘い匂いが被り物を通して鼻孔をくすぐる。添えられた蜂の巣は蜜を含んで淡い陽の光を反射していた。
 かろうじて無事だったクリケットの家のキッチンで作られたそれに、いつの間にと思いながらも素直に受け取る。ナミとロビンは既に食べ終えていたようで、とても美味しかったわよと2人が微笑んだ。






† ジャヤ 14 †






 クオンが貢がれたワタバチのハチミツと蜂の巣を使った朝食兼用のパンケーキを食べるために被り物を外そうとして、察したナミがひょいと外して抱える。礼を言ったクオンは腰を下ろしたままフォークに手を伸ばした。
 小さなパンケーキは小食なクオンに合わせたサイズだ。ふっくらと厚みのあるそれにフォークを入れれば大変にやわらかく、4分の1ほど切り分けてハチミツをすくい、バターもつけて口に含めば芳醇な甘い香りが鼻を抜け、唇で挟んだパンケーキのふわふわとした食感がたまらず、クオンは鈍色の瞳を幸せそうに蕩けさせて秀麗な顔を花開くようにほころばせた。
 う゛っ、とクオンの反応を窺っていたサンジが見事撃ち抜かれて膝からくずおれる。男のくせに、という悪態すら吐くこともできず蹲るサンジを眺め、嬉しそうだなァとクオンの頭の上に乗ったハリーが小さく鳴いた。
 ちなみに視界の外ではこっそりガン見していたマシラとショウジョウもまたひっくり返っているが、慣れたことなので誰も反応しない。クオンを囲むように麦わらの一味が陣取っているから、パンケーキに夢中になっているクオンも気づく様子はなかった。


「相変わらず顔が良いわね……」


 サンジ同様に胸を撃ち抜かれて頬を赤くしたナミが被り物に顎を乗せてこぼし、かぶりを振って熱を散らすとクオンが眠っている間に起こったことを教える。ゾロから簡潔に聞いていたクオンは詳細を聞いても怒りをあらわにすることはなく、大怪我を負ってはいるが命に別状はない様子の3人を振り返って「命があって何よりです」と微笑んだ。よろよろと復活しかけていた2人が再び地に沈み、クリケットは目を細めて大きく紫煙を吐く。


「ご安心ください。大丈夫ですよ、ルフィなら」

「……そうか」


 クリケットの傍らにある灰皿が山盛りになっているのを一瞥したクオンがさらに笑みを深めて断言し、揺るぎない美しい顔に浮かぶ絶対の信用と信頼を目の当たりにしたクリケットが少しだけ肩の力を抜く。
 再びパンケーキに視線を戻したクオンの耳に、「それにしても遅いわね……」とルフィが駆けて行ったのだろう海岸沿いを振り返って呟くナミの声が届く。
 ルフィが金塊を取り戻しに行ってから、ナミと約束した3時間近く経っている。そう大きくない島だ、走っていったのなら往復にはそこまで時間はかからないはずだが。何かあったのかと浮かんだ疑問はふわふわパンケーキの美味しさに流された。大変においしい。おいしいからまぁいいか。うまうま。腑抜けた顔で頬張るクオンを見下ろしたハリーは、相棒が幸せそうなのでオールオッケーである。

 さて、いかな小食のクオンといえど小さなパンケーキにはあまり苦戦せず、然程時間もかけずにぺろりと食べ終えた。残る蜂の巣は中にたっぷりとハチミツが満ちて濃い色を晒しており、ハチミツ漬けにされていたため少しやわらかくなってはいたが、フォークで刺せばサクリと小気味よい音がした。
 ハチミツがかかったそれを迎え入れるために口を開く。その際に気をつけてはいたもののハチミツが垂れて、口に含むと同時に唇の端からこぼれた。
 フォークを持った手の甲で拭おうとして、白手袋をはめていることを思い出す。替えはあるがどうしようかと逡巡している間に粘度の高いハチミツがゆっくりと垂れていき、慌てて舌で拭おうにも微妙に届かない。仕方ないので汚れることを覚悟して手を上げようとしたとき、横から男の手が伸びてきた。


