176





『───……!』


 誰かに呼ばれた気がして、深く沈んでいた意識を僅かに浮上させたクオンは小さく唸って眉をひそめた。朝の気配は近いが、それよりもまだ眠気が勝る。脳裏に直接響くそれから逃れるようにして寝返りを打って枕に顔をうずめた。ぺたりと枕に頬をつければあたたかく、浮上しかけた意識がまたふわふわと落ちていこうとしたのを、誰かが必死に呼び止める。


『……!ねぇ!寝ないでクオン!!起きて!!クオン!!!』

「む……」

『おはよー!朝!朝だよコケコッコー!!!ううんまだ朝じゃないけどもうほとんど朝みたいなものだよおはよー!!!』


 何だろうこの盛大な目覚ましは。テンション高く頭の中に響く“声”と共にコンコンコンカンカンコンゴンゴンガンと木槌で固いものを叩く“音”がして、金属音ではないそれが急速にクオンを覚醒へと促した。むずがる子供のように耳をふさぐが、白手袋に覆われた手をすり抜けて“声”はクオンの聴覚に直接語りかけてくる。


『おはよー!コケコッコー!!ほら!!見て!!!すごいんだ!!』

「……こけこっこー……?」


 止まない目覚ましの“声”に根負けしたクオンが不承不承瞼を開く。眠気を帯びた鈍色の瞳が胡乱に揺れ、“声”に導かれるまま視線をめぐらせれば、船体の横には大きな翼が、船尾は尾羽のように湾曲に垂れ、船首の羊にはトサカがついて、どう見ても鶏仕様に改造されたゴーイング・メリー号が目に入ったクオンは数秒の沈黙ののち、


「…………ぐぅ」

『寝るなー!!!』


 夢を見ているのだと判断して瞼を下ろし、再び盛大な“声”に叩き起こされた。






† ジャヤ 13 †






 しつこい“声”に根負けして仕方なく瞼を開ければ、頭を置いていた枕が誰かの足だと気づいて目を瞬かせる。誰のものだと思ったのは一瞬で、慣れてよく知ってしまった少し高い体温の持ち主に即座に思い至った。軽い欠伸をこぼして視線を上げれば、暗い色が薄まっている空を背にこちらを見下ろす緑の男と目が合う。


「……おはようございます」

「ああ、おはよう」

「船は無事改造…強化…?が済んだようですね」

「鳥も捕まえたからとりあえず準備は済んでる。あとはルフィだけだ」

「……?なぜルフィ?」


 目は覚ましたが身を起こすことなくゾロの足を枕にごろごろとしたクオンが首を傾ける。女のものと違って固い膝枕だが文句は言わずに転がっていれば、寝返りを打った拍子に乱れた髪をゾロの武骨な手が梳いた。目を細めたクオンの疑問に答える低い声が降ってくる。


「おっさん達が町の海賊……ベラミーっつったか、そいつらに襲われて金塊を奪われたからな、それを奪い返しに行ってる」


 途端、眠気を吹き飛ばし柳眉を跳ね上げたクオンは体に力を入れ、しかし身を起こすことなく胸で沸いた激情を散らすように深い息を吐いた。
 どうやら酔っ払って眠りこけている間に色々とあったらしい。
 ルフィが行ったのなら自分が出る幕はない。クロコダイルに勝ったルフィが今更こんなところで燻っている海賊に敗けるはずもなく、すぐに金塊を奪い返して戻ってくるだろう。
 朝までに帰ってこなければ空島に行くチャンスを失うが、まぁ寄り道さえしなければ大丈夫だ。夢を見ない町にルフィが興味を引かれるものなどないだろうし、この森に住む虫や獣は大きいがそれだけで、問題はないと判じたクオンはもうひとつ息を吐いて、しっかりフラグが立ったことには気づかなかった。なにせクオンは、ルフィが珍しいカブトムシに目の色を変える少年だとはまだ知らないので。

 横になったままぐっと伸びをして固まった体をほぐす。目を覚ましたからか、すっかりクオンの頭に響く“声”は鳴りを潜めて、クオンは半眼で鶏仕様のメリー号を一瞥した。くすくすと密やかに笑う“声”が波が立てる微かな音と混じって消えていく。それきり“声”は静かになった。


