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 ふわふわ、ふよふよ、ぽわぽわ、何とも気分が浮き立って気分が良い。
 「良いもの」を見つけた。空島へ行ける。腹は十分すぎるほどにくち、甘いお酒は少ししか飲めなかったが口に合った。落ち着く気配とぬくもりを傍らに眠りにつけた。気分が良い。
 空島へ確実に行くためにはサウスバードという変な鳴き声の鳥が必要だと言う。ならば捕まえよう。鳴き声は覚えた。姿形は判らないが、声を追っていけば辿り着ける。

 枝から枝へ、木から木へ飛び移りながらクオンは捜す。嘴が大きな鳥が鳴いていたから近づけばなぜか襲いかかってきた巨大な虫達は殴り飛ばし蹴り落とし針で貫いて標本にし、慌てて逃げる変な鳴き声を辿って駆け続けた。にこにこ笑顔で走って追った。体が揺れるたびに酔いが全身を駆け巡ってさらに頭をふわふわとさせて、美しく朗らかな笑みが無邪気に深まる。捕まえたらみんなはよろこんでくれるでしょうか、なんて子供のように胸を期待に膨らませてひたすらに追った。


「ジョ~~~!!ジョジョッ、ジ……ジョアァアアッ!?」


 どんなに虫達をけしかけても悲鳴ひとつ上げずにこにこにこにこにこにこ笑いながら追いかけてくる真っ白い人間に恐れ慄いたサウスバードが目を剥いて悲鳴混じりに逃げ出すのをクオンの肩の上から眺め、捕まるのが先か心が折れて屈するのが先か、どっちだろうなぁと傍観に徹しているハリーは相棒を止めることなくやれやれと首を振った。






† ジャヤ 12 †






 さて、クオンを欠いた麦わらの一味は3手に分かれ、過程は諸々あれど最終的にロビンの活躍によって何とかサウスバードを捕獲することに成功した。


「執事さんの方はどうしようかしら」


 己の能力を使ってサウスバードが逃げられないよう捕らえながら暗い森を眺めたロビンが呟く。闇に浮かぶ白はさぞ目立つだろうが、視界のどこにも映らない。捜すにしてもこの広い森ではひと苦労しそうだ。


「要はハリーを呼べばいいんだろ?なら任せとけ!」


 ぐっと親指を立ててそう言ったのはウソップだった。おもむろに肩からさげたがま口バッグを開いて取り出したのは、一見ただの小さな細長い銀色の縦笛。「なんだ、犬笛か?」とサンジが胡乱に目を細め、ウソップは「それをハリー用に改良したやつだ」と笑って返した。暇なときに作っててよかったぜと続けたウソップが笛を咥え、おそらく鳴らしているのだろうが、人間の可聴領域を外れた音階はこの場にいる誰の耳にも届かない。

 数度笛を鳴らしたウソップが笛を口から離して耳をそばだてる。それに倣ってルフィ達も無言で耳を澄ませ、吹く風に木の葉が揺れる音に混じり、小さな何かが近づいてくる音を聞いた。
 ざざ、ざ、ざざ、ざざざ。すぐ傍に迫ってきたそれに気づいたチョッパーがはっと顔を上げると同時、聞き慣れた声が落ちてきた。


「はりーぃ、きゅっきゅあ」

「ハリー!うん、みんないるよ。サウスバードも捕まえた」


 木の幹を伝ってするすると降りてきたハリーに、チョッパーが地面に転がるサウスバードを示す。ハリーはつぶらな黒い瞳を瞬かせ、ひとつ頷くと自分が駆けてきた道なき道を振り返った。