「ん」

「……」


 形の良い唇の端ににじむハチミツを優しくゾロの親指が拭う。視線を上げれば隣で身を屈めたゾロと目が合って、次いでゾロの指を見下ろしたクオンはハチミツがついたそこに唇を寄せると躊躇いなく舐めた。
 反射だった。何も考えず、口元にある男の指を濡らすハチミツに吸いついて舌で拭う。じゅ、とも、ちゅ、とも聞こえる小さなリップ音が2人の間に響いて、人間の肌のしょっぱさがにじむ甘い残滓すらきれいに舐め取って唇を離し、目を見開いて固まるゾロに気づくと首を傾げた。


「ゾロ?どうしました?」

「……何でもねぇ」


 何とも形容しがたい、強いて言えば物言いたげな表情でクオンを見下ろしたゾロが深いため息をついて腰を伸ばす。そのまま海岸の方に目をやるのを見上げ、口の端からハチミツを垂らすなど子供のような醜態に呆れられただろうかと思うが、そういうわけではなさそうだ。舐められて不快感や嫌悪感を覚えたわけでもないと見え、それならいいかとクオンは深く考えないことにした。それよりも完食した皿をサンジに見せてお礼を言わなければ。


「サンジ、ご馳走様でした。大変に美味しかったですよ」

「そりゃ何より。ああ、立たなくていい、座ってろ」


 後片付けくらいはと腰を浮かしかけたクオンを制したサンジがクオンの手から素早く皿とフォークを奪い取る。ハチミツはまだ残っているようで、今度はゼリーかアイスか、ピザにしてもいいなとひとりごちるコックに鈍色の双眸をきらきらと輝かせれば、あまりに素直な反応にふっと小さく噴き出してやわらかく笑ったサンジがわしわしと雪色の頭を掻き回すようにして撫でた。


「良い子にしてりゃ、とっておきを食わせてやるよ」


 まるっきり小さな子供相手の物言いだが、また絶品を出してもらえる期待にクオンの美貌があどけなくゆるむ。その表情は男相手には辛辣なサンジが「可愛い顔しやがって」と思うほどのもので、口元はやわくほころび形ばかりの悪態すら出てこなかった。


「食後のお茶は何にするか……確か紅茶は飲まねぇんだったな」

「ええ」

「ならコーヒーだな。ちょっと待ってろ」


 最後にぽすぽすとやわらかくクオンの頭を叩いてクリケットの家に向かうサンジと、怪我人を立ち上がらせないために膝に乗ってきたチョッパーを優しい手つきで撫でるクオンを順に見て、白い猫を模した被り物を抱えたナミは深いため息をついて隣に佇むロビンに顔を向けることなく心からの呟きを落とす。


「あんな顔されちゃ、望むもの何だってあげたくなるわよねぇ……」

「執事さんが貢がれ上手なわけが分かった気がするわ」

「あんなふうに誰が見ても分かりやすく表情をくずすようになったのは執事を辞めてからよ」


 王女の執事であるという意識がクオンの本来の気質を覆い隠していた部分もあったのだろう。当然ビビもそれを知っていたに違いなく、クオンはビビとふたりきりのときだけにあんなふうな顔を見せていたのだと察することはできた。


(……そういえば、執事を辞めたのに何でまだ燕尾服を着てるのかしら)


 ふとそんな疑問が浮かんで、けれどクオンが脱がないのであればわざわざ口に出す必要はないかと思い直す。絶対に燕尾服でないとダメというわけではないことは以前の療養期間で知っていて、なのにあれを着続けることをクオンが選んでいるのならそれでいいだろう。

 それよりも問題は我らが船長、ルフィだ。ベラミー達に敗けるとは思っていないが、あまり遅くなれば空島へ行けなくなる。絶好の機会を一番行きたがっていた船長自ら失くすことになるのだ。
 ここまできたからには空島へ行くしかない。だというのにルフィはまったく何をしているのか、まさか寄り道なんてしてないわよねと湧き上がってくる苛立ちを散らすために、ナミは美味しいものを食べて満足げにぽわぽわしているクオンを愛でて気分を紛らわせようと被り物を抱え直した。






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