クオン、夜が明ける」


 ぼうとしているところにかけられた声に促されて水平線を見やる。白みつつある東の空から、音もなく太陽が姿を現した。
 夜の残滓を塗り潰すような朱金が空を彩り、朝焼けの紅と混じって紫の帯が刷かれ、しかしそれもすぐに白く薄められていく。朝を告げる陽の眩しさに鈍色の瞳を細めたクオンは海の果てから目を逸らさなかった。

 やがて、その輝く円が完全に姿を現した頃。クオンはゾロに礼を言って身を起こした。と、腰に何か白い布がかかっていたことに気づいてそれに手を伸ばす。広げて見れば大きいフードがついた裏地がカーキ色のシンプルな白いマントで、これはアラバスタで購入し、気に入ったためにそのまま国を出る際に持ってきたものだ。
 眠ってしまったクオンのためにゾロがわざわざ船から持ってきてくれたのだろうか。首を傾げるクオンの様子に気づいたゾロが答えを口にした。


「それはハリーが持ってきた」

「おや、それは大層難儀したことでしょう」


 畳んで置いてはいたが、メリー号の男部屋からここまで、あの小さなハリネズミの体躯で運ぶのは相当苦労したはずだ。あとでねぎらって甘やかしてやらねば。


「……あの女が手伝ってはいたけどな」


 苦い顔をして続けたゾロを見上げ、クオンは無言で視線を滑らせて麗しい黒髪の美女を捜し、すぐに見つけた。大きな切り株のテーブルの周りに据えられた小さな丸太のイスに怪我の治療を受けたクリケットやマシラ、ショウジョウの3人が腰掛けていて、彼らを囲むようにルフィと自分達を除く麦わらの一味が佇んでいる。その中で凛と背筋を伸ばしているロビンの肩の上に乗ったハリーがくしくしと毛づくろいをしていた。ロビンがハリーをじっと見つめ、静かに指を伸ばせば、気づいたハリーがかぷりと甘噛みして小さく鳴く。きゅっとロビンの唇が引き結ばれたのが見えた。

 その光景を眺めながら、クオンは考える。
 さて、ロビンが手伝ってくれたということは、えっちらおっちらとクオンのためにマントを運ぼうとするハリーを見かねて己の能力で咲かせた手でハリーを運んでやったということだろう。あるいは高さのある橋を作ってあげたか。
 相棒であるクオン以外は基本的にどうでもいいが、クオンが大切に想う麦わらの一味には愛想を振り撒いてあげるつもりがあるハリネズミはそれを機にロビンもその対象にしたようだ。クオンが呼んだらすぐさまロビンの肩を飛び降りてこちらに来るのだろうが、ハリーと戯れるロビンの横顔がやわらかく見えたのでそのままにしておくことにした。

 クオンがすぐに朝焼けを見れるようにわざわざクリケット達や仲間と離れた場所で膝を貸してくれていたゾロを振り向き、白いマントを羽織りながらもう一度礼を言う。ゾロは微笑むクオンを見下ろして「ああ」とひとつ頷くと腰を上げた。クオンも同じく立ち上がり、燕尾服についた砂を払って左手で懐から取り出した被り物をいつものように被ろうとして、一瞬動きを止めた。


「───、……」


 左腕をそっと下ろし、被り物を右手に持ち替えて被ったクオンは、刺すような視線を感じはしたものの気づかないふりをした。被り物に隠された表情がまずったと雄弁に告げているがそれは誰の目にも映らない。マントを整えるふりをしながら何事もなかったように飄々と佇み、こちらを睨むように見ていたゾロから全力で視線を逸らした。


「……」

「……」

「…………」

「…………」


 お互い無言のまま並び立つ。細く息を吸ったクオンはそのまま足を踏み出そうとして、


「選べ。ここでひん剥かれるか素直に教えるか」

「…………何で気づくんですかねぇ」


 容赦の欠片もない低い声の脅しに情けなく眉を下げた。さっさと左腕を出せとまで言われては取り繕うのも無駄と悟り、ため息を被り物の中にとかして渋々左腕を持ち上げる。途端、ぴきりと鋭い痛みが走って唇の端が引き攣った。
 間違いなく酔っ払っている間に反動も構わず能力を使ってことによる損傷で、けれど心配をかけさせたくない上に自業自得に治療を願うのも申し訳なく、針の1本でも打って隠しておこうと思ったのだが。
 素直にジャケットとシャツの左袖をまくって包帯が巻かれた左腕を示せば、包帯の下にある青黒い痣が濃くなっていることを悟ったゾロがクオンの右手を掴んで真っ直ぐチョッパーのもとへと歩を進める。
 ゾロに手を引かれるまま素直に歩くクオンの耳朶を、男の低く真剣な声音が厳かに叩いた。