「りっ!」

「『来い』……って、何が?」


 高く鋭いハリーの鳴き声は、まるで号令のように夜の森に響き渡る。首を傾げるチョッパーの訳に他の仲間達も首を傾げ、その中でひとり、唯一無事な網を手に持っていたゾロが眉間にしわを寄せた。その脳裏にはアラバスタでクオンへ服従を誓ったワルサギの姿がよぎる。おいまさかと内心で唸るよりも早く、静けさに包まれていたはずの森に虫の羽音が反響して耳朶を打った。
 チョッパーの傍を離れたハリーがひょいひょいとゾロの肩にのぼって羽音の方を向く。じとりと見下ろしてくるゾロの視線は気づいているくせに素知らぬふりで、そういうところはクオンの相棒らしい。


「何だありゃ?……雲?」


 ウソップが怪訝そうにこぼした通り、白い雲のようなものが空中を滑ってくるのがゾロの視界にも映った。だが羽音が近くなるにつれてその正体がはっきりと判り、サンジがげっと盛大に嫌そうな声を上げて顔を歪めた。


「違ぇ、蜂だ!」

「蜂ィ!?」


 ブブブブブ、ブゥゥン、と細かな羽音を立てて近づいてくる白い蜂の群れに、つい先程まで森の中で巨大な虫達に襲われていた面々が反射で身構える。
 蜂の大きさは普通の蜂と違って明らかに巨大だ。人間の頭部よりも大きい蜂は全身が真っ白く、ふわふわとしていそうな毛に覆われている。ずんぐりとした体躯はお世辞にもスマートとは言えないが、左右3本ずつの太い手足が力強さを感じさせた。背中に生えた半透明の羽が奏でる音は人間の神経を逆撫でしそうだが、意外にも優しい調べで耳朶を叩いて聞く者に不快感を与えない。見ようによってはルフィとチョッパーが遭遇したクマバチにも似ているそれが無数に集まり巣のような大きな丸い玉を形成していて、いつ襲われてもいいよう腰の刀に手を添えていたゾロは、その玉が人ひとりは包めそうなものだとふいに気づいた。……そう、クオンくらいの痩躯ならばすっぽりと収まるだろう、それ。


「おい!クマまで来てるぞ!!いや───!!サンジ君助けて!!!」


 蜂の群れの下、のしのしと森の奥からやってきた獰猛な肉食獣に気づいてウソップが叫ぶ。マシラやショウジョウと並ぶほどの大きさのクマはしかし、身構える人間達を認めても静かな眼差しを返してさらに近づいてくる。


「はりぃ、はりりーきゃうん」

「『あれらは大丈夫、クオンの下僕だから』って……は?」

「なんて?」


 平然とゾロの肩の上で口を開いたハリーの言葉を通訳したチョッパーがぽかんと口を開いて目を見開く。蜂に加えてクマまで現れ怯えていたウソップが思わず真顔になって訊き返した。ハリーは表情を変えないまま『蜂とクマ、クオンの、下僕』と繰り返す。のを、チョッパーが呆然としながら訳した。
 予想だにしていなかった言葉に警戒心が削がれたところで蜂球という名を持つ蜂で形成された玉がゾロの頭上に迫り、それがまるで薬玉のようにぱかっと割れ─── 中から真っ白い人間が落ちてきた。


「あ、クオン


 どこかに行っていた酔っ払いを見てナミが呟き、重力に従い落ちてきたクオンを網を放り出したゾロが危なげなく受けとめて横抱きにする。
 見るからにもこもこふわふわな蜂に玉の中であたためられていたのだろう、低い体温を持つはずのクオンはいつになくあたたかく、秀麗な顔を覗き込めばあどけない寝顔を晒していた。煌めく鈍色の瞳は白い瞼の下、規則正しい寝息を立てるクオンが起きる気配はなく、深い眠りについている。
 だが蜂の玉から解放されて体が冷えていくのを嫌がるように身じろいだクオンはむにりと口元を小さく歪め、傍にある男の体温を求めて頬を寄せ接着面を増やすためかさらに身を寄せてきた。肩口に落ち着いたクオンの頭をハリーがよしよしと撫で回す。


「ガフ、ガウガウ」

「『これ、ご主人様への献上品の蜂の巣のハチミツ漬けです。皆さんでどうぞ』だって」

「え~~~!?いいのか!?」

「おい待てこいつに渡すな、これはおれが預かる」

「『こちらは少しですがワタバチのローヤルゼリーとなります』」

「どうでもいいけどクマのくせにやけに丁寧だな」

「あの蜂、ワタバチっていうのか~」


 人間などひと振りで叩き潰すことができるだろう太い両腕に大切に抱えた、蜜蝋でできたカプセルに蓄えられたハチミツにルフィが目を輝かせ、早速手を突っ込みそうになるのをサンジが慌てて止めて代わりに受け取る。受け取ってもらえればそれでいいらしいクマは残念そうな顔をするルフィを気にすることなく次いで小さなカプセルをサンジに渡し、警戒する必要がないと知って近くに寄ってきたウソップがまじまじとクマを見上げ、その足元にいるチョッパーが空中で躍るようにブンブンと飛び回っている白い蜂を見上げて感心の声を上げた。


「『あとこちらが私が獲った子持ち鮭です』……いやどんだけあるんだよ!?」

「こんなにもらっちまって、お前らは大丈夫なのか?」

「ガウ」

「『問題ない』って」

「……やっぱり執事さん、貢がれ上手よね」


 突然消えたと思えばワタバチの群れとクマを献上品と共に引き連れて戻ってきたクオンは現在すよすよと夢の中だ。
 眠るクオンを抱えるゾロの周りにワタバチが集まり、思った通りもふもふのふわふわな毛がゾロの肌をくすぐる。ゾロの肩や足にとまるワタバチの手足は意外とやわらかな弾力性があり、精巧なぬいぐるみと言われても頷けそうなほど。気づけばゾロとクオンを中心に再び蜂球が形成されつつあり、ハリーはさっさと逃げ出してチョッパーの帽子に飛び乗った。


「で、何がどうなって蜂とクマを下僕にすることになったのよ、ハリー」

「はりりはりきゅあきゅーりはりゃる」


 ナミに問われて淀みなく身振り手振り答えるハリー曰く、


『追いかけてたサウスバードが心折れたところを捕まえたのがワタバチの巣の近くで、そこに最近ワタバチの巣を襲って占領してたこのクマがいて、縄張りに入ってきたクオンを獲物とみなして襲いかかってきたのを瞬殺したらワタバチにものすごく感謝されて、クマがもうすぐ仔が産まれるからとクオンに命乞いしたから今後一切ワタバチの巣を襲わないことと巣周りの護衛を約束させて解放したら何か知らんけど下僕になった』


 らしい。

 お前メス!?とウソップとルフィが目を剥き、やっぱあいつが執事ってのァ無理があったんじゃねぇのかと呆れ混じりにサンジが紫煙を吐く。ちなみにクオンが捕まえたサウスバードはウソップに呼ばれた瞬間用がなくなったのでその場に置いてきたとのこと。今後はワタバチの巣周辺でワタバチとクマと共存していくだろう。話を聞いていた地面に転がるサウスバードが「ジョアア~~~!」と抗議するように鳴いたが全員まるっと無視をした。

 予想とは別方向にやらかしていたらしいクオンを腕に抱いたゾロが吐息のようなため息をつく。クオンのことだ、貢がれた分と同等程度には彼らに何かしらを与えてきたのだろう。何なら身重のクマのために栄養のある食べ物を集めて渡すくらい、クオンの俊足があれば容易だ。まさか能力を使ったんじゃなかろうかと半眼で見下ろすが、きっちり白い燕尾服に包まれていては判然としない。起きたらひん剥いてでも聞き出そうと腹に決める。