「いい加減怪我を隠すのを諦めろ。心配をかけさせたくねぇってのは分かるが、信用されてねぇみたいで気分が悪ぃ」


 思ってもみなかった言葉に、クオンの鈍色が瞠られて瞬く。


「……そういうつもりは、なかったのですが」

「だろうよ。そんくらい分かってる。おれもあんまりひとのことは言えねぇ自覚はあるが……」


 言いさして、ふいに足を止めたゾロが振り向いた。クオンも足を止めて真っ直ぐに強い眼差しを見返す。まさしく剣士に相応しい刀のような美しく鋭い目が、クオンを射抜いていた。


「約束しろ、クオン。おれにだけは怪我を隠すな。痛いなら痛いって言え。どんだけ取り繕おうが隠し通そうが、おれは絶対ェ見逃してやらねぇからな」


 その言葉通りに、クオンは何度もゾロに己の状態を見抜かれてきた。本当に些細な仕草を見逃さず、ゾロはクオンの核心をいつも突いてきたのである。
 だが癒えない首の傷を抱えていたとき、隠し通そうとするクオンの意を汲んで口を閉ざしてくれたこともある。すべてをあのときのように黙っていてくれるとは限らないが、医者であるチョッパーにだけ伝えることはあってもむやみやたらに吹聴はしないという確信があって、だからクオンは、煌めく鈍色の瞳を被り物越しにゾロへ向けながら頷く代わりに言葉を返した。


「……では、ゾロ。あなたも約束してください。あなたが負った傷を、痛みを、私にだけは隠さないと」


 それは、今までクオンが敢えて踏み込むことはなかったゾロの深部だ。ひたむきに強さを追い求めるゾロの弱さとも言うべきそれを晒せとクオンは言う。
 私にだけ。だから、私もあなたにだけ。言外に伝えられる囁きはどこか甘さすらにじませていたことに、クオンは気づかない。

 被り物越しの声は低くくぐもり抑揚が削がれて感情をあらわにしない。けれど素の声がどれだけ真摯さを帯びているのかをゾロは疑わず、提示された交換条件を聞いて一度目を閉じ、開いて、クオンの右手を握る手に力をこめた。少し低い体温が自分のものと混じり合い、触れ合った箇所からとけていくような心地を覚える。


「─── 約束だ」

「……ええ、約束します」


 契約書などない、だが互いに破ることを自身に許さない口約束が厳かに結ばれる。それはまるで生涯の誓いのようだと聞く者に思わせただろうが、その声が第三者に届くことはなかった。


「早速ですが、ゾロ」

「何だ」

「左腕がとても痛くて頭痛もしてきました」


 今まで取り繕っていた虚勢をすべて消し去り、被り物の下で情けなくへにょりと眉をハの字にしたクオンが疲労感もあらわに肩を落としてゾロに凭れる。
 昨夜の自分は酔ったテンションで結構能力を使ってしまった。サウスバードを追い詰め、襲いかかってきたクマを退けては身重の彼女のために栄養のある魚や動物を狩った記憶はしっかり残っていた。アルコールに侵された脳は痛みをうまく認識できなかったようで、寝た分だけ多少回復はしているが、今更痛みがぶり返している。
 取り繕えないほどではない。何でもないように装うことは可能だ。けれどそれをやめろと言われて頷いたのだから、クオンは正直に己の状態を吐いた。


「分かった」


 ひとつ頷いたゾロは凭れかかるクオンを見下ろし、掴んでいた右手を離すと白い痩躯を躊躇うことなく抱え上げた。左腕一本で支えられ、被り物を被った頭を肩に置いたクオンも遠慮せず全身から力を抜いて深く息を吐く。
 己に身を任せるクオンの力なく垂れた左腕に負担がかからないよう、できるだけ揺れを抑えて歩を進めたゾロは、「チョッパー!患者だ!」と小さな船医へ向けて声を張った。






  top