「随分と無防備に眠るのね」


 もふもふのワタバチに囲まれたゾロとクオンのもとにやってきたロビンが微笑みながらクオンの寝顔を覗き込む。遠すぎず、しかして近すぎない位置で足を止めた彼女の笑みは穏やかだが、いまだ何を考えているのかさっぱり分からない。今のところ敵意がないことは判るが信用があるわけでもなく、ゾロは鋭い眼光でロビンを見据えながらクオンを抱える腕に力をこめる。クオンはどうにもこの女に気を許している節はあるが、だからといって自分もそうなれるわけもない。


「そう警戒しないで。─── 彼女・・に何もする気はないわ」


 笑みはそのままに、後半の言葉をゾロにだけ届く声音でロビンがひそりと囁く。帽子の陰から覗いた瞳は思慮深い光を宿して、他の誰にも口外する気がないことは読み取れた。


「……“雪狗”だったこの子と会ったときは、こんなふうに眠るなんて想像もしたことがなかった」


 ロビンはクオンに女らしい細い指を伸ばし、頬に触れようとして動きを止め、そっと己の指を握り締めて苦笑する。笑う姿すら考えられないほどだったのよと己の記憶を振り返るロビンからクオンへとゾロは視線を滑らせた。
 あどけなく、幼い子供のように眠るクオンが“雪狗”として海軍でどんなふうに生きてきたのか、当然ゾロには分からない。だが多少察せる部分はある。それを鑑みれば、確かに雪狗と呼ばれた海兵を知っているロビンの言うように今のクオンは何もかもが意外に映るだろう。

 記憶を取り戻すと決めたクオンは、元海兵として、“雪狗”としての己にケリをつけるときが必ず来る。それがいつになるかは分からないが、“偉大なる航路グランドライン”を進むほどにその未来が近くなっていく確信があった。それはおそらく、クオンも自覚している。


「この子は、どちらが本当なのかしら」


 薄い微笑みをはりつけ、ロビンはクオンを見下ろす。嘯くような声音に好奇心は欠片もなく、だが微かな探求心の響きが乗っていることに気づいたゾロは眉を寄せて小さく舌打ちした。


どっちも・・・・だ」

「?」


 端的な返しに首を傾げるロビンを一瞥し、クオンを片腕に抱え直して頬に流れた横髪を払う。腕にかかる重さからして、クオンはいまだ目覚めていない。この調子なら夜明けまで眠り続けるだろう。
 髪と同色の睫毛に縁取られた瞼の下にある瞳は鈍色だ。けれどその最奥には鋼が息づいている。それのどちらが「本当」なのか、などと考える意味などどこにもない。さらに言えば時間の無駄だ。なぜならこのふたつは矛盾をはらみながら破綻することなく確かに存在していて、そのどちらもがクオンなのだとゾロはとうに認めている。
 しかしそれをわざわざ丁寧に説明する気にはなれず、怪訝そうに見つめてくるロビンに穏やかとは言い難い眼差しを返してすぐに顔ごと視線を逸らした。そのままクマやワタバチと戯れる船長のもとへと歩を進める。


「ルフィ。鳥捕まえてクオンも戻ってきたんだ、こんなとこさっさと出ようぜ」

「そうだな、おっさん達も待ってる!」


 ゾロの進言にルフィが即座に頷き、じゃあ戻るぞー!と号令をかけてクルーがそれに従う。ゾロは自分とクオンにまとわりつくワタバチを引き剥がしてしっしと手で払った。ワタバチは名残惜しそうにクオンの周りを飛んで顔を覗き込み、だがハリーにきゅいきゅい鳴かれるとすぐさま身を翻して森の奥へと消えていく。そのあとを、ゆっくりと歩き出したクマが追った。
 ワタバチとクマからの貢ぎ物は人型を取ったチョッパーが、地面に転がるサウスバードの足をサンジが持って先頭を行くルフィについていく。ナミとロビンがその後ろに続いて、最後尾を歩くゾロの肩の上にハリーがのぼって落ち着き、麦わらの一味は指令を果たして意気揚々と森を後にした。